2019年10月1日

生きるに値せず…


できることなら、「目をそらして」生きたい。束の間でも「目を背けたい」。笑顔になりたい。
元上智大学学長、アルフォンス・デーケン氏は、ユーモアの本質を「にもかかわらず」の精神だと説いた。しかしわたしは、「で、あるから」苦しみ、そして「その苦しみにもかかわらず」微笑むこと、人にやさしくすることができない。

「生きていたいか?」「死にたいか?」と問われれば、死に伴う苦痛などを問題にせず、単にこの世界に対して「イエス」か「ノー」かと訊かれれば、わたしは躊躇うことなく「ノー・サンキュー」と答えるだろう。
一方で、「死にたい」という自身の想いだけではなく、わたしは「死ななければならない存在」であるという意識が、常にこの胸の裏側に潜んでいる。

「生きる権利」というものを考える時に、「誰かの代わりに」生きている資格を持つ者がいるだろうか?
わたしは障害者として、或いは全き無能者として、自分自身の力で生きてゆくことができないので、母に生かしてもらっている。けれどもわたしの生は、果たして、自分を犠牲にしてわたしを生かしてくれている母のものよりも「生きるに値する」ものなのだろうか。

「自分の力で生きることのできない者の生の権利」を想う時、それと同時に、わたしたちを生かしてくれている人たちの少なからぬ犠牲を想う。



プリーモ・レーヴィを、石原吉郎を、最後まで苦しめ、遅れてやってきた死に追いやったのは、アウシュヴィッツや、シベリアのラーゲリでの強制労働の記憶でも、死んでいった多くの同胞たちへの悲しみでもなく、「生き残ってしまったこと」ではなかったか?

「おまえはだれか別の者に取って代わって生きているという恥辱感を持っていないだろうか。特にもっと寛大で、感受性が強く、より賢明で、より有用で、おまえよりももっと生きるに値するものに取って代わっていないか。おまえはそれを否認できないだろう。」
ープリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』

「誰か別の者」ではない。わたしは「母」に取って代わって生きている。

わたしは重度の障害者の生、彼ら/彼女らの「生きる権利」を否定するものではない。
しかし、(わたし自身を含め)彼らの生の根拠とは何だろう?
「誰も殴らず」「誰のパンも奪わなかった」プリーモは何故「生き残ってしまったこと」にあれほど苦しめられたのだろう。
プリーモの苦しみはわたしの苦しみでもある。いや、わたしはほんとうに「母を殴らなかった」し「母のパンを奪わなかった」と言えるだろうか?

このような意識がある限り、わたしは快活になることはできない。
仮にわたしが快活であること、わたしが笑顔でいることが、母の望みでもあり、また母への見返りであったとしても、わたしは自分に快活であることを許すことができない。

政治的な立場としては、ホームレスは遍く救済されるべきだし、経済的に行き詰っている者たちの生命を社会保障によって守るのは、社会の当然の「義務」であり「役目」「責任」だと信じている。

