2021年6月25日

わたしは人を「軽蔑」することができない

 
「あなたはどうしようもなくくだらない人間を、心のなかで軽蔑し、無視するということができないの?」
立川駅に向かうバスの車内で母がわたしに不思議そうに尋ねた。例えば、信号で止まるたびに「止ります」「発車します」を連発し、「右へ曲がります」「左に曲がります」と、いちいち自分の動作を言葉に出して言わずにはおれないバスの運転手や、プラットホームや車内の、のぺ~とした面(ツラ)の「群れ」たちを。

直接的であれ間接的であれ、わたしは自分を傷つけ、不快にさせた人間、またはモノを、心の底から軽蔑し、内心で彼らに唾を吐きかけて無視するという器用なことはとてもできない。しないのではなく、したくないのでもなく、心的機制としてそのようなことができないのだ。

わたしはただ「彼ら」、「彼女ら」、そして、「それら」をひたすらに憎む。軽蔑も無視もできない。
蒙った「恩(おん・なさけ)」と「讐(仇)(うらみ・あだ)」は決して忘れない。

誰かに対して、「かわいそうな人」「哀れな人」といった表現で蔑みの気持ちを口にすることが、わたしに理解できないのも、おそらく、同じ理由に因るのだろう。
「無視」することも、「憐れむ」ことも、詰まるところは彼らの行為を「容認・黙認」する(している)ことになるとわたしは思う。

"Forgive Not Forget”「赦す、けれども忘れない」この気持ちもわたしには理解が難しい。
何故ならわたしは「忘れない」し「赦せない」から。

「恩讐」は、「彼方」に、「彼岸」に存するのではなく、常にわたしの実存と共にある。

わたしは人を軽蔑し、赦してしまうことができない・・・














2 件のコメント:


  1. Ciao Takeoさん
    うちの近所はご存知のように緑が一杯、道も舗装されていないような所なのですが、コロナが始まってからその道を散歩する人が増えてきました。
    わざわざ車でここまでやって来て、散歩する人々もいて、私にとっては、実に迷惑なことなのですが、
    彼らはそんな美しくのどかな自然の中を歩いていながら、風の音を聴く事も、鳥の囀りに耳を楽しませる事もなく、イヤホンを耳にくっつけて歩き、又は青い空を見上げる事もなく、草の緑に目を和ませる事もなく、道端に咲いている花たちに季節を感じることもなく、電車の中で行なうように、街のど真ん中で行なうように、彼らの家行なうように、スマホ片手にそしてひたすらそれを見つめ下を向きながら歩いています。
    横に恋人だか、妻だか、友人だか、わからないけれど、お散歩のパートナーがいても、お互いにスマホを見ながら歩き続けます。
    私はそう言う人々を見る度に、一瞬ムラッと軽蔑だか、憎しみだか、わからない暗い冷たい炎のような感情が湧き上がるのを感じます。
    一体こののっぺりとした表情のない顔をした、生気を全く発散させていない生き物はなんなのだ、、、?

    しかしながら、その感情をじっくり味わうことなく、すぐに打ち消します。
    「勝手にすれば良い」
    私は「あんな」人々のために「憎しみ」と言う、非常にネガティブで、かつ自分自身に対しても毒になる感情を自分の中に発生させたくありません。
    だから、あえて「可哀想な奴らだ」と吐き捨てるように心の中で呟いて、そして彼らの存在を断ち切ります。
    憎まないためには、哀れんで切り捨てるしかない、私は、それ以外の方法をまだ知りません。
    彼らには私があえて彼らのことを意に介してあげる「価値」などなく、
    私が私の心の中に留め置いてあげる「価値」もなく
    ましてや「憎しみ」などと言う感情を感じてあげる「価値」もないと考えるのです。
    残念ながら、この世は防水ウエアを魂に纏って暮らさないと、とてもじゃあないけれど暮らしてゆけない世界です。

    Takeoさんの目の具合が良くなりますように、、。
    この世には、汚い、醜い、目を背けざるを得ないものもたくさんありますが、美しいものも数多くあります。例えば、素晴らしい絵画や写真の数々とか、、そしてTakeo さんのお母様のお顔とか。

    お大事になさってください。




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    1. こんばんは、Junkoさん。

      久し振りのJunkoさんからのコメントだからというわけでもないのでしょうが、このメッセージにどのように返事をしたらいいかとあれこれ考えましたが、結局まとまらないままに思ったことを断片的に書くしかなさそうです。



