2021年6月6日

さびしともさびし われ生くるゆえに


石原吉郎に「目安」という詩がある

どこまでつきあえる
あの町かどの交番が
さしあたっての目安だが
その先もうひとつまでなら
つきあってもいい
そこから先は
ひとりであるけ
立ちどまっても
あるいても
いずれはひとりなのだから



石原吉郎自身がこの詩をどのような思いで書いたのかは分からない。
けれどもわたしはこの詩を読んで、改めて、ひとはひとりでも生きてゆけるのか?
という疑問に突き当たる。

「人は誰もひとりで生まれ、ひとりで死ぬ」とよく言われる。実際わたしにはこの言葉の意味がよくわからないのだが ── 人間(哺乳類)であれ、卵から生まれてくる鳥類、爬虫類、そして魚類、昆虫、およそほとんどの生物が「母胎から」産み出されてくるのであれば、それを「ひとりで生まれ」とは言わないはずだ。

仮に「ひとはひとりで生き ひとりで死ぬ」ような存在であるとしたら、そもそもわたしたちはなんのために生まれてきたのか?

そしてなぜひとりであるかなければ(=生きなければ)ならないのか。

人間が人間として生きる上で絶対に不可欠なのは「愛」である。

そして社会に愛というものは用意されてはいない。(いくばくかの親切はあるだろうが)

幸運にも、わたしは、母という存在に支えられて、なんとか今、ギリギリのところで生きている。しかし、わたしは母に支えられているが、その母を支えてくれる者はいない。
文字通り誰も。わたしと母がふたりだけで、身を寄せ合って生きている。

そこから先は
ひとりであるけ
立ちどまっても
あるいても
いずれはひとりなのだから

ひとりであるくということ、すなわち母の不在は、直ちにわたしの死を意味する。

わたしはひとりではあるけないし、あるきたいともおもわない。

わたしにとって人生は、愛する人と分かち合ってこそ意味がある。

「思い出」という。けれども、つい昨日までそこにあった人やものが、絶対的な、永遠の不在の陰に隠れてしまった後は、思い出や追憶は、ただわたしの苦しみの種になるだけだ。
わたしが求めるのはこの目でその顔を見ることができ、この耳でその声を聴くことができ、この手でその手や腕に触れ、この嗅覚をよみがえらせてくれる「目の前の現存」だけなのだ。二度と、永遠にその顔を見ることができない。二度と、永遠にその声を聴くことができない。二度と、永遠にそのからだに触れることができない、二度とふたたび同じ時間と空間を共有することができないという事実に、わたしはとても耐えることはできない。















 


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