2019年10月16日

ふたつさん、Junkoさん、底彦さんへ


今回のブログの引っ越しに関して、みなさんからいつもと変わらぬ、温かいお返事を頂き、感謝しています。(タイトルの順番はメールが届いた順番です)

「目」のことに関しては早々に何とかしなければならないと思っています。

保健士のと面談も、(底彦さん、以前お話したTさん、はわたしが通っているデイケアのスタッフです、今回面接するのは、この地域の保健所の保健士と、市の障害者福祉課の保健士です)いったいわたしは彼らに何を求めているのか、また彼らはわたしに何を提供できるのか、わたしは陽の当たる方角へ進みたいのか、逆に闇の中へ消えてゆきたいのか・・・そんなことさえ分からずに面接に臨もうとしているのです。

彼らに助けを求めたのはわたしですが、いまのわたしが必要としているのは、「精神医療」ではないということです。



いずれにしても、ふたつさん、Junkoさん、底彦さんが、それぞれに自分の言葉を、皆さんの心から発せられた言葉を飾らずに伝えてくださったことに、改めてありがとうございました。

尚、ブログのタイトルについては、以前のNostalgic Light のような「落ち着いた」感じのものにしようかと悩みましたが、これもまた、今のわたしを表しているし、ちょっとユーモラスでいいかと思いました。

意外や、Junkoさんは気に入ってくれたようですが、絵を描かれるお二人には、サイ・トゥオンブリーの背景を苦々しく感じておられるのではないかと危惧しております(苦笑)

お返事の約束はできませんが、それでも構わなければ、いつでも気軽に書きこみをしていってください。

改めて、みなさんのお心遣いに、そしてわたしの取るに足らないブログを愛していただき、心より感謝します。





37 件のコメント:

  1. Ciao Takeo さん
    私がこのブログの新しいタイトルと絵を気に入ってるのは、ここにTakeo さんが今まであまり露わにしなかった(少なくとも私が知ってる限りでは、) 愉快で、ユーモラスでちょっとやんちゃな一面を見るからです。
    そして私は微笑みます。
    つまり、Takeo さんが今まで見せよう見せようとしてきた陰、そこに実は敢然とさしていた木漏れ日、でも結構強い木漏れ日のようなもの、を感じます。
    そしてそれは私が今までTakeo さんに感じていたもの。です。
    Takeoさんは、Takeoさんが語っているような、どうしようもない人間、愛されない人間などではなく、才能と稀有なテーストを持ち、語るべき題材を豊かに持つ、やさしい、愛されるべき人間だと言うこと、そうで無ければ、私がここまでこだわり、付き纏うわけがないのです。
    私は、もうとっくにご存知だと思いますが、好き嫌いの激しい、非常に気難しい人間です。苦笑

    保健士さんとの面談も、何を求めるとか、何を提供できて、何を得られるとか、精神医療云々とか、そう言うんじゃなく、ただ普通におしゃべりしたらいいのじゃあないか。と思います。
    相手が友人でないから、何かそう言った理由をお互いに付けなければいけないのでしょうが、互いに、住む環境の異なる3人の人間が、出会って約束を取り交わし、話す機会を得る。
    私は偶然と言うものを信じておらず、全て必然だと思っていますから、(よって私の病気も完璧に必然です) こう言う出会いもまた必然、ご縁の一種だと受け取ります。
    援助を受ける側、援助を提供する側、そう言う肩書を取って互いに自由に思っている事をただ語り合う、そう言う触れ合い方はもしかして保健士さん達にそして彼らの在り方に新たな視野を与えることになるのかもしれないとも考えます。
    社会に馴染みきれず、どこかすんなり行かない人々もそれを助けようとする保健士さんたちも皆根本はただの一個の人間です。
    基本は、一個一個の人間がなにかのきっかけで出会うことになった。という事であって、誰がどんな事をしなければいけないとか、されなければいけないとか言う肩書や職務に強いられた義務ではないと思うのです。
    私は、いつもこの社会が、特に福祉とか言うことに関して、この「問題」と言う意識を取って対応できないものか?と考えていました。人々が人々の画一性を「普通」と言う訳のわかんない言葉でスタンダード化するから、そこから外れるものは「問題」になるわけで、それらはどれも問題などではなく、個性ゆえの現象であり、社会の多様性のただの一面です。
    ですから、そう言う「普通」の他愛のないおしゃべりこそが、社会から勝手に「問題」と言うレッテルを貼られたもののレッテルを剥がして、その現象の存在を認め、互いに自由になることに繋がるのではないかと思うのです。
    困難を持つ人たち、それが身体的でも知能的でも精神的なものであっても、それは「問題」などではなく、多様性、個性そしてそこから生まれた現象です。肌の色が違う人、それぞれに性格が異なる人たち、年齢の違う人たち、職業の違う人たち、男とか女とか、子供とか大人とか、稼いでいる人、いない人、住むところのある人、ない人。そう言った違いと全く同じ類の多様性の一部です。
    そうして今の、とりわけ日本の社会はこの多様性を自然に懐に抱けるほどに熟成しなければいけないと考えています。
    自分と何かが異なる人たちを眉を潜めて遠巻きに、もしくは蔑んでいる限り、彼ら自身の真の幸福感など味わえないのですから、
    私からしたら、今の大半の人々がそれで満足している、満足しようと思っているその幸福感とは、単なるエセ、真如と同じ、幸福のようなもの。であって、真の幸福ではないと考えています。
    自分と異なるものを怖がる事を止めて、胸の上で組んでいる腕を外して、拡げればいいだけ、
    それでまずは自分が自由になるのだと、そして少しでも多くの人がエセの幸福ではなく、真の幸福を感じるようになれば、世界は変わると思っています。

