2020年7月29日

無題・・・


過去の投稿を読んでいたら、当時まだ「Nostalgic Light」というブログをやっていた頃、時々立ち寄ってくれていたドイツ在住の女性のコメントを見つけた。

「サン=テクジュペリ」に関する投稿である。
彼女はわたしの投稿する絵や写真、音楽の趣味の良さを褒めてくれていた。
しかし、やがてわたしのブログが「ぼく自身或いは困難な存在」になり、投稿内容も次第に暗くなっていくとともに姿を見せなくなった。

そして先程ある別の日本の女性からのコメントを読んだ。彼女はコメントを非公開にしてほしいと言った。そしてこのようなメッセージを送ることに随分躊躇した、と。
わたしを気遣うコメントであった。なんとか励まそうとしてくれていた。何度も、自分の言っていることが気に障るかもしれない、わたしの気分を害するかもしれないと謝罪しながらの文章だった。

それはあきらかに「ぼく自身或いは困難な存在」の投稿に対する必死のコメントだった。

そのコメントは一昨年のものだが、今改めて読み返し「コメントをしない読者は真の読者ではない」というわたしの言葉は明らかな誤りであり根拠のない誤解であったと痛感している。

いまでもわたしは「趣味がいい」「センスいいね」と思われるようなブログを作りたいという欲がある。色気がある。また一方のMさんのコメントを読むと、もっともっと自己の裡に沈潜していくべきなのかとも思い、暢気に絵や写真を投稿している場合かと悩み、しかし現実にわたし自身が海外の「アート・ブログ」に心慰められていること等をこもごも思い、千々に心乱れる。

趣味がいいと言ってくれたドイツ在住の女性を、また心の底からの言葉を送ってくれたMさんを、そして底彦さんを、Junkoさんを、ふたつさんを、瀬里香さんを、わたしは常に裏切り、失望させ続けてきたのではないか・・・

二階堂奥歯とブログのことを考えると、「たかだかブログで、裏切るも幻滅もないだろう」と軽く流してしまうことはできない。
現にわたしはブログこそが「自分の生きている証し」であると語っている人を何人か知っている。

「会者定離」とはいえ、以前瀬里香さんとも話したが、あまりにも「さよならだけ」が人生ではないかと思い辛くなる。

わたしのセンスを愛でてくれた人、

わたしの苦しみに真正面から応えてくれた人、

そしてタンブラーで今でもわたしをフォローしてくれている人、わたしの投稿を喜んでくれる人に、また母に、そしてひょっとしたら、未だにいるかもしれないこのブログのひそかなる真の読者に、嘗て、そして今現在わたしが傷つけてきた(いる)人たちに、わたしはいま、いったい何を返すことができるのだろうか?



L'attesa / The Wait, Alessandro Battaglia. Italian (1870 - 1940)
- Oil on Canvas - 





5 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    毎朝, Takeo さんのブログ「ぼく自身あるいは困難な存在」とアートのブログ「Clock Without Hands」を見るのが日課になっていますが, 後者のほうは 7 月 22 日を最後に更新されていません.
    そのかわりに絵画や写真は「ぼく自身あるいは困難な存在」のほうにも投稿されるようになっています.

    全体としてブログの雰囲気が変わっていますね. 何というか以前より気楽に読むことができるように感じます.
    また, 新しい試みの結果として, 読む喜びが増したようにも感じられます.
    私にとっては二階堂奥歯さんを読むときに感じられる感覚に通じている気がします.

    以下では, 気に留まった三つほどの最近の記事を通じて, Takeo さんのブログに私が感じたことを書いてみようと思います.

    -=-=-=-

    写真と引用の記事で良かったと思うのは「いつでも、どこでも」です.

    窓縁で, リビングで, 楽屋などの場所で本を開く女性を捉えた写真が連なっています. どんな場所, どんな状況であっても本を読む人の姿は落ち着きと静かな空気感, そして美しさを感じさせますね.
    どの写真も素晴らしいですが, 電車の中で本を読む女性の写真は特に印象に残ります.
    私自身が電車の中で本を読むため, 写真の女性と自分を重ね合わせてしまうのでしょう.

    ベルリオーズとパティ・スミスの言葉が引用されていますね.