話がそれるが、わたしは「生活保護」という呼称を早く改めるべきだと考えている。
「保護」ではない。社会の「責務」として「保障」するのだから。

わたしが殺せないところまで
成長した子供よ
ありがとう
わたしにとって 保護すると云うことは
逆に殺しうると云う重さだった


「季節」金沢星子詩集『花を踏む死者』(1975年)より



いずれにしても、わたしは「自力で生きられない者の生の権利」という地点で、
「我がこと」として立ち止まってしまう。

もちろんこれは「哲学的」な問題ではなく、政治の、その国の人々の人権意識の問題である。


神谷美恵子の言葉を引用する


生存競争とは生物界一般の法則で、「適者生存」の原理はなんらかのかたちで人間の生活につきまとわざるをえない。それは体力や才能とかの点で恵まれた人が栄えるというかたちだけでなく、「運」というわけのわからないかたちでも、人々の人生行路を変えてゆく。したがって努力とかよい心がけだけで人間が幸福になれるとは限らない。
とすれば、なんらかの意味で幸運に恵まれた人、生存競争に勝った人は、不幸な人、不運な人に対して、負い目を持っているのだと思う。どうしてこちらでなくあちらが不幸や不運にみまわれているのか。この疑問が常に心に生じるのが当然であろう。
自分だけ、自分の家族だけがしあわせになればよい、という考えだけでは、どう考えても片手おちだと思う。だいいち、どこに自分や自分の家族が災難にみまわれないという保証があろうか。いのちのもろさ、はかなさにおいて、私たち人間はみな結ばれているのだ。
社会福祉の根本の発想はこうした素朴な認識にあるのではなかろうか。
 (略)
「経済大国」になってみても、その国に住む人や、もっと貧しい国の人々が、病苦や老苦に悩んでいるのを放っておくようでは、いばっても何になろう。弱者の生命をたいせつにすることは、適者生存の法則を破るこであるかも知れない。しかし人間はもうこの辺で、「単なる生物」の域を脱して、精神的存在としての独創性と知恵とをはたらかすべきではなかろうか。生存競争の勝利者となった者にこそ、この責任が重く課せられていると思えてならない。
(太字・下線Takeo)



結局わたしは、上記のように、「誰でも生きる権利がある」という前提を絶対のものとしながらも、わたし自身の「生の在り方」を認めることができないでいるのだ。

わたしは「生き延びて」しまった。そして神谷美恵子の言うように、
「どうしてこちらでなくあちら(母)が不幸や不運にみまわれているのか。この疑問が常に心に生じるのが当然であろう。」

この疑問は当然プリーモの心を蝕んだ

「おまえはだれか別の者(母)に取って代わって生きているという恥辱感を持っていないだろうか。」
に一本の糸で繋がっている・・・

















7 件のコメント:

  1. こんばんは。

    ぼくは、「適者生存」は、もう「人間の原理・原則」ではなくなってきているように思っています。

    たとえば、ホーキング博士のような人は、自然界では確実に淘汰されてしまうでしょう。
    そこで、当然『いや、彼には知性があるから』と言われるのでしょうが、実を言えば、そこにすでにギミック(言葉の罠)があります。

    果たして、本当に「ホーキング氏の研究」が、「適者生存」に貢献するんでしょうか?
    ほとんどの場合、彼の研究内容など知りもしない人が、そんなことは考えもせずに、無条件に『彼には知性があるから、「適者」なのだ』と言っているんだと思います。

    そこのところを、本当によくよく考えて行ったら、ホーキング氏の研究が、「人間の生存」や「種の繁栄」に貢献する可能性はどれぐらいあるでしょう?

    それが、「その辺のお兄ちゃん」が「人間の生存」に貢献する可能性と、どれほどの違いなのかは、誰にも分らないはずです。

    ぼくは、「進化」というメカニズムは、どちらかというと、「正の選択」ではなく「負の排除」だと思っています。
    つまり、「適者生存」ではなく、「負適者排除」が、原則だと思います。
    なぜなら、「適者」というのは、「未来に行ってからの適者」に成るわけですから、予測不能なわけで、その「予測不能な適者」を選択することは不可能だからです。

    そこで、「進化」は「負を排除すること」を選択することに成っていると思いますが、そこで、自然界の中で、なぜ、人間だけが、「負」を排除していないように見えるんでしょうか?

    人間は、「弱いもの」を守ろうとしますし、「病んだもの」を助けようとしますし、「悪者」や「馬鹿者」にも、「平等」を与えます。

    それは、どうしてなんでしょう?

