2021年6月4日

人に非ずして愛を知らず

 
こころが喘いでいる。「くるしい・・・」と
からだが呻いている「つらい・・・」と

わたしがすべきことは彼らに安息を、終の安らぎを与えることではないのか?

以下ロラン・バルトの『喪の日記』(2009年)よりランダムに引用する。


1978年1月8日

みんなが「とてもやさしい」── それでも、わたしはひとりだと感じる。(「遺棄恐怖症者」)

わたしは「みんながとてもやさしい」と、錯覚にせよ感じたことがない。わたしは遺棄されることをおそれる以前に、予め「遺棄されてあるもの」だから。


1976年12月11日

この静かな日曜日の朝、もっとも暗いさなかにあって。

いま、すこしづつ、深刻な(絶望的な)命題がわたしの中で湧きおこってくる。これからは、わたしの人生にとっての意味とは何なのだろうか、と。

愛する母の死によって、バルトの生の立脚点が揺らいでいる。
けれどもわたしは嘗て「生きる意味」(こう言ってよければ「生きる動機」)を持っていたことがあっただろうか。嘗て、友人がい、街を自由に歩けていた時にはそれは無意識の裡に埋没していたのかもしれないし、或いは単に惰性であったのかもしれない。いづれにしても、今のわたしには、この心身の重苦しい苦痛を正当化する「意味」など見出すことはできない。

1977年1月16日

いまでは、街路やカフェなどいたるところで、わたしには見える。それぞれの人間が避けがたく死を前にした姿をしている、すなわち、確実に死すべきものである、ということが。──
そしておなじくはっきりと、彼らがそのことを知らないように見える。

わたしにはバルトの印象と反対に、死すべきなのは、わたしと母だけのように思える。道行く人、電車の中で見かける人たちは、永遠にこのままの姿でいるのではないかとさえ思える。確かにバルトに見えたものがわたしにはまったく見えない。ただ一点だけ、バルトと同様に感じるのは、「彼らがそのことを知らないように見える。」ということだ。

1977年11月28日

だれに(答えを期待して)この質問をできるだろうか?
愛していた人がいなくなっても生きられるということは、思っていたほどはその人のことを愛していなかった、ということなのだろうか・・・・?

わたしは繰り返し、「喪失後の世界」について書いてきた。以前の投稿から引用する。

「愛弟子、顔淵を喪った時、孔子は「天、予を喪(ほろ)ぼせり!」と慟哭した。
けれども孔子は顔淵亡き後も生き残った。

辺見庸は親友=心の友ともいえる者をふたりも獄中で亡くしながら(ひとりは執行前に病死、ひとりは死刑)も尚生き延びている。

何故か?

つまり、孔子にも、辺見にも、「顔淵」に代わる代替品がいたからだ。

言い換えれば、孔子にとっての顔淵にしても、辺見にとっての大道寺将司にしても、決して「かけがえのない存在」「それなしでは生きて行くことができない」ような存在ではなかったということだ。

人が、「喪失後の世界」にも尚生き存(ながら)えることのできる存在であるとしたら、人間とはなんと厚かましくも図太い存在なのか・・・」


幸か不幸か、わたしにとって、母(バルトにとってのママン)に代わり得る人間は存在しない。

バルトの質問には慎重に答えなければならないが、わたしの答えはほぼ「そうだ」「おそらく」だろう。

1977年11月19日

彼女がわたしに言ったあの言葉を思い出しても泣かなくなる時が、たんにありうるのだと思うと、ぞっとする・・・・。

1978年8月4日 マラケシュにて

マムがいなくなってからは、かつて(短いあいだだけ彼女から離れて)旅をした時に感じたあの自由な印象を、最早感じることができない。

この気持ちはよくわかる。どれほど離れていても、還るべき場所があるということ、自分が「愛し」また「自分を愛してくれる」人が「そこにいる」ということを知っていれば、人は一人旅でも孤独を感ぜずにすむ。


愛する人を喪った後の「新たな生」「再生」というものが、わたしにはひどく冒瀆的なものに感じられる。そしてまたしてもこのように感じるのは、わたしくらいのものだろう。

わたしは「持続する憎しみ」「持続する悲しみ」を重んじる。けれども、持続=時間の経過は、非情にも、当初の憎しみや悲しみの純度を次第に薄めてゆく。だからこそ、それに抗うために、持続・継続という時の流れを、ある時点で断ち切る必要がある。それが「忘却」であり「再生」なのか、或いは「消滅への意志」であるかは、それぞれに任されている。














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