    > "Time is a great teacher, but unfortunately it kills all its students."
    > — Hector Berlioz - Letter, November 1856
    >
    > 「時は偉大なる教育者だ、だが悲しいことに、それはすべての生徒を死者にしてしまう」
    > ーエクトール・ベルリオーズ(書簡、1856年)
    >
    > "Please, no matter how we advance technologically, please don’t abandon the book. There is nothing in our material world more beautiful than the book."
    > — Patti Smith Acceptance speech, National Book Award 2010
    >
    > 「お願いだから、どんなに技術が進歩しても「本」というものを放棄しないで。
    > 私たちのこのマテリアル・ワールドで、本以上にうつくしいものは存在しないのだから」
    > ーパティ・スミス(「ナショナル・ブック・アワード」受賞スピーチ、2010年)

    パティ・スミスの言葉には強く同意します. 本は美しいです.
    もう一方のベルリオーズの言葉を本と結びつけるならば, 本は時の流れに沿って残り続ける教育者だと言えるかも知れません.

    残念なことに, ネットと比べられることによって本が持つ美しさは見落とされてしまう傾向があります.
    本というものが情報の媒体としてのみ扱われたとき, ネットと同一の世界線上でそれは効率・スピードといった点から一段低く見られてしまう場合があるのです.
    もっとも, 私はネットのほうが優れているとされる効率やスピードにおいても, 本が勝っているかも知れないと思うことがありますが.

    本の価値はそれが含んでいる情報のみではありません. 一つの本には積み重ねられた膨大な読む行為・考える行為の歴史が伴っています. その微細な一部がネット上の情報として形になっているに過ぎません.
    そのようなことは無いと断言できますが, もし本のネットへの全面的な移行が行われてしまうと, それらの蓄積は失われるでしょう.

    敢えてそのような視点に立つとき, この記事は失われつつある何ものかを本に託して提示していると見ることもできるのです.

    Takeo さんは失われつつあるもの・失われてしまったものをブログの中でよく取り上げますね.
    何かが変わらずに残る・残すということは大変難しいことです. 利便性や生産性に重きが置かれた世界においては, 小さな個別性や唯一性といったものは排除されていきがちです.

    自然の風景や, 古い建物, 職人の技術など, 失われてしまえば二度と元には戻りません. 取り返しのつかない破壊を加えられたものに対して, その微かな痕跡や存在した空気を, 不思議なことにこの場所では感じることができます.

    -=-=-=-

    「グレン・プリース、 オーストラリアン 1957年生まれ / Glen Preece. Australian, born in 1957.」という記事では, 画家グレン・プリースの作品が何点か投稿されています. この記事は絵のみで構成されていて, Takeo さん自身の言葉も誰かの文章の引用もありません.
    挙げられた絵はどれも印象的なもので, この記事を見る読者は小さな画廊を訪れたように感じるかも知れません.
    画廊と言えば, 上に引いた「いつでも、どこでも」も本を読む女性の写真をテーマにした小ギャラリーの展示のようですね.

    多くの人びとが, 美術館に行かずとも数々の作品をネットで「鑑賞」することができるようになりました.
    検索を行うことによって好みの絵画や写真を選んで楽しむことができます.

    けれども, ここにあるグレン・プリースの作品たちは, ネットで検索した絵の単なる集まりではなく, 小さくはあるけれど「美しくあるように」という意図に支えられた「展示」であると思います.
    それを感じたために「画廊」という言葉を使いました. ここには穏やかな, 絵画を鑑賞し楽しむことのできる空間が確かにあります.

    こういった空間を構築するのはとても難しい作業だと思います.
    何らかの主題に沿って或いは沿わずに, ましてネットの中において作品を選び, 配置し, 展示するのは相当に骨の折れることでしょう.

    Takeo さんは楽しみながらそれを行っているのかも知れませんが, 私から見るとその多彩さと蓄積に驚きます.
    この空間は, Takeo さんという人間が, これまでにこういうものを見て歩んできたのだという時間性に裏打ちされています.

    私はこの記事を通じて Takeo さんに一層の親しみを覚えました. 心を豊かにしてくれるようでもあります.

