精神科面接の神髄は「聴くこと」にあるといわれる。特定の心理療法を採用するとしないとにかかわらず、精神科医療のすべては患者の言葉に耳を傾けることから始まるといってよい。そして患者の言葉に耳を傾けて聴くというのは、この場合、患者の言葉の〈意味〉を共有しようとする努力を指している。
言葉の意味といっても、個々の単語の標準的な意味は「国語辞典」に書いてある。それをつなぎ合わせた文章の意味は「文法」によって規定されている。その限りにおいて言葉の意味は公共的な性格のものであって、それをあらためて共有しようとする努力など必要のないことだと考えられるかもしれない。
しかしそのようにしてアプリオリに共有ずみの公共的な言葉の意味と、治療者に共有への努力を求めるある一人の患者の言葉の〈意味〉とではそこに大きな ── 精神医療にとっては決定的ともいえる ── 位相の差異がある。
(略)
しかし言葉というのものは、そのつど特定の誰かが、特定の誰かに向けて特定の話題を伝達するための道具である。この誰かが言葉を語るとき、それは常に「語る主体」であるのだが、この主体は決して三人称的に客観化できない一人称で主観的な主体である。その誰かの言葉を聞く誰かについても、まったく同じことがいえる。一人称的主観的な主体の語る言葉を一人称的主観的な主体が聞く、言葉の交わされる現場の実情はつねにこのような構造になっている。
(略)
語の意味が記号としての語そのものにアプリオリに含まれているのでなく、話し手とと聞き手との相互関係という〈場〉において多様に解釈されうるという経験は、パースの三項関係の記号論を連想させる。パースは周知のように、記号とその指示対象を一対のものとする従来の二項構造と違い、この両者にそれを媒介する「解釈」という第三項を加えた三項構造を考えた。パースによると《記号、もしくはレプリゼンタメンとは、なんらかの点で、あるいは何らかの能力において、誰かに対しある何ものかを表意するものをいう。それは誰かに話しかける、つまりその人の精神のなかにそれと同等の記号または多分もっと発展した記号を生む。それが生むそのような記号のことをわたくしは最初の記号の解釈内容と呼ぶ。その記号は何ものか、その対象を表意する》。
パースによれば《たがいに理解できる共通の意味または解釈思想 ── すなわち第三項の媒介 ── がなければコミュニケイションは成立しない》のであって、彼はこの媒介mediationのことを「中間性」betweenness つまりわれわれの言い方では「あいだ」とも呼んでいる。
ただ、パースとわれわれの大きな違いは、彼がこの第三項を第一項、第二項といわば同一平面上で考えていることである。したがって彼のいう解釈項は《それ自体がまた新しい記号となって、それと対象をつなぐもう一つの解釈項を生み、それはまた新しい記号となって更に次の解釈項を生んで・・・記号と対象と解釈項という三項関係が無限に生ずる》(有馬道子)ことになる。これに対してわれわれのいう〈あいだ〉は、語やその標準的な意味内容(ないし指示対象)とは位相の異なった次元にあって、それ自体がさらなる記号となることは絶対にない。むしろ公共的・三人称的に固定された語やその意味内容と、間主観的に共有されうる〈場〉で〈意味〉を生み出す〈位相差〉(これをハイデガーに倣って「存在論的差異」と呼んでもいい)を見失わないことこそ、現象学的精神病理学にとってはその死命を制する要務なのである。
(略)
〈場〉には〈場〉固有の主体性が備わっていて、これがその場で行動する個人の主体性の動向に大きな影響を与える。そしてその場合、その個人が何をどのように語り、相手の言葉をどのように受け取るかを決定的に方向づけるのは、場の主体性と個の主体性との〈あいだ〉の緊張関係だといってよい。話し手と聞き手の相互関係を「水平的な〈あいだ〉」と呼ぶなら、この緊張関係は「垂直的な〈あいだ〉」と呼ぶことができるだろう。
(略)
このことは客観的な知覚の対象に用いられる個別感覚(いわゆる五感)の底にあって、状況全体との実践的な関係を司っているアリストテレス的な意味での共通感覚 sensus communis が、時代がくだるにつれて共同体内部での個人の行動にかかわる常識common sense の意味に転化してきたこととも深い関係があるだろう。常識とは決して外面的・公共的な規範ではなく、深く内面的間主観性に関わる状況感覚のことなのである。
ー 木村敏『関係としての自己』第Ⅵ章「〈あいだ〉と言葉」より135-141P
(下線・太字Takeo)
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