2020年7月18日

変わらないもの


季節のせいか、いっときほどではないにしろ、朝まだき、夕間暮れには屡々小鳥のさえずりが耳を楽しませてくれる。何という鳥かわからないが、うぐいすのような声で華やかに啼いている。わたしにとってはなににも勝る音楽である。

そんな折、江藤淳の随筆を読んでいて、ある文章に、わたしの子供の頃から今に続く伝統が引き継がれていることを知り、いたく感慨を深めたのであった。

以下彼の随筆『夜の紅茶』(1971年)より抜粋引用する。1971年といえば、わたしが小学校2年生。その当時出版された本である。



そういえば昔おぼえた萩原朔太郎の詩に、

ふらんすへ行きたしと思へど
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広を着て
気儘なる旅に出てみん
というのがあった。この伝でいくなら、

ゔぇけーしょんをとりたしと思へど
ゔぇけーしょんはあまりに贅沢らし
せめては原稿用紙とぺんをかかえて
軽井沢へでも逃げ出さん

とでもいうことになるか、という次第で、わたしは軽井沢の山小屋にやってきたのである。

(略)

私の小屋のある千ヶ滝の東区というところは、小鳥の多いところである。御近所に別荘のある、慶應の言語文化研究所の鈴木孝夫教授などは、人間の言葉だけでなく小鳥の言葉の権威でもあるので、どの鳴き声がどんな鳥のものか、たちどころにあててしまわれるが、私に聴きわけられるのはカッコウとウグイスぐらいのもので、あとは名前は知らないが夕方やって来て、堺正章みたいな声でさわぎ立てるのがいるのを印象にとどめているくらいのものだ。
それでも私の耳には、小鳥の声はなによりもまず小鳥の声らしく聴こえるのである。ところがこのごろの若い人たちの耳には、かならずしもそうは聴こえないらしい。このあいだ泊りがけで遊びに来たお嬢さんは、朝いっせいに小鳥が鳴き出すと、
「あら、どこかでテープが回っているみたい」
と、ひとりごとをいった。「テープじゃなくて、本物の小鳥ですよ」というと、びっくりして、どうしてもテープに聴こえて困るという。彼女が通勤の途中で乗り替える大きな駅では、毎朝テープで小鳥の声を流しているので、どうしても条件反射がおこってしまう、というのである。
このお嬢さんばかりではない。同じ日のお昼ごろにやって来た青年も、小鳥の声を聴くと反射的に、「あれはテープですか?」といったものだ。それならきっと、この人たちの脳裡には、小鳥の声が聴こえるたびに、ラッシュ・アワーの駅の光景が浮かんでいるにちがいない。なんということだと、わたしはいたましいような気持ちになってしばらく言葉が出て来なかった。
駅長さん、お願いですからテープで小鳥の声を流すのはやめて下さい。そうしないと日本の若い人たちの耳が、自然のなかにやって来ても、自然からはじき出されるような耳になってしまいます。(1971年8月26日)



今日駅ビルの中の眼科に行った。眼科は3階にあるのだが、エスカレータに乗った時にいつものように「エスカレーターにお乗りの際はベルトにつかまりステップの中央に・・・」といったアナウンスが聞こえない。これはなにかコロナによる客足の影響なのか。いずれにしても、静かな、音のしないエスカレーターというのには生まれて初めて乗ったような気がする。方々でこのような静けさを獲得できるのであれば、「コロナさまさま」だな、と感激していたが、何のことはない、診察を終えて処方してもらった薬をもらって下りのエスカレータに乗る時に聞こえてきたのは「良い子のみなさん。エスカレーターの駆け下り駆け上りは大変危険ですから・・・」なあんだ、なんにも変わってないじゃないか。









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