    -=-=-=-

    「「個」と「状況」との〈あいだ〉」という記事を読んでいろいろなことを考えました.

    この記事は木村敏氏の『関係としての自己』からの引用のみで構成され, やはり Takeo さん自身の言葉はありません.

    その内容は, 木村敏氏の哲学的な思索の結果として生まれた〈あいだ〉という概念についての説明です.

    話し手と聞き手の相互関係としての「水平的な〈あいだ〉」, 個人が存在する世界である〈場〉の主体性と個人の根源にある〈自己〉の主体性との「垂直的な〈あいだ〉」について述べています.
    木村敏氏は〈あいだ〉の概念をこの記事でも言及されているようにハイデガーの「存在的差異」の概念と結びつけ, 精神病とは〈あいだ〉の不調・崩壊により〈個〉の実存が脅かされると言っていたと思います.

    たとえば, 分裂病 (木村敏氏に倣ってこの言葉を使います) は〈あいだ〉を構成する〈場〉と〈自己〉から, 〈自己〉が喪失されることによる存在の不安であるというように解釈されます.

    なぜこの論考がここで引用されているのでしょうか?

    一つには, 記事のタイトルが示す「個」と「状況」の〈あいだ〉に対する Takeo さんの絶望に近い危機感があると考えられます.
    Takeo さんは, 「状況」は少しづつではあっても確実に悪い方向に向かっていると感じているのではないでしょうか. 私もそう感じます.
    それは「個」を不当に蔑ろにして押し潰そうとする方向に進んでいます.
    〈あいだ〉が破壊されてしまいます.

    この「状況」には主体性を持った〈場〉は無く, 〈個〉との対話は不可能です.

    ここに Takeo さん自身の「個」に対する深刻な問いかけが浮かび上がってきます.
    私たちは如何にして「自己」を保ち得るのか, それ以前になぜ「自己」として存在し続けようとするのか?

    そしてもう一つ, Takeo さんが意図したかどうかに関わらず, この文章は「ぼく自身あるいは困難な存在」というブログを象徴していると読めるのです.

    Takeo さんと世界との〈あいだ〉, 読者と Takeo さんとの〈あいだ〉, それらは一体何ものだろうか, どのような在り方をしているのだろうか?

    そんな思索の試行錯誤が展開されていると思います. 読者もまたその思索への参加者です.

    -=-=-=-

    ここで取り上げた Takeo さんのブログのほんの一端である三つの記事を含む膨大な記事の集まりはそれぞれに印象的なものだと思いますが, それらは全体としてネットの中に不思議な温かい空間と時間を形作っていると思います.

    このような〈場〉がここに在るということは, 人とのコミュニケーションに不安と恐怖を覚えながらも触れ合いを模索する〈個〉── 私がそうなのですが ── にとっては, 間違い無くとても心地よいものだと言えるのです.

    個人的なことを書けば, 「詩」「絵画」「哲学」「本」, そして「他者との触れ合い」が無ければ私は生きていけないでしょう.
    そういうものがこの場所には息づいていると思います.
    読んでいる一時, 支えてもらっているような感覚があります.

    これからもこの場を訪れるのを楽しみにしています.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      長文の、そして具体的な感想を伴った相変わらずの充実したコメントに感謝します。

      アート・ブログとTumblr、そして「ぼく自身・・・」との掛け持ちが難しくなってきています。絵を、写真を、それのみを単独で投稿することに(今の気分では)飽き足らなくなってきているのです。過去にこのブログを継続して「書いて」いた時、(遡って、「楽天ブログ」からになりますが)一時、アートから離れていた時期があります。Clock without Hands への投稿はなくなり、Tumblrにも気が向いた時に、という感じでした。未だかつて、アートブログと文章を書くことが、完全に同じ水位、水準で両立していた時はないのです。
      どちらかに比重がかかれば、一方がおろそかになる。これは致し方のないことで、その時々にどちらを選ぶか、という選択の問題になります。

      そのような過去の経緯とともに、今現在のわたしの心理状態が嘗てなく危うい状況であるという点もあります。ここでいま改めて書かずとも、このブログの底流に常に流れている主題が、最早「通奏低音」=伏流ではなくなっているということ。それは最近の投稿にも、顕著とは言えないまでも、これまでとは相貌を変えて顕われているはずです。