    それは、おそらく、人間がそういう意味での「進化のターニング・ポイント」に立っているからだと思います。
    (といっても、数千~数万年くらいのサイクルでの話だと思いますが)

    大昔から、「進化」の過程で、地球上で反映し過ぎた種が、絶滅の道をたどってきたのは、ほぼ間違いのないことだと思います。

    そして、「人間」も、そういう時期に差し掛かっていると言うべきでしょう。

    そういう流れの中では、「適者生存」も「負適者排除」も成り立ちません。
    なぜなら、「「進化すること」が「絶滅への道」でもあるわけですから、「その適者」が破滅を招くかもしれませんし、また、「その負適者」が人類を救うことに成るのかもしれないからです。

    こういう状況の中では、もはや、「正しい答え」はありません。
    つまり、そこに、唯一残される道は「多様性」に他ならないのです。
    出来るだけ、多くのパターンの遺伝子を残し、出来るだけ多くのパターンの人生をその遺伝子に記憶させていくことこそが、「唯一のあてずっぽうの正解」なのです。


    なにかで見たことがありますが、昔は、現代人に一番近い遺伝子を持ったクロマニヨン人はネアンデルタール人から進化したと思われていたらしいんですが、いろいろ調べた結果、ネアンデルタール人とクロマニヨン人は、同時代に生存していて、しかも、ネアンデルタール人の方が、体も屈強で、知的能力でも甲乙つけがたいくらいに優れていたということがわかってきたらしいんです。
    (脳の体積は現代人よりも大きかったらしい)

    つまり、「適者生存の法則」から言えば、当然、ネアンデルタール人が勝ち残ってクロマニヨン人が淘汰されていたはずだったんでしょう。
    ところが、勝ち残ったのは、クロマニヨン人の方で、淘汰されたのがネアンデルタール人だったというわけです。

    そして、その理由として、もっとも可能性が高いと思われているのが、クロマニヨン人は「助け合うという性質を持っていたこと」らしいです。
    要するに、連携することが出来たんでしょうね。
    だから、チーム・プレーで相手に勝つことが出来たんだと思います。

    これは、まだ、「適者生存」の範囲内かも知れませんが、そこからさらに何万年もたっていますから、その間に「逆転」が起きていると思うわけです。

    それで、現在に至って、「多様性」が必要になっているんだと思います。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    この記事に対して、こんな話をしても、具体的なつながりが感じにくいでしょうが、ぼくには完全にヒトツナガリのモノにしか見えません。

    たとえば、「引きこもり」にしても「精神障害」にしても、そういう「負の要素」と捉えられている人たちが、ぼくには、確実に何かに「貢献」しているように見えますし、確実に「適者」であると感じるわけです。

    これは、逆を考えるとよくわかります。

    「いわゆる適者」だけで、世の中を構成していったら、いったいどう成るのか?
    「いわゆる優秀な人材」だけで、世の中を占めてしまったら、いったいどう成るのか?

    そんなの、目に見えてますよね。
    「殺し合い」に違いありませんよ。

    要するに、一番優秀なものが生き残ろうとするに違いないわけで、そうすれば、当然、極限まで、「少数精鋭」であろうとするわけで、当然、「負の要素」を「抹殺」して、「正の要素」だけを、選りすぐって行こうとするわけですから。

    しかも、その、その「いわゆる適者」や「いわゆる優秀な人材」とは、要するにネアンデルタール人に他ならないわけで、それは、すでに淘汰された種の特性に他ならないわけです。

    だから、ぼくに言わせていただければ、上記の記事の論理は、もう成り立っていませんし、それは、これから、数千~数万年後までは変わらないと思います。

    そして、これは、「親子関係」などのような、小さな範囲で起きる出来事にも反映されることだと思います。


    もちろん、Takeoさんやプリーモ・レーヴィや石原吉郎さんのような人が、そこに罪悪感を感じてしまうこと自体を否定しているわけではありませんが、『その罪悪感自体も「人類にとっての貢献」に勝手に還元されてしまうだろう』と言いたいですね。

    もっとも極端な言い方をするなら、「一般的に言う適者」と「一般的に言う負適者」のどちらか一方だけを生き残らせるという条件であれば、「負適者」の方を生き残らせることの方が「種の生存率」が高くなると思いますね。

