「生き方がわからない」という問いかけに、精神医療の立場ならずとも、人はどのように答える(答え得る)だろう・・・
自転車に乗れない子供(人)が、家族に教えてもらって乗れるようになるということは考えられる。
同じように「泳ぎ方がわからない」「泳げない」という人に、実際に一緒に水に入って泳ぎを教えるー泳ぎ方を知ることも不思議ではない。
しかしそれには、私・彼・彼女が自転車なり水(プール、海、川)なりとの関係=接触を持つ(持てる)ことが当然の前提となる。
自分を取りまく「世界」そして「他者」即ち「非我」との関係(接点)を持つことができない者は、どのように「生き方」を知り得るのだろうか?
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では以下のリストに挙げられている「フォビア」=「恐怖症」はそもそも「病気」乃至「障害」と呼びうるのだろうか?
「猫が怖い」「ホコリが怖い」「稲光(電光)が怖い」「闇が怖い」「セックスが怖い」「汚れが怖い」「鳥が怖い」「火が怖い」「13という数字が怖い」「動物が怖い」そして「愛が怖い」・・・etc (無論このリストに記されているのは数多ある「恐怖症ーフォビア」のごく一部に過ぎない)
そしてそれを「病気」と呼ぼうが呼ぶまいが、「彼」「彼女」は、では、どのように「この世界」=「『それら』の存在する世界」で「生きられる」のだろうか?
& PHILOPHOBIA Fear of Love
「まだ名前を持たないマイノリティーが常に存在する」
宇野邦一
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