2019年10月10日

ふたつさんの絵Ⅱ (Untitled Series )





















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ふたつさんの絵、第二弾です。

こちらのギャラリーにふたつさん自身のレイアウトで掲載されていますので、是非ご覧ください。

個人的には、最初の二枚の絵は「うなだれている」「絶望」というイメージを喚起されました。しかし背景がイエロー系の暖色で、光が差し込むという、うなだれている当人には見えていない、気が付かない「希望」を感じます。一枚目ではまだ未成の光が、次の絵では、完全な「ひかり」になっています。

次の二枚は、壁に寄りかかりながらもなんとか立ち上がろうという姿に見えます。
三枚目よりも四枚目の方が、より確かなエネルギーを感じます。
ここまでは連続写真を見ているようです。

五枚目の作品は単純に花がきれいだったこと、水の中で花が息づいているようにみえます。

そして最後の絵は、初めの二枚と打って変わって、元気になってダンスをしているようです。しかし左右を厚い壁に挟まれています。自由に動けるのは限られた狭い空間のようです。

今回新たに設けられたギャラリー4、中にはわたしのわからないものも(当然ながら)ありましたが、ここに選んだ作品はどれも素晴らしいと思います。

額縁も自分で作りたいと言われていましたが是非試してみてください。

またこれが、底彦さんの創作意欲の刺激になればなによりです。

わたしはお返事ができないかもしれませんが、ふたつさんはどうぞご自由にコメント欄を使って、この絵について話してください。遠慮は無用です。底彦さんも、Junkoさんも、是非、自由な感想、意見を発信してください。







8 件のコメント:

  1. こんにちは.

    ふたつさんのギャラリーに行って制作中の絵を観てきました. ページ自体が作品と言えるようなデザインで, その中に置かれたいくつもの絵がふたつさんの小宇宙のようです.

    他の絵もそうですが, 絵の精緻さに驚かされます. 道具などから自分で手作りをすると書かれていますが, ふたつさんにとっては制作の過程も複雑で繊細な創造なのですね. その結果としてのこれらの絵なのですね.

    ほとんどの絵に現れている, 抽象化された人のような昆虫のような植物のような像の造形に目を奪われます.
    見方によって苦しんでいる姿のようにも見えるし, 何かに導かれて飛翔をしようとしているようにも見えます. それにしても何と儚さと脆さを感じさせる姿でしょうか. 反面, 部分を構成するその組織はしなやかな強さを持つようです.

    ふたつさんの生の苦しみや美への模索の困難さの表われでもあるのだと受け取りました.
    いつか, ブルースについてふたつさんが書かれていた文章に倣えば, 「この絵以外の選択肢は無かったのだ」という程の切迫感があります.

    私は, 自分がどこかに救いを求めているような面があるせいか, 何処かに向けて飛び立とうとしている姿として観たいという思いがあります.

    背景の色使いも好きです. 絵の具を叩き付けたような背景や, 色の流れるような背景, 私も今度こんな風に描いてみたいです.

    > そこで、ぼくは、『芸術の中心はどこかにはきっとあるハズ』ということを、設定しようといっているんです。
    > 「芸術の外側」に線を引くことは出来ないという前提であっても、それでも「芸術の中心」だけは、必ずどこかにはあるはずです。

    これはふたつさんの言葉です. ふたつさんの作品を観, ふたつさんのブログを読むと, 望めば私でも「芸術の中心」へ近付いて行く道を見つけられそうな気がしてきます. 楽観的に書いてしまいましたが, それは険しい歩みでしょう. また同時に自己への深い内省を伴う行為でもあるでしょう.

    「自分が何処にも見つからない」という苦痛からの逃避としての絵に, それ以上の意味を見出だせるかも知れません. 私にとっての「芸術の中心」を求めてみたいと思いました.

    > 確かに、それでも、底辺で創作を続ける人は、それなりに居ます。

    このようにありたいです. 私はこういう創作を行いたいのです.