      ここでJunkoさんは、彼らは、自然の只中に居ながら、実際には周りの自然とまったく繋がっていないと書いています。では彼らは、わざわざ郊外や田舎にやって来て、いったい「何と」繋がっているのでしょう?
      嘗ては、「群衆の中の孤独」などという詩的な表現や情景がありました。わたしはかならずしも「都会の雑踏」を嫌いません。それが適度な雑踏であり、絵になる程度の群衆である場合には。
      しかし、現代人は、そこが自然の音しか存在しない田舎であっても、都会の雑踏の中であっても、自分の「外の世界」にはほとんど関心がないように見えます。ではいったい彼らは何に関心があるのでしょう?あのプラスチック板の画面には、いったい何が映し出されているのでしょう?
      豊かな自然を満喫するよりも興味深いもの?
      雑踏の孤独を噛み締めるよりも詩的で文学的なもの?

      今日母が、電車の中で、若い母親が、3歳くらいの女の子に、スマホの動画を見せている場面に出くわしたと言っていました。子供も別にグズるわけでもなく、大人しくスマホを見ていたそうです。

      ・・・と、ここでわたしの思考は中断します。繰り返し言っているように、わたしと彼ら現代人とは、エミール・シオランの言葉を借りるなら、「人間であるということ以外、何の共通点も無くなって・・・」しまっているのです。

      彼らが、いったい何と繋がっているのか?それは最早わたしの興味の範疇外です。

      彼らはいってみれば「外を歩く引きこもり」のような存在に過ぎません。わたしにとっては。

      ただ、関心はないと言っていながらも、目の前にそのような光景があると、生理的な嫌悪感を抑えることができません。
      母やJunkoさんが言っていることはまったくその通りだと思います。
      わたしも「軽蔑」し「無視」することが可能ならそうありたいと思います。
      けれどもわたしの生来の気質がそれを差せないのです。
      このような気持ちの在り方については、以前「ミソフォニア(音嫌悪症)」について書いた投稿で紹介した、ミソフォニアの方の言葉がおそらくそのままわたしにも当てはまると思います。
      そしておそらく、ここで紹介させてもらった「音嫌悪症」の彼も、わたし同様、憎悪や嫌悪を感じずに済めばどれほど楽だろうと思っているはずです。



      話がまとまらなくなってきました。結論としては、Junkoさんの意見はもっともだし、出来るなら母やJunkoさんのように、下らない人間を無視することができればという気持ちを持っているということをお伝えしておきます。



      ミソフォニアであるとか、「スマホ人」の「群れ」を見ると吐き気を催すので、電車恐怖症になって、何処へ行くにもタクシーを使わなければならなくなってしまった晩年の西部邁のような「症状」は、おそらく誰にも理解されないであろうという気持ち、加えて、決して言葉で通じ合うことはできないという諦めもあって、ご覧のように、再びアートの世界に戻っています。

      その背景には、ここにきて、「目」をはじめ、様々な心身の症状に悩まされ、散々懲りているはずなのに、まだ、精神医療・福祉の世界に希望を見出そうとして、ことごとく失敗しているという事情もあります。この6月一か月間で、目の手術を挟んで、身も心も疲れ果てたわたしに、精神医療も、福祉もけっして、優しくはありませんでした。

      母がいつも気遣ってくれています。母だけが唯一の味方であるというわたしの感情は、最近の投稿に色濃く滲み出ていると思います。
      そしてますます厭世観、厭人観を強めるわたしに、メプさんが、さりげない言葉を時折かけてくださいます。



      この拙い文章の最後に、なによりもJunkoさんに言いたいのは、
      わたしにとって

      >この世には、汚い、醜い、目を背けざるを得ないものもたくさんありますが、美しいものも数多くあります。例えば、素晴らしい絵画や写真の数々とか、、そしてTakeo さんのお母様のお顔とか。

      お大事になさってください。

      この言葉がこのメッセージの全てであると言うことです。

      最後の言葉で、わたしは救われました。

      何か要領を得ない、現在の様々なストレスの真っただ中の心理状態が露骨にしみ出して、なにか我ながら「いやな感じ」のお返事になってしまったことを深くお詫びします。

      どうか心穏やかな日曜日をお過ごしください。

      温かいコメントをありがとうございました。


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