    なぜなら、「適者」は、おそらく助け合いませんが、「負適者」の中には、助け合う者が多数現れるからです。

    以上、またまた「たわごとシリーズ」なり。

    それでは、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      神谷美恵子氏の書かれた文章は1970年代初頭のものですが、これは未だに有効な言説だと思います。
      これは以前からわたしが繰り返し言っていることですが、「引きこもり」でも「精神障害」でも、自分が、また自分の家族がそうならないという保証はどこにもないのです。しかし現実には、自分の家族がそうなる可能性など0であると確信している者がいるらしく、だからこそ、「引きこもりは人生に対する罪である」などというそれこそ本当の意味での「戯言」が飛び出すのでしょう。
      わたしは神屋さんのいう
      「だいいち、どこに自分や自分の家族が災難にみまわれないという保証があろうか。」ということを全く思ってもみない人は多いと思います。

      神谷さんは、彼ら/彼女らは「適者」だから生き残っているのではなく、「たまたま運が良かっただけ」だと言っているのだと思います。だから、「なぜ私ではなくあなたが?」という有名な言葉が生まれたのだと。
      繰り返しますが、神谷さんは「適者生存」について言っているのではなく、人生を左右するのは、個人の力だけではないということを強調したいのだと思います。

      つまり神谷さんのように考えるならば「自己責任」などという戯言が生まれるはずはないのです。つまり勝とうが負けようが、そこには必ず、「神の見えざる手」が介入しているのであって、あたかもすべてが己自身の判断の正否に依るという「自己責任論」は成立しません。

      >「正の選択」ではなく「負の排除」だと思っています。
      つまり、「適者生存」ではなく、「負適者排除」が、原則だと思います。

      これは同感です。

      けれども、わたしは「現在の不適応者」であり、未来の不適応以前に既にして適応不能な存在です。そして現在まあそこそこ健康にそこそこ幸福に暮らしているものたちは、現在の適応者ではないでしょうか?未来の適応・不適応を誰が予想できるでしょう?

      このふたつさんの意見には、総論賛成、各論には異論アリという感じでしょうか。

      たとえば

      >「いわゆる適者」だけで、世の中を構成していったら、いったいどう成るのか?
      「いわゆる優秀な人材」だけで、世の中を占めてしまったら、いったいどう成るのか?

      でも、今、正にこのような状態、このような時代ではありませんか?

      >要するに、一番優秀なものが生き残ろうとするに違いないわけで、そうすれば、当然、極限まで、「少数精鋭」であろうとするわけで、当然、「負の要素」を「抹殺」して、「正の要素」だけを、選りすぐって行こうとするわけですから。

      しかし極限まで、「正」と「負」を突き詰めてゆくということが理論上にしても可能でしょうか?つまりどこにその「正」なり「負」の妥当性を求め得るのか?ということになります。

      今回のふたつさんのご意見は、神谷さんの「適者生存の法則」ということに焦点を当てすぎている気がします。

      >「一般的に言う適者」と「一般的に言う負適者」のどちらか一方だけを生き残らせるという条件であれば、「負適者」の方を生き残らせることの方が「種の生存率」が高くなると思いますね。

      >なぜなら、「適者」は、おそらく助け合いませんが、「負適者」の中には、助け合う者が多数現れるからです。

      このような発言にはウンウンと頷くところ多いのですが、文中に頻出する「貢献」という言葉が、どのような意味で使われているのかわかりません。

      わたしが神谷美恵子の言葉を引用したのは、神谷さん自身が言われているように、「適応」「不適応」も「幸」「不幸」も、「運」というものの力に負うところが大きいということ。だから「引きこもり」だろうが、「障害者」であろうが、「公的な支援・援助」が必要だし、それを求める権利があるということ。「神の見えざる手」(もともとは経済学の言葉ですが)=Luck-運というものを捨象しないかぎり、自己責任などというものは戯言に過ぎないということ。