      これまで両立し得なかったアートと文章を、ここで両立させようという今の試みも、片方だけでは最早存在を支えきれないという事情が背後にあるのかもしれません。「存在」とは、すべてのブログの存在であり、同時にそれを書いているわたし自身の「存立」です。
      文章だけでも、アートだけでもダメ。その結果として、現在の形に至っているのかもしれません。



      さて、底彦さんの指摘されている画廊、ギャラリー形式ですが、以前Myspaceで、イタリアの女性から、「ひとつのテーマにひとつの絵なり写真にして欲しい」と言われたことがあります。
      他の女性にも「Less is More」 と言われました。それほどまでに、この複数投稿はわたし好みのスタイルなのです。無論好みは人それぞれですが、わたしは久し振りにMyspace時代に戻った気がしています。

      フェイスブックなどで、それこそ多彩なイメージを投稿している人を見かけますが、それらを眺めていても、その背後にいるはずの「ひと」が見えてこないし、匂わないのです。

      わたしが感心し、またライバル視するのは、なにを投稿しても・・・それこそわたしの投稿が嘗て褒め言葉としてEclectic (折衷的)と呼ばれたように・・・どんな投稿であっても、どこをとっても、「その人らしいな」と感じさせるブログです。
      それが詩であろうが絵画であろうが、写真であろうが音楽であろうが、やはり「この(その)ブログらしい」のです。
      それがわたしが引用した「私は私の言葉しか話さない。たとえそれが他人の言葉であっても」という言葉に込めた気持ちです。



      「本」というものも、それが「物」として美しくもあるのです。その美しさは、もちろん博物館に展示されているような美術品としての「本」や、古書店で、0が2つほど多い値段で売られている「希少価値」という以上に、より精神的な美意識に負うところが大きいのですが、ボロボロになった一冊の文庫本が、それゆえにうつくしいのです。
      それは到底「電子書籍」などという代物で代替可能なものではないのです。

      本というものは読み手が参加する領域が大きければ大きいほど価値があると思うのです。
      傍線を引く、抜き書き(抜粋)をする、わからない文字を辞典で調べる、そして読むことはまた再創造でもあります。二階堂奥歯が「クワインの読書会」で言っていることと同じです。
      本は媒介であり触媒であるし、それゆえにこそ価値があると思うのです。
      個人的には読書することも、絵を観ることも同じだと思います。
      絵に正しい鑑賞法が無いように、「作者はここで何を言いたかったのでしょう?次のA、B、Cの中から正しいものを選びなさい」と言った読み方は言うまでもなく邪道です。



      「個」と「状況」の相克について、これまでもここで何度も語ってきました。

      それはわたしが繰り返し、「健康であるとは「自己」と「外界」との融和に他ならない」と言っていることと同じだろうと思うのです。

      木村敏は「場」にも、「他者」同様の「主体性がある」と述べています。
      「自己」という存在と「場」の存在が友好的な関係を結べない時、そこに「健康な状態」は生まれないと思うのです。



      山田太一氏が、自分が生まれて疎開するまで十数年間そこで育った浅草について印象的な文章を書いています。

      今はどの町も見分けがつかないほどに似通っている。同じチェーン店、同じコンビニが立ち並び同じような家並みが続く・・・「浅草が浅草であり続けるためにはさびれる(忘れられる)という道以外どのような道があっただろう?それはそこに住む人たちの意思というよりも、寧ろ浅草という土地の意思のようなものではないか」と。

      無論浅草も今や京都同様に「観光穢土」に成り下がっていることでしょう。

      わたしは木村敏のいう「自己の主体性」と「場の主体性」との関係〈あいだ〉という一文をそのような文脈で捉えました。

      「個」と「状況」との「あいだ」=関係性が不調和である時、人は如何にして自己足り得るか・・・という以前に、そもそもそのような状況下で生きることが可能なのか?というのが、わたしの偽らざる気持ちなのです。

      わたしが「反・世界」そしてその表象である「狂気」というものに執拗に拘るのも、そのためです。

      >思索の試行錯誤が展開されていると思います. 読者もまたその思索への参加者です.