    ふたつさんのギャラリー, 今後もお邪魔させていただきます.

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    1. Takeoさん、底彦さん、こんばんは。

      底彦さんのこのコメントの中で、『抽象化された人のような昆虫のような植物のような像』というのが、とても気に入っています。
      自分の絵のことを、こんな風に明解に表現してもらえて、素直にうれしいと思いました。

      一般的には、こういう形状の「フィギュア」を創作するときに、「デフォルメ」という作業が入ると思いますが、ぼくの場合は、「デフォルメ」ではなく「フォルメ」だと思っています。

      「デフォルメ」は、現実のモノの形を崩していく、あるいは、その一度崩した形を再構成することを言うと思います。
      しかし、ぼくの場合は、出来る限り「何もない状態」から始めて、そこに「偶発的に現れてきた形」を集めて行って、「自分でも見たことのないもの」を創作したいと思っています。
      だから、自分でも「予測不能のもの」が出てくるときがあって、そういう時に、出来上がった絵が、『もしかすると、これ、いいんじゃない?』と思うことが多いです。

      だから、絵の工程を予定することが出来ませんし、無駄な工程がどんどん増えていってしまうので、時間がかかります。

      一見すると「デフォルメ」したように見えると思いますけど、自分自身のことで言うと、「デフォルメ」では、ああいう形状は出てきません。
      どうしても、元の形が強く出てきますし、それを無理に破壊しようとすると、「形」自体が崩壊してしまうので、ぼくの想像力では、「デフォルメ」でああいうのはできませんね。
      自分では「偶発性」に頼るしかないと思っています。

      描き初めの段階では、ただ単に「渦を巻いた感じ」とか「放射状に飛散していく感じ」とか「包み込まれるような感じ」とかというような、「漠然としたイメージ」だけがあって、具体的な形はありません。
      そのまま、描けば、「形のない抽象画」に成ります。
      そこに、前述のような「フォルメ」を加えて行って、「形(具体性)のある抽象画」を目指すということですね。

      『具体性があったら、「抽象」じゃないだろ?』と言われると思いますが、そこは話すと長く成ってしまうので、またにしますが、ぼくは「抽象」と「具象」は必ずしも対立する概念ではないと思っています。

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      あとは、背景についてなんですが、背景は重視していて、「背景学」という分野を作ってもらいたいくらいなんですが、ここ二年ほどは金箔や銀箔を使うようになってきました。
      と言っても、高価な純金箔ではなく、十分の一くらいの値段の洋金箔(真鍮箔)を主に使っています。
      ぼくの場合は、金箔をはった後から、陶器のスプーンのようなもの(レンゲ)でこすりこんで、下の絵の具と一体化させるという手法を使うことが多いです。

      ぼくは、「技法」も出来るだけ、自分で創作するようにしています。
      もちろん、伝統的な技法も使いますし、どんな手法でも使えるものは使いますが、出来る限り、「その時その場でで編み出した技法」というのが理想形ですね。
      さらに言えば、それに頼り切ってしまわないで、なるべく早いサイクルで、また、違う手法を編み出していきたいと思っています。
      (まぁ、言うほど出来てはいませんが)

      あと、背景部分については、『絵の具をたたきつけたように見える』かも知れませんが、意外とチビチビと丁寧に描いているんです。
      いっぺんに厚塗りすることは少なくて、塗り重ねる回数が多いです。
      (結果は「コテコテ」ですが)

      だから、ぼくの絵の背景部分を、参考にするのはあまり意味がないかもしれません。
      なにせ、ぼく自身も同じ様に描けと言われても二度と出来ないので。

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      それから、
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      「自分が何処にも見つからない」という苦痛からの逃避としての絵に, それ以上の意味を見出だせるかも知れません. 私にとっての「芸術の中心」を求めてみたいと思いました.