      故に、弱者、不適合者にも生きる権利は保障されているということ。
      その上で尚、わたしは自分の生を肯定できないししてはいけないと感じているということ。

      そしてこれはふたつさんへの反論になるかと思いますが、おれは/わたしは生涯安泰だと思っている人間は確実にいるということです。

      反論歓迎します。そしてわたしの理解が及ばなかったとしても、このような投稿に、どのような形であれ、自分の意見を寄せてくださったことになによりも感謝します。

      乱文失礼します。


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    2. こんばんは。

      読み返してみて、確かに、ぼくのコメントは「適者生存」ということに偏っていたかもしれませんね。
      ぼくの場合は、どうしても「法則」とか「原理」という言葉に強く反応してしまう傾向があります。

      自分でも、やや、無理があるかなと思う時がありますが、「物理法則」や「自然界の摂理」のようなものですら、『きっと、何時かかわるかもしれない?』と思ってしまうんですね。
      それで、このような反応に成ることがあります。

      それから、神谷さんという方のことを知らないので、その思想的な背景がわからなかった部分もあったのかもしれません。
      だから、「適者生存」という言葉の方に、強く引っ張られたのかもしれません。

      「貢献」という言葉も、同じで「適者生存」をもとに考えた場合に限っての「貢献」という意味で使ったと思います。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      ここで、改めて言い直すと、Takeoさんの言うところの
      『そしてこれはふたつさんへの反論になるかと思いますが、おれは/わたしは生涯安泰だと思っている人間は確実にいるということです。』
      これには、全く異論はありません。

      確かにいると思います。

      ぼくが言いたかったのは、
      『それなら、なぜ、「社会福祉」などというものが存在しているのか?』
      ということなんです。

      間違いなく、「法律」も「政治」も、その「おれ/わたし」な方たちが作っていますし、決定しています。
      「おれ/わたし」な方たちは、つねに強者であり、多数派でもありますから、決定権は、いつも握っているはずなんです。
      それなのに、やっぱり「社会福祉」という考えは無く成りません。

      そこで、ぼくが、いつも考えるのは、「おれ/わたし」な方たちが、「良心」や「他者への思い」に基づいて「社会福祉」を存続させているとは思えないということです。
      ということは、何か、ほかに理由がるということです。

      一番見えやすいことで言えば、『ただ単に、体裁を繕っている』『自分がリベラルな人間であると思われたい』というようなことなのかもしれませんし、それは、確かなことなのだと思いますが、『その体裁やリベラルは、どこから来るのか?』という、もう一歩踏み込んだところで考えると、また、その理由が見えなくなってまたしまうわけです。

      それで、思いつくのが、初めのコメントに書いたようなことなんです。
      つまり、「おれ/わたし」な方たちが、自分の確固たる意志で「社会福祉」を選択しているのではなく、もう少し「大きな力」に促されて、潜在意識によって、それを選択させられているんじゃないかと思うわけです。

      それを、「神の導き」ということもできますが、ぼくは、そういう神秘的なことよりも、もう少し普通のことが、そこに影響しているように思うんですね。

      つまり、単純に言って「トク」ではなく、「ソン」と感じているようなところがあると思うんです。
      といっても、あくまで潜在意識下で感じる「ソン・トク」なので、一見してわかるなものではないと思いますが、人間の遺伝子の中のどこかに、『ネアンデルタールに戻ってはいけない』という指令が刻まれているんじゃないかと思うんですね。

      まぁ、やや、強引な論理であることは承知の上ですが、ぼくとしては、これが今のところ一番興味が持てる解釈であるというようなところです。

      そして、前のコメントにも書きましたが、この解釈に基づいて考えていくと、「引きこもり」も「精神障害」も、必ずしも、「不適応」ではなく、「一種の適応」であるうことに成るわけです。

