2021年6月13日

何のために、誰に向かって、何を書くのか

 
今年5月17日から心機一転始めたブログは、自分がもっとも好きだと言える、2018年に半年間だけ書いたNostalgic Light のスタイルを継承できればと考えていた。
2017年12月28日から、2018年4月29日まで。投稿総数約100という、小さなブログだった。
その後につづく、この『ぼく自身或いは困難な存在』は、Nostalgc Light 程洗練されたものではなく、多くの夾雑物が混入しているが、良くも悪くも、わたしという人間をあますところなく伝えるものであった。

端正で静謐なブログ・・・しかし、病んだ時代に生き、自身も病み、ゆがんだ社会に唾を吐きかけることは、そんなにみっともない、恥ずべきことだろうか。

病んだわたしは執拗に「今の時代、この国で、元気になる、健康である」ということはどいうことかと問い続けた。けれども、同じような疑問を持つ者は、わたしのブログの読者の中にはいなかった。わたしと同様の疑問を強く、継続して持っていた者は、管見では辺見庸と、「この国に絶望する人がひとりでもふえること、それが希望です」という言葉を最晩年に遺し、多摩川で自死した西部邁だけであった。

わたしの文章は、Nostalgic Light 時代のものから次第に逸脱し、反・社会、反・現代への方向へと大きく傾いて行った。
定期的にコメントを寄せてくれていた数人の読者も、「治癒」ということへの考え方の相違、更には「孤独」に対する思いの隔たり、その他あれやこれやから次第に疎遠になっていった。「他者と良好な関係を築くことができない」「良好な関係を維持することができない」それがわたしだ。


良質の発信をするためには、良質の素材のインプットが必要だというのは、「わたしの持論」というより、表現する者にとってあたりまえのことと言っていい。

良質の受信をするためには、何冊も本を読み、いい映画を観、美術館に足繁く通うことを言うのではない。例えば文章で表現するものは、日常の生活の中で、自分が発し、そして、読み、聞く「言葉遣い」の美醜に鋭敏になることだろう。

矢川澄子の本の中で、吉行理恵の言葉が引用されていた。「引用」といってもアフォリズム・名言・警句の類ではない。それはただ一行、

「穢いものをみるとつかれる」

という言葉だった。

「穢いものをみてつかれる」のなら「穢い言葉を聞いて(読んで)つかれ」もしよう。

わたしは醜いもの、醜い言葉に溢れる世界に唾を吐きかけつづけ、呪詛の言葉を浴びせかけた。

それがわたしのブログの伏流水であった。

確かに読んでいて快いものではないだろう。特に現代という時代に曲がりなりにも適応順応できている者にとって、わたしの発言は単なる「我儘」にしか聞こえないかもしれない。
けれども、それを止めろというのは、病人に「呻くな」ということと同様に無理な注文であった。


こころを病んだ多くの人たちにとって、この社会、この世界は、唾を吐きかけたり、石を投げたりするものではなく、いずれ、病癒えた後に還るべき場所のようであった。

多くのものは、「きたないもの」を見続けることによって、「きたないおと」を聞き続けることによって、「生体の髄」が侵されるということが理解できないようにわたしには感じられた。それは言い換えればわたしのような人間を理解することはできないということでもあった。


今後このブログがどのようなスタイルになってゆくのか、正直いって見当もつかない。いつまで続けられるのかすらわからない。
けれども、どのような形にせよ、「醜いもの、醜い世界」への怒りと絶望によって、我が最晩年を穢したくはないと願ってはいるが・・・


   石原吉郎「痛み」

痛みはその生に固有のものである。死がその生に固有のものであるように。固有であることが痛みにおいて謙虚を強いられる理由である。なんびとも他者の痛みを痛むことはできない。それがたましいの所業であるとき 痛みはさらに固有であるだろう。そしてこの固有であるであることが 人が痛みにおいて ついに孤独であることの最後の理由である。痛みはなんらかの結果として起る。人はその意味で 痛みの理由を 自己以外のすべてに求めることができる。それは許されている。だがいたみそのものを引き受けるのは「彼」である。そして「痛みやすい」という事実が、究極の理由として残る。人はその痛みの 最後の主人公である。

『現代詩文庫 120 続・石原吉郎詩集』(1994年)


 ー異論-

「固有であることが痛みにおいて謙虚を強いられる理由である。」何故痛みが「私」固有のものであるという理由で、謙虚であることを強いられなければならないのか?
100人中99人が感じもしない痛みを「私は感じている」それは厳然たる事実だ。
何故そのことを悪びれなければならないのか?「私の痛みを理解せよ」という主張が困難であるとしても、口を噤まなければならない理由はどこにもない。「私は私の痛みを感じている」と言うことに躊躇を感じる必要はない。この石原の理屈は、わたしには「固有性の否定」に繋がり得るとすら感じるのだ。即ち「そんなこと言ってるのはあなただけですよ!」という叱責と同根である。
「私は私である」ということと「私固有の痛みを私は感じている」ということの間にどのような異同があるというのか。

書くということは、「私固有のもの」と感じているもの・ことへの共感者乃至同類を見つけるための(虚しい)試みであるかもしれないのだ。
「そんなこと言ってるのはあなただけですよ!」という掣肘を内面化してはならない。
それが「私だけ」であるかどうかは神のみぞ知るのだから。


 

 








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