      現実にこのような形で参加してもらい、これに勝る喜びはありません。もちろん無言であることを「傍観者」であるとは最早言うつもりはありませんが・・・

      尚、これは余談ですが、自分の言葉だけで語るということは、少なくともわたしにとっては今のスタイルよりも容易です。
      詩や文章からの引用、絵や写真のセレクトには、センスは言うまでもなく、蓄積が不可欠だからです。受信が苦手なわたしには厳しいコースだったかもしれません(苦笑)

      >読んでいる一時, 支えてもらっているような感覚があります.
      これからもこの場を訪れるのを楽しみにしています.

      こちらこそ、よろしくお願いします。


      重ねて、ありがとうございました。




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    2. 追伸

      小難しいことをいろいろと書いたりしますが、絵を、写真を、音楽を、詩を、単純に愉しんでもらえればと思います。

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  2. Ciao Takeo さん
    メイルをありがとうございました
    ブログはいつも読ませていただいています。


    最後のコメントとそのお返事のやり取りで、どうやってもtakeoさんの核の部分にはたどり着けない、話し合えないなと実感し、文字と文字で行なうコミュニケーションの不完全さ、そして私自身の力の浅さを感じました。そして、少し引きました。
    私の言葉が届かない。のなら、語る必要ってあるのでしょうか?
    Takeoさんもよくご存知のように私は今の社会、そして人間が嫌いです。
    英語も喋れないくせに、カタカナになった外国語はこよなく愛し、気取ったしたり顔で意味不明なカタカナ言葉を羅列する人々は、私には猿真似の猿としか映りません。
    日本語はこんなに美しい言葉なのに、それを誇りに思い、日本語の知識を深めることなく、酷いことには、元ある言葉を醜く短縮までして、言葉を辱める、これが愚かと言わずしてなんと言えるでしょうか?
    最近では人間嫌いはますます高まり、もはや動物との付き合いの方が遥かに多くなっています。人間は、やたら臭います。それは彼らがフリをするからです。
    やさしいフリ、考えてるフリ、大事に思ってるフリ、本当はただただ自分のことしか考えていないくせに。です。
    動物たちや虫や木や花と一緒にいると、人間といる時の胡散臭さが全くないのが実に心地よいのです。それはなぜか?と考えたら、多分それは互いに語り合う、説明し合う「言語」を持たないからだと気づきました。
    そういう意味で言葉は詭弁にもなり得るわけです。
    言語を持たないからこそ、相手の思いを想像しようとし、密な真のコミュニケーションができるのだとしたら、それは言葉の存在意味を揺るがせます。
    少なくとも私にとっては、ですが。

    前置きが長くなりましたが、今、Takeo さん自身を表現する言葉が見つからない、もしくは書ききれないのであるなら、無理に言葉を駆使する必要があるのか?と私は考えます。
    Takeoさんが選ぶ写真は美しいです。
    それらを見て、なぜTakeo さんがこれらの作品を選んだのか想像するのも楽しいですし、作品たちはそれだけで、たくさんのなにかを雄弁に伝えてきます。
    そしてそれらが伝えてくるものを、それがたとえ私の脳裏の中だけであったとしても、
    そこから感じたことを言葉として認識できるほど私の語彙は豊かではありません。
    どう繕ってみたところで、伝わってくる「それ」を語り切るには不十分です。
    だったら、わざわざ適切でない言葉を並べることなく、それぞれが感じるままに、そしてその中で沈黙に浸ればいいと思っています。
    ですから、私はこの写真ともしくは絵画と一言という形の最近の投稿も嫌いではありません。
    と言うか、好きです。
    時に、むしろしばしば、Takeoさんの文章は、単細胞の私には難しいのです。苦笑
    私は気難しいのですが、難しいことが苦手です。