      確かに「未来の適応・不適応」は予測できませんが、「多様性」こそが、唯一の「適応手段」であるということは、言えなくはないと思います。
      要するに、「現在的な適応・不適応」と「将来的な唯一の適応手段」である可能性を持った「多様性」のどちらに重点を置いて考えるか?ということに成ると思います。

      ぼくは、「多様性」が好きなんですね。
      だから、「上から下まで」ぜんぶ含めて「多様性」に含まれると思っています。
      もちろん、そこには、「おれ/わたし」な方たちも含まれます。

      それでも、その人たちが、『勝手に含めないでくれ』というのは止められません。
      ということですね。

      では、また。

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    3. こんばんは。

      神谷さんは、20世紀の初頭に生まれ、1970年代後半に(?)亡くなった精神科医。上流階級の出で、ミシェル・フーコーを自宅に招いたりするなど、エリート中のエリートですが、半生をハンセン病患者の治療に従事した人、そして考え方のベースとしてはキリスト教的な博愛主義者といったところで、まあ一般の庶民から見ればいろんな意味で「高み」に居る人です。マザー・テレサのような人、といっても、さほど見当違いではないでしょう。マザー・テレサは科学者ではありませんでしたが。



      本文で、神谷さんが書いているように、人は誰でも病み、老い、いつ不幸に見舞われるかわからない弱い存在です。ですからその時のための相互扶助が必要なのは当たり前なのですが、「俺の子供に限って引きこもりになんか絶対にならない」と何故か確信を持てる人たちがいるんですね。ですから、ふたつさんの素朴な疑問、そういう人たちが作る法律に、何故「弱者救済」という概念・法律があるのかという疑問も、もっともと言えるかもしれません。けれども、それは・・・う~ん。今の時代、余程の未開の国でもないかぎり、社会福祉のない国なんて考えられないのですけど、日本に関しては、「未開じゃない」とは言い切れないのでね。
      現実に社会保障なんて体裁だけ整えているという感じもします。そして少なくない日本人が、生活保護を蔑んでいる気がします。



      先日母が雑誌を見ていて、外国の女性モデルを見て、「この人ハーフみたいだね」と言ったので、「混血じゃない欧米人てそもそもいるのか?」と返事したのですが、
      中国だって多民族国家です。朝鮮半島は大陸と繋がっています。
      日本人て、そういう意味できわめて特異なDNAを持った民族なんじゃないでしょうか?
      一例として、日本人て「多様であること」「それぞれの意見を持つこと」をもっとも苦手とするでしょう。

      種の保存のために多様な遺伝子を残すというのは全くその通りですが、その常識が日本に関しては通じないような気がするのです。

      日本に関して言えば、バラエティーに富んでいることは、必ずしも「望ましいこと」とは思われていないように感じるのです。それどころか、「違うこと」=「同じでないこと」は悪いことであるというメンタリティーがどうしても拭い去れないのではないでしょうか。

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  2. 追伸

    上のことは、「犠牲に成っている人」にも、言えることだと思います。
    それは、「犠牲」とは言い切れなくなってきていて、二人で「一つの生」を生きているということに他ならないと思います。

    ぼく自身は、「自分と妻の人生」を、そういうモノと考えています。


    サルバドール・ダリは悪妻と言われたガラと自分の関係を、

    『ダリ・イズ・ガラ』 『ガラ・イズ・ダリ』
    (どっちが先だったかは忘れた)

    と言っていたそうです。

    では、また。

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    1. 美しいコメントですね。

      >二人で「一つの生」を生きているということに他ならないと思います。

      このように思えたらどんなにいいでしょう・・・

      素敵な言葉の贈り物をありがとうございます。



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  3. 本当はもっと動き回りたいしお金を稼ぎたい…にもかかわらず、思い通りに動けないときは「休むのも忍耐」だと思ってゐます。生きるでも死ぬでもなく休止中。今は彼岸花や秋桜を眺めさせてください。金木犀の香りを楽しませてください。さういうご褒美があるから生きてゐられます。

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