2020年7月5日

拘禁反応(?)

ここのところ、じっとしていられない。座っていても足や手が、頭が、のべつ動いている。落ち着かない。(シンバルを叩くサルのおもちゃのように)無意識に両の手をぶつけ合わせている。掌を叩き合わせていたのではパチンパチンとうるさいので、拳同士を・・・これは長期間外に出られないことに因る一種の「拘禁反応」ではないのだろうか。これが昂じれば破壊・暴力衝動にも繋がりかねない。

母は「(外に出ないことで)身体が悲鳴を上げてるんだよ」と。
そうかもしれない。

けれども一歩外に出れば、心(精神)が悲鳴を上げることになる・・・



暫く二階堂奥歯『八本脚の蝶』を読んでいなかったが、久し振りに読みたくなった。

以前から特にひっかかっていた箇所がある。



にわかにシオランを読みたくなって地元の芳林堂に買いにいく。

私は生きていることに絶望などしない。なぜなら希望を持っていないから。
それは生を悪いものとして低く評価しているということではなくて、評価をしていないということである。
生を呪うのは裏切られた者だけで、そして裏切られるのは信じていた者だけなのだ。

生自体には根拠も目的もないということを自明のものとした上で、「あー! ○○ほしい!」「××したい!」という小さな(長いスパンのものも、短いスパンのものもある)欲望に引っ張られて私は日々をすごしている。
(それらは「○○を手に入れるまでは生きていよう」「××するまでは生きていよう」ということと同義だ)。

徹底的な絶望から生まれたものは、余計な夢や望みを脱ぎすてているから遠くまでいける。
そして純粋な絶望を書いたものは少ない。
絶望はすぐに自己憐憫と結びつき、自己憐憫という甘美な夢は思考を鈍らせてしまう。

シオランの文章だって大部分はそうだ。それが鼻についてもう何年もシオランを読もうとは思わなかったのだけど。


2002年1月14日



「徹底的な絶望から生まれたものは、余計な夢や望みを脱ぎすてているから遠くまでいける。」

ではプリーモは?石原吉郎は、ツェランはいったいどこまで「遠く」まで行ったのか?
遠くに行かなかった(行けなかった)彼らは、あまりにも疲弊していたのではなかったのか?「絶望」とはとりもなおさず「現世」への(或いは彼/彼女を取り囲む「現実世界」への)立ち上がることすらままならぬほどの「疲弊」の謂いではないのか。

「遠くまで」という時の「遠く」とは、どのようなものをいうのか?

「絶望はすぐに自己憐憫と結びつき、自己憐憫という甘美な夢は思考を鈍らせてしまう。

シオランの文章だって大部分はそうだ。それが鼻についてもう何年もシオランを読もうとは思わなかったのだけど。」

自己憐憫とたやすく結びつくような情緒を「絶望」とは言わない。「絶望」と「自己憐憫」とはそもそもまったく相容れない感情であると思うからだ。わたしはエミール・シオランから「甘美な自己憐憫」など気配すら感じたことはない。同時に、彼が本当に「絶望」していたのなら、こんなに遠くまでは行けなかったはずだ。シオランに於いて「鼻につく」のは、絶望を仄めかしながらこれほどまで遠くまで行ったということだ。

この箇所を初めて『八本脚の蝶』の中に見つけた時、「絶望」と「自己憐憫」を結びつけるなんて二階堂らしくないな、と感じた。



今、二階堂奥歯に関して思うのは、彼女は、精神科に行って休職をしたけれど、最後まで、「外部に」助けを求めた形跡がないということ。彼女が救いを求めたのは本と言葉だけであったように見える。

誰も自分を救えないということを、彼女はちゃんとわかっていたのだろう。

外部に一切救いを求める手を差し伸べなかった彼女は称賛に価するし、わたし自身彼女に見習うべきであると強く感じている。

そもそも「戦場」に在って「助けを求める」とはどのようなことを言うのか・・・
そこに於いて「戦いに疲れた」「戦いを止めたい」=「戦場にとどまりたくない」ということが何を意味するのか、二階堂奥歯は知悉していた。












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