    正直言うと、時々Takeo さんが、一体他者と関わりたいのか?それとも放っておいて欲しいのかわからなくなります。
    ちなみに私は後者に属します。
    袖触れ合うも他生の縁で、駅で知らない人と互いに乗り遅れた電車の遠ざかる後ろ姿を見送りながら、悔し紛れにする世間話は好きですし、散歩している私を見かけて、車の窓から手を出して挨拶してくれる人たち、そう言う些細な触れ合いは大好きなのですが、それ以上のものを望んでいないところがあります。
    私の場合は、私はあまりに変わっているので、もはや説明したところで誰も理解などしないだろうと言う諦めというか、若干拒絶に近い気持ちがあります。
    Takeoさんが「言葉が通じるという事、、」で書いているように、です。


    >「誰もわたしの話を理解できない」のは事実だとしても、それは「どちらかが優れているー劣っている」といった問題ではなく、「わたしと、彼(ら)彼女(たち)」の「相違」という至極単純な理由に他ならない。


    先日、知り合いのブログの人が隣の家から蛇が出てきたので、殺虫剤をかけて追い払った、、と書いていたその記事に、私は「ひどいなあ、なにもしていないのに、、」というコメントを残し、そのコメントに彼女が「私は彼らが存在する場所を作ってあげることはできない。」などといういわゆる論点をあえてブレさせた返事を書いてきたので、再度 「好きなものしか受容しない、嫌いなものは排除するという行為は、過去に起きたヤマユリ園(多分そういう名前だったと記憶していますが)の身障者殺傷事件を思いださせ、他人の生活や命を自分の価値観や都合で平気でジャッジし、排除してもいいと考えている人々の意識と繋がり、心と目に痛い。」と追記しました。
    多分、言われた方もここまで掘り下げられるかとびっくりしていると思いますが、これは私の真の気持ちであり、相手が蛇だからと言って、(人間に同じことはとてもじゃないけどしないでしょう) 、動物たちに自分が普段隠し持っている優越感、差別意識、傲慢さを発散している人々を軽蔑します。それは、彼らの単なるカモフラージュであり、彼らは頭も尻も巧みに隠していると思っていますが、実は頭も尻も隠部さえ見え見えだよと知らしめたいと言う気持ちからですが、美辞麗句がお決まりのサロン化したブログの世界でこういうことをやる人はあまりいません 苦笑


    >何故多くの人たちは、上記の言葉を当たり前のように理解・共有できるのか?


    大抵の人は誰かの言ったことなど深く考えません。
    そして何とかして自分の感じたところを相手に伝えようと必死にもなりません。
    相手の言う事などどうでもいいのです。下手に反論して相手の誤解を招いたり、悪評を買うよりも、適当に受け答えしている方が賢策だととても多くの人が考えています。
    つまり、互いの思いを探り合う、知り合うために話し合うのではなく、ただ単に「だれかと話している。」と言う、この類の人たちが好んで使う言葉ですが、「繋がっている」と言う「シーン」を醸し出すために、話しているフリ、聴いてるフリ、感心してるフリをしているだけだと私は感じています。
    フリですから、ですから私やTakeoさんのように真の対話を求める人間には、その言葉が何の意味も魅力も纏わないのは、むしろ当たり前の事です。
    日本人の人と話をしていて、「え?それどう言う意味?」とか「よくわからないけど、、」と言われた事がほとんどなく、ほとんどの場合、「そうですよねえ」とか、「ああそうなんですか」と頷かれて終る、「それじゃあ対話になってないじゃん!」といつも思います。苦笑
    そんな対話は面白くありませんから、次第に人と話さなくなります。
    わかったか、わからないか?など、彼らにとってはどうでもいいのです。
    私は彼らのこの「フリ」ってやつが大嫌いです。

    つづく

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  3. つづき

    ところで
    外に出れる方たちへの気持ちを羨望か嫉妬かと書いていらっしゃいましたが、私はその両方ではないだろうかと考えます。
    私が生き物と一緒にいるから一人だと感じないと書いたら、Takeo さんは孤独とは人間だけが近くに居ないという環境ではないとおっしゃいました。
    しかしながら、多分、私は生き物たちが居なくても、雲を見て空を見て、風を感じて、月を愛でて、そして一人で良かったと思うと思います。
    私が自然と密に繋がるのに、誰かの存在はむしろ邪魔なんです。
    そして、孤独という言葉は私には、底知れない寂しさではなく、月明かりの下でポツンと膝を抱えて座っている、そんな至福の匂いを運んでくる言葉です。
    多分これが私とTakeoさんの大きな違いですね。