      > 確かに、それでも、底辺で創作を続ける人は、それなりに居ます。

      このようにありたいです. 私はこういう創作を行いたいのです.
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      もう、底彦さんには、それが出来ていると思いますよ。
      ぼくが言うところの「芸術の中心」とは、「それを探しに行こうとする心」のことですから。

      そこに「答え」を求めてしまうのも「人間の性」だと思いますが、ぼくは、「~しようとすること」だけでも、それは十分に「答え」と言っていいような気がしています。
      それが、「正解」であるということは、確認できませんし、人からも『正解です!』と言ってはもらえないかもしれませんが、それを言っている人だって「正解を持っていないこと」に変わりはないはずですから、『だったら、そんな「正解」なんて捨ててしまって、「~しようとすること」を「答え」としてもいいんじゃないの?』と思います。

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      『ふたつさんのギャラリー, 今後もお邪魔させていただきます.』
      もちろん、大歓迎です。

      最後に、Takeoさん、この場をお借りしましたこと、感謝いたします。

      それでは、また。

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    2. いえいえ。こちらが勝手に好きな絵を拝借して自分のブログに投稿させてもらっただけですから、こちらこそありがとうございます。

      近いうちにこの中の絵をまたタンブラーに投稿したいと思います。

      制作や背景に関するお話、非常に興味深く読みました。
      もっとお聞きしたいこともあるのですが、
      今は長くお話する元気がありません。

      他にも書きたいことがあればどんどん書いてくださいね。

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    3. こんばんは。

      一応、お断りしておくと、「ギャラリー4」の絵は、まだ、製作途中です。

      もちろん、Takeoさんが、それでも、構わないのであれば、使ってもらうことには、何の問題もありません。

      色のついていない「白黒」の部分は未完成で、そこに色をのせた後で、さらに背景にも手を加える場合が多いです。

      その過程で、かなり違った絵に成ってしまうこともありますし、「ボツ」に成る絵も出てきます。
      あそこに投稿した絵は、たぶん大丈夫だろうなというのだけを選んでいますが、それでも、どうしても『ダメだな』というのが出てきてしまうこともあります。

      もしも、それでもよければ、自由に使っていただいて構いません。
      というか、ありがたいと思っていますよ。

      前回、「リブログ」ということがあって、見ず知らずの人のブログに自分の絵が表示されていると思っただけで、うれしかったので。

      もちろん、Takeoさんのタンブラーに掲載してもらったことは、その数十倍嬉しかったですけどね。

      それでは、また。

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    4. そうですか、ということは上の絵はすべてまた途中の状態なのですか?
      「構わない」もなにも、すっかり完成されているようにしか見えないのです。

      >その過程で、かなり違った絵に成ってしまうこともありますし、「ボツ」に成る絵も出てきます。

      ギャラリー4の絵ではあと2枚ほどいいなと思うものがありました。それでも上に選んだものとは比較になりません。(そちらがひどいということではなく、わたしにはピンとこなかったというだけです)

      どう変わるのか興味はありますが、前の方がよかったと思うかもしれません。

      そのあたりがクライアントや画商と画家との葛藤なんでしょうね。

      >見ず知らずの人のブログに自分の絵が表示されていると思っただけで、うれしかったので。

      そうなんですよね。それも海を越えて。小さいけれど大きなことだと思います。

      わたしは単に素材として使わせていただいただけです。とはいえ完全に他人事ではありませんから、反応があるとうれしいですね。

      改めてありがとうございました。




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  2. こんばんは。

    一応、念のために言っておくと、「1と2」・「3と4」は似た構図ですが、同じ絵の制作過程を追ったものではなく、違う絵です。

    これらの絵のイメージは「ピエロのようなもの」です。


    それから、せっかく選んでもらったのに残念なんですが、「5」は、画面をつぶしてしまって、全く違う状態になってしまっています。
    ほとんど、この時の状態は残っていません。
    この絵は、たぶん「ボツ」に成ると思います。
    (こういうのが多いから、なかなか作品が増えませんね)

