2020年7月14日

孤独についてⅠ


昨夜、20代後半から40代前半くらいまでに書かれた昔の「ノート」を読み返していて、まだ大田区に居た頃 ── 26歳から42歳までの17年間「ああ、ここに住めて幸せだ」と感じていた馬込の木造アパートにいた頃から  ── 40歳頃に出会い、生涯で唯一の「親友」と呼べる人と過ごした6年間(その最後の2年ほどは大田区を離れていた)当時の記録に、絶えることなく「生きていることの苦しみ」が記されているのを見て、少なからず衝撃を受けた。今から思えば、そして現実に、大田区=そのアパートを離れ、友人に去られた直後より今に続く状況に至ったことを思えば、大袈裟ではなく、それは「我が生涯最良の時」であったはずだ。しかしノートには常時不定愁訴と孤独感、そして一貫した自己嫌悪(自己譴責)が綴られている。

わたしが不幸になったのは、東京西郊への転居を余儀なくされ(流され)、重ねて友達を失ったからではなく、住みたい場所に住み、親友がいた時から必ずしも「幸福」ではなかった。それは何故か?

高校卒業以来、恒常的なわたしの主訴は「孤独」であった。
その孤独はあの時代、あの部屋、そして親友の存在を以てしても埋まることはなかった。



母が自分で文庫版で持っている『孤独の科学』(ジョン・T・カシオポ&ウィリアム・パトリック共著、柴田裕之訳の単行本(2001年刊)を図書館で借りた。

カシオポの著作を斎藤環が訳していることや、訳文が日本語として滑らかでないということなどから、正直まだ海のものとも山のものともわからない本であるので、どこまで読み進められるか今の時点では全くわからない。比較して木村敏の『関係としての自己』は、今のわたしには極めて難解な本であるが、この本は何度でも借り直し、或いは自分で買ってでも読み通したいと思っている。

『孤独の科学』に関して、先ず頷けるのは、孤独というものを特定の状態であるとみていない点である。
カシオポ&パトリックによると、孤独とはあくまで「主観的なもの」である。
つまりその人が孤独を苦痛であると感じた時、初めてそれは「孤独」になるのであって、友人知人親類縁者のいない天涯孤独の者であっても、その者がその状態を苦痛に感じていなければ、それを孤独とは呼ばない。逆に家族・友人という存在がいる、だから「孤独ではない」とは言えない、ということ。

二人によると、「孤独」とは確実に心身を蝕むものであって、可能な限り避けるべきものである。しかし繰り返すが、避けるべき「孤独」とは、その状態を他ならぬ当人が苦痛に感じている時に限られる。

彼らの説明に準ずるならば、「俺は孤独が好きなんだよ」という表現はそもそも成り立たない。何故ならば、孤独とは「主観的に苦痛である状態」に他ならないのだから。
「俺は孤独が好きなんだよ」という人間は実は端から「孤独」ではないのだ。

わたしは常に孤独を怖れ、孤独を嫌っていた、そして「孤独が好き」という言葉を、そのように言う人間の気持ちを理解できないでいた。しかし、(あくまでこの本の説明に従えば)「居心地のいい孤独」というものはそもそも存在しないのだから、わたしの違和感も当然と言えるようだ。

尚この本のエピグラフには次のアフリカの俚諺が記されている

「急いでいきたければ、独りで行くといい。遠くまで行きたければ、いっしょに行くことだ」

そしてわたしの好きな言葉


「人生は誰かと分かち合わなければ意味がない」












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