    時々、Takeo さんはあなたと私は違うと言います。Takeo さんにそう言われると、Takeoさんとの間に高い壁を築かれる気がします。
    違うのは当たり前ではないですか?
    今回のメイルの中でもTakeoさんはこう言っていらっしゃる


    > わたしの中で、最早(心が)健康な人とは話は合わないという気持ちが強いのです。


    心が完璧に健康な人などいるのでしょうか?
    私はいないと思います。
    私が精神科に行ったら、必ず複数の病名を付けられると思いますし、そして心が健康な状態と言うのはどう言うことなのかな?と考えます。
    感性をすこし鈍感にして、全てを見ないようにして、それぞれの人がそれぞれなりにごまかして社会と関わっているのと同じで、自分自身の心ともそうやってどこかで折り合いをつけて生きているのが大半だと思うのです。
    問題のない家庭などない。のと同じく。
    私とTakeoさんの社会との関わり方は全く違いますし、私は嫌いだといいながらも、社会と、その関わりを必要最小限には留めていても、適当に付き合っています。そして、私は人に好かれるよりもむしろ嫌われた方が面白いなと思っています。好きなフリはできますが、嫌いなフリはできませんから。
    私は自分のブログに誰も来なくても平気です。
    でもね、Takeo さんの在り方というもの、それ故に生き辛い思いを強いられている、その繊細さ、純粋さを貴重だと思っています。私にはないものだからです。


    ふたつさんが、それではまた。ではなく、それでは。と書いた
    私にとっては、同じように響きます。
    私だって、友人にじゃあね、という事もあれば、じゃあまたねという事もあり、両者とも私はほぼ同じ意味合いで発音します。
    それよりも、Takeo さんふたつさんのコメントにお返事していないですよね?
    「また」と言う言葉の不在よりも私はそっちの方が気になります。
    Takeo さんは、とても丁寧で几帳面な方だから、いただいたコメントを放置すると言うのは、どう言う事かなあと考えます。


    > しかし今のわたしには大きな共通点よりも小さな相違点ばかりが目に付くのです。


    Takeoさんの繊細さは、周知のことですが、繊細「過ぎる」 まあ、だからこそのTakeoさんなんですが、繊細過ぎて小さなことまで見え過ぎてしまう。それがTakeo さんの生き辛さに拍車をかけているように感じます。
    私も人より小さな事が見えてしまって、それが気になるタイプだからわかるような気がするのですが、前にも同じことを書いたと思うけど、今の世の中、どこか感性をすこし鈍らせていないと生き辛くなります。
    だからと言って、巷の人々のように不感症に近いまで鈍感にはなりたくないけれど、
    バイキンがもし目に見えたら、多分暮らしていけないと思うのね
    それに近いところがあるのじゃあないかと思うのです。
    だから、視力を鈍くしないと、、多分生きづらい。
    ですから私もきっとTakeo さんに比べたら、とても鈍感であり、そしていろいろ経験してどうでもいいや。と思うことが増えたから、まだこうして安穏と生きていけるのだと思っています。が、だからと言って、Takeoさんにそれを勧める気はありません。
    だって、だからTakeoさんなのですから。
    ふたつさんの、「それでは」に「また」のないことは、それなりに何かの意味を含蓄しているかも知れませんが、それより大事なことはふたつさんがTakeo さんのことを思って、敢えて誰も言わないようなことを書いてくれた。と言うこと、それをTakeoさんが好きか嫌いかはともかく、ふたつさんのTakeoさんに対する思いの現れであると、そしてそっちの方がとても大事なことだと思います。


    グレンプリース、いいですね
    Takeoさんのお陰で今まで知らなかったアーテイストや芸術作品を楽しませてもらっています。


    ブログのコメントと言うよりも、いただいたメイルのお返事になってしまいましたが、
    Takeoさんが良いと思われるのなら、ブログのコメント欄に発表してください。


    こちらはとても暑いです。
    日本はそろそろ梅雨明けでしょうか?
    お母様はお元気ですか?
    最近Takeo さんのブログの更新が多いので、すこし状況が良いのかなと思っています。


    それでは、また


    ジュンコ

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