    でも、この時の状態が良かったので、のせてみたんですが、そのまま素直に描きすすめればよかったんですけどねぇ・・・

    この「5」の絵は、「花」でもあり「蝶」でもあり、「極彩色のバナナ」でもあるという「ヘンテコな設定」で描いた絵でした。
    「タイトル」だけはあるんですが、こんな感じで、「タイトル」だけが残って行ってしまうこともあります。
    (これが、けっこう気がめいってくるんですね)

    それでは、また。

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  3. こんにちは。
    わたしは4枚目が気に入りました。地面が無いことの不安定さや不自由さを超えて解放感と温かさがあるところが気に入りました。色彩が寒くなくて最高です。この絵を観てゐると【宙ぶらりんな状態】や【根無し草な状態】を楽しむことができそうです。

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  4. Takeoさん、瀬里香さん、こんばんは。

    『どう変わるのか興味はありますが、前の方がよかったと思うかもしれません。

    そのあたりがクライアントや画商と画家との葛藤なんでしょうね。』

    そうでしょうね、ぼくは一度も絵が売れたことも、画商と言われる人との付き合いもないので、わかりませんが、知り合いの日本画の人は定期的にデパートの画廊で個展を開いていますが、画商の人から『この色は使わないでくれ』と言われたことがあると言って憤慨していました。
    それでも、そこで、怒ってしまうと、もう二度と声がかからなく成るんじゃないかと思って、なかなか言えないと言っていました。

    でも、ぼくは、Takeoさんのように、自身の美感に基づいて判断する人が、『前の方がよかった』という場合には、ある程度その意見は聞くようにしています。

    もちろん、それに従って、方針を変えることはありませんが、そういう人にもなんとか伝わるような絵を模索していくというようなことですね。

    人の意見なんか完全に無視して、自分勝手に創作した方がいいんだという考え方は、一見すると「自由な創作」のようですが、実は、すでに「その言葉」に縛られてしまっているところもあります。
    そういうところから抜け出すために人の感覚を利用させてもらうというのは、悪いことではないと思っています。

    自分の感覚だけを頼りにしていくと、どうしても行き詰るまることが多く成りますから。
    要するに、疲れてしまうんですね。
    ぼくのような、怠け者は特に。

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    それから、瀬里香さんの『【宙ぶらりんな状態】や【根無し草な状態】を楽しむことができそうです。』という言葉の中の『楽しむことが出来そうです。』というところが、うれしかったですね。

    人間は、【宙ぶらりんな状態】や【根無し草な状態】を嫌うことが多いような気がします。
    「わからないもの」や「初めて見るもの」を、とりあえず「嫌い」という人が多いですね。
    これ、実を言うと専門家でもほとんど変わらないと思います。
    (というか、専門家の方が、そういう傾向が強かったりもする?)

    でも、ぼくは、「現在の芸術のある場所」は、そういうモノを創り出すというところだと思っているので、なかなか好かれません。

    それから、あの赤い背景にいも、金箔(洋金箔)が使ってあります。
    下地にいろいろな色のまじりあった状態を作ってから、それを一回金箔で貼り詰めて、上からこすって下地の色を浮き上がらせて、最後に朱色(バーミリオンという色)をこすりつけるように塗っています。

    そういう背景は、パソコンで見るのと生で見るのとでは、だいぶ印象が違ってきますが、あの絵は比較的パソコンの画面でも近い感じに見えていると思います。

    あのホームページに掲載していない絵も数十点あるんですが、パソコンで見たときに、全くダメに見えてしまう絵が結構あって、そういう絵は使えないので、それが、ネット上で絵を公表するときの最大の欠点だと思います。

    これは、「完成作」と「未完成作」の間にも言えていて、生で見た場合は、やはり「完成作」の方が力がある場合が多いと思いますが、パソコンの画面で見ると、意外と「未完成作」の方がすっきり見えて、見やすかったりもします。
    (自分で見ても、そう見えるときがけっこうあります)

    以上、ご意見ありがとうございました。

    それでは、また。

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