2019年10月18日

ふたつさん、Junkoさん、そして底彦さん、瀬里香さんⅡ


今日はデイケアで、「カラオケ」をやってきました。デイケアでディスカッション以外のリクリエーションに参加するのは初めてです。
午後から、曇り空の中外に出ると、玄関を開けたとたんに金木犀の香りがしました。
しかし、やはり心は浮き立つことはない。昨年金木犀の香りに触れた頃は、確か半袖のTシャツをきていました。ここのところ降りやまぬ雨。それでもまだ金木犀の香りには魅力があります。それは懐かしさではありません。プルーストの「マドレーヌと紅茶」のような過去の追想への起点ではなく、花の香りそのものの美しさです。しかしそれはさびしいものでもあります。それ自体がうつくしくとも、その美しさが、記憶や郷愁と結びついていない。その香りは最早「あの頃」とのつながりを失ってしまっている。丁度美術館で、絵画や工芸品を見るのと同じで、「今・その時だけの美」でしかないのです。極端な言い方をすれば、鼻腔内の粘膜的な美とすら言えるかもしれません。



「カラオケ」は10数年ぶりでしょうか。見学半分、参加してもいいかなという気持ち半分でした。カラオケボックスのような、狭く、暗い部屋で、七色の照明が部屋を照らすという感じではなく、いつものプログラムで使う部屋で、小ぶりな装置で行いました。
歌おうかなと思っても、歌いたい曲がほとんどない。
参加者は、男女取り混ぜて10人前後。人の曲を聴いているのも楽しいものです。

画面に映し出される歌詞を見ていて気付いたことは、日本の歌、まだJ-POPなどという言葉が無かったころから、日本のポップソングって、説教臭いなということでした。
そういう意味では、年を取るにつれ、「希望」とか「明日(あした)」「夢をあきらめないで」「涙の数だけ強くなれるよ」などという歌詞よりも、男と女の情念や憂愁を歌った「演歌」(怨歌)に傾斜してゆく気持ちも分かります。
いつもディスカッションで一緒になる男性が歌ったミスター・チルドレンの「イノセント・ワールド」など、30代の頃に、高校時代の友人3人でよくカラオケに行っていた時には、歌詞などろくにみていませんでしたが、とても今はついていけないと感じました。

とにかくそこに用意されている歌が少ないので、甲斐バンドの「安奈」を歌いました。
歌を歌ったのは本当に10数年ぶり。声は出るのですが、どうしても音程が外れてしまう。改めて、身体(からだ)も楽器なんだと感じました。長年使っていないと、頭で、この音、と思っていても、身体がその音を正確に出してくれない。高校時代、休み時間に友人のギターで松山千春の歌を歌い、クラスの喝采を浴びた遠い日の思い出・・・
当時放送部で、来る日も来る日も発声練習をやっていたので、かなり高い音まで楽に出すことが出来たのです。そしてもちろん若かった。



歌を一曲歌っただけで疲れましたが、それは、日頃、ディスカッションで、持論を述べた後のジメッとした疲れではありませんでした。
机上で持論を展開する。それに関心を持ってくれる人がいる。また特に反発も反感も感じられない。しかし、机を叩かんばかりに「Aである」「Bではない」と息巻いても、爽快感も、心地よい疲れもありません。「わたしはそれについてこう思い、このように考えている」・・・それで終わりです。存在論の本質を「精神」ではなく「身体(しんたい)」に反転せよという、ニーチェー木村敏の説に改めて思いを致しました。
つまり、「生きるの死ぬの」と悶々と考えていることよりも、そんなことを忘れているという状態が、本来の健康な状態なのではないかとも思うのです。とはいえ「人間は考える葦である」ー考えるからこそ人間なのだという定義を、そう簡単に打ち捨てられるものか?「精神」と「身体」のバランスというのは、口で言うほど簡単なものではないはずです。

死について考えていない、と気づくたびに、私はおのれの内のなにものかを虚仮にし、裏切ったような気持になる。

ー エミール・シオラン『生誕の災厄』より


今日、とあるブログにあったリンクに書かれていた文章を読んで、数年前、(もっと?)中東の紛争中のある国の少女が、「このままでは戦争だけしか知らない人生で終わってしまう!」と涙を流していた新聞記事を思い出しました。
精神医療にかかわる人間も含め、幸福も不幸も、自分の行動・思考様式次第であると信じている人が驚くほど多いということです。

「何を言っている、今現在紛争・戦争中の国の人と、現在の日本に住んでいる我々を同列に扱えるのか」と言われるかもしれません。

けれども、どこが戦場であるか、それは物理的にその人が砲声轟き、銃弾の飛び交う戦地にいるかいないかで計られるものではありません。人はそれぞれの心の内側に住んでいるのであって、外界(の実体)というものは「わたし」とはまるで無関係に存在している。だとすれば「外界」を「戦場」であるとみることを「誤り」だと何故、何を根拠に言えるのでしょうか?

「ここは戦場ではない。あなたはただ逃げているだけだ」
ではわたしは訊きたい

「わたしは何から逃げているのか?」

「わたしは何故死を賭してまで逃げなければならないのか?」

「ここがあなたにとって戦場でなければ、わたしにとっても戦場ではないという根拠は何か?」

「あなたにはわたしの内面の何が見えているのか?」


信ずるということは知ることではない。魂はただ自分が飢えていることをたしかに知っているだけだ。大事なことは、魂が飢えの叫びをあげることだ。子供は多分パンがないことを聞かされても、叫びつづける。それでも叫ぶのだ。

危険なのは、パンがあるかないかを魂が疑うことではなく、いつわって自分が飢えていないと思いこむことだ。いつわりによってしかそう思いこむことはできない。魂が飢えているという現実は信念ではなくて、確実なことだからである。

ー シモーヌ・ヴェーユ 『シモーヌ・ヴェーユ著作集4 神を待ち望む』(1967年)より

あなたは、彼/彼女の魂は飢えてはいない、「何故ならここは21世紀の日本なのだから」と断言できる根拠をお持ちでしょうか?言い換えれば、「21世紀の日本」では魂は飢えないということは何故根拠になり得るのでしょうか?


ー追記ー

わたしはあえて、リンクを貼らなかった。このブログを読んでくれる人に対して、あまりにもお粗末な駄文だからだ。実際このようにそこに書かれている空論(というよりも寧ろ駄弁)に言及しながら、わたしも自分のブログを穢している気がしてならない・・・

● 幸福になるために目を閉じてはならない