2021年6月20日

生まれてきたことの罪

 
今日、いつものように食事を作りに来てくれた 母が、大月書店から出ている、『わたしたちはふつうに老いることができない』という本について触れた時、そしてそれが、重度障害者(児)の親たちの苦悩の言葉であると知った時に、わたしはただちに、植松聖が差し出した「障害者は不幸しか生まない」という、わたし自身にとって、いまだに答えを見出すことのできない、あまりにも巨きすぎる命題に直面させられました。

わたしは本を読んでいません。ただ、そのタイトルがあまりにも衝撃的で、わたしの心を打ち砕きました。「ワタシタチハ フツウニ オイルコトガ デキナイ」・・・何故なら「普通ではない」子供(家族)を抱えているからです。そして間違えなくわたしも、その「普通ではない人間」のひとりに違いありません。

嘗てエミール・シオランは、

「あらゆる罪を犯してきた。父親となる罪だけをのぞいて」

と、『生誕の災厄』の中に記しました。

あらゆる罪を犯してきた。「親となる罪」だけをのぞいて。

一方これは映画を観ただけで(母は原作を読んだそうですが)内容もほとんど忘れてしまいましたが、英国のマイケル・ウィンターボトム監督が映画化した、トマス・ハーディの『日蔭者ジュード』(原題JUDE)で、もっとも有名なシーン、
子どもが多すぎて、何処にも部屋を借りることができない両親が口論しているのに心を痛めて、まだほんの子供である長男が、弟、妹たちを殺し、自らも首を吊って命を絶ちます。ただひとこと「ぼくたちの罪をゆるして」(Forgive our sin)と書き残して。

嘗てこの話をした時に、当時、(今から10年ほど前でしょうか)わたしの親友であった、20歳年上の女性が、ふたりで散歩をしていた、お堀端、毎日新聞社の近くの辺りで、涙をボロボロこぼしていたことを忘れられません。まだほんの幼い少女の頃、自分の親兄弟に、むごい、主に言葉による虐待を受けた女性でした。
「お前なんか生まれてこなければよかったんだ!」・・・・


確かに重度の障害を持った「子供」(六十を過ぎても、その人の子供であることに変わりはありません)を持つ親たちにとって、その毎日は、母の言葉によると「夜も寝られない」「地獄の日々」であることは紛れもない事実でしょう。そかしその親たちの悲鳴が激しければ激しいほど、苦痛が大きければ大きいほど、「障害者は不幸しか生まない」という植松のテーゼはいやまして真実味を増してくるように思われるのです。

過去にここでも何度か書きましたが、わたしは植松の言葉を、どうしても打ち消すことが、否定しきることができません。

「人の犠牲の上に成り立つ生は果たして許されるのか?」というクローチェの問いにも答えることができません。(或いはクローチェの言葉は「他者の不幸の上に成立している幸福は許されるのか?」だったかもしれません。)

貧困も、ホームレスも、決して「自己責任」ではありません。彼らは、「食わせろ!」「生きさせろ!」と叫ぶ権利を持っています。
何故なら政治・政府とは、それが(スターリンやヒトラーの時代のような)独裁国家でない「民主 主義」国家である限り、「主権者である国民の下僕」であるからです。
ですからホームレスであれ、無職の引きこもりであれ、様々な障害を持った者たちであれ、すべての国民が国家の主人(主権在民)である以上、彼ら・彼女らは、どこまでも「食わせろ!」「生きさせろ!」と国に、政府に言うことができます。

けれども、わたしを含め、ひとの(=親の)援けがなければ一人では生きてゆくことのできない障害を持った者が、自分の親に対して、「食わせろ!」「生きさせろ!」と言うことができるでしょうか。
わたしは「応」と答えることが、「諾」と肯んじることができません。

母をはじめ、貴方たちが「普通に老いる」ことを妨げているのは、普通の人生を送ることを出来なくさせているのは、他ならぬ、「私(たち)」だからです。

『わたしたちはふつうに老いることができない』のは、不幸を生む障害者がいるからであると、わたしは思ってしまうのです。そしてジュードの小さな子供の「生まれてきた罪を許してください」という言葉は、正にわたしの言葉でもあるのです。

母がこの本につい手を伸ばしてしまった心の奥底の苦悩を思うと、「生まれてきたことの罪」、「生きつづけていることの罪」の深い深い悲しみとともに「死」=「消滅」ということ以外の贖罪を考えることができません。そうして、ジュードの子供にできたことができない自分を、ただひたすらに愧じています。
そして同じように「ふつうに老いることができない」わたし(たち)も、その親たちと同じ思いを抱いています。けれどもそれを口にすることはできないのです。



ー追記ー

わたしの最も好きな映画の一本は、マイケル・ウィンターボトムの『バタフライ・キス』です。主人公ユーニスが、親友に「わたしを殺して」と頼みます。親友は、親友であるが故に、彼女とともに海に入り、ユーニスの頭をひたすらに沈め続けます。苦しくて頭をあげると、また海中に押し込む。ユーニスが動かなくなるまで。
「神に忘れられた」ユーニスは、しかし、天使のような友に、最後に救われたのです。