    それぞれの人が本当に幸せであるかどうかなど個人の見解ですから、正直言ってどうでもいいのですが、私はこのどうにもならない忌まわしい弱者軽視とか、虐めとか、差別を無くした社会になって欲しいと願うのです。そしてそれを現実のものにするためには、一人一人が幸せになるしかない。幸せな人は、意味もなく嫌がらせや意地悪など思いつきもしないものですから、、。

    Takeoさん、ブラインドデートだと思って、保健士の方たちとの「会話」をただ、楽しんでください。

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    1. こんばんは、Junkoさん。

      はは、この絵も、これが「アート」か!と言われる類の絵ですし、わたしも彼が何故こんなに評価されるのか正直わかりません。ただ、「アート」という「枠」を取り払えば、「手を振ってるんじゃない溺れてるんだ!」のタイトルバックに相応しいと考えたのです。気に入ってもらえてなによりです。

      わたしはきれいであったり、静けさを感じさせるものは好きですが、基本的に糞マジメというのが苦手です。

      わたしが今一番必要としているのは、「問題」について語り合うことではなく、
      カフェで、或いはバーで、PUBで、冗談を言い合ったり、哲学や政治や下ネタを話し合える「仲間」であるり「友だち」であり、「店の常連客=顔見知り」だと思っています。つまり一緒にお茶を飲んだり、お酒を飲んだりして「雑談」ができる相手がいれば、「引きこもり」の「ヒ」の字も口にする必要はないのです。

      それはそういう「友達」を失ってから、わたしが引きこもりになったことでも明らかです。

      けれども、今わたしは友達でもない人と、言い換えれば、福祉保健を仕事としている人と、雑談をする余裕などないのです。

      つまりバールでコーヒーやビールを飲んでおしゃべりすることが何よりも必要であることは明らかですが、精神科医や保健士はその対象ではありません。

      彼らは、わたしが「毎日生きていることが辛くて仕方がない」という苦痛を訴えたことでここに来るのです。もちろんここで何度も繰り返しているように、わたしの生き難さは、誰も解決することはできないことはわかっています。

      「生きていることが苦しい」ということは、ここでJunkoさんの言われている個性とは違います。わたしが引きこもっていて、それで、特に苦しみを感じていないのならそれでもいいでしょう。しかしわたしは日々、「生きるのか?死ぬのか?」を自問しながら過ごしています。そして今「死ねずに」います。
      そしてその大本は、悪意ある人たちの存在でも、わたしが人と違うことでもなく、
      現代という時代にわたしという個体がどうしても合わないということです。

      世界中の人が善意にあふれていて、日本から天皇制がなくなり、安倍政権が崩壊したとしても、わたしは幸せになることはできないのです。



      今日母が2度緊急入院し、父が大腸がんの手術を受けた、都立多摩総合医療センター
      の眼科に問い合わせたところ、(目の)手術は今年いっぱいは無理ということでした。予約で埋まっているということです。

      それ以前に父がホームに移るということになればわたしはここにはいられません。

      底彦さんのメールにあったように、「今にも崩壊しそうな精神状態に見える」と。
      それでいいんです。

      いろいろなストレスで、攻撃的な返事になってしまいました。送信を躊躇いました。
      返事は保留しようかと。

      しかしJunkoさんの、そしてこれを読んだ人たちのわたしにたいする美化を打ち砕くためにも敢えて投稿します。

      嫌な気分にさせてしまって申し訳ありません。

      ただ、「本当のわたし」を知ってもらいたかったという思いが勝りました。



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  2. こんばんは。

    たぶん、ここに居るみなさんは、Takeoさんのことを、Takeoさんよりも客観的に見られる人たちだと思いますよ。

    だから、皆さんの判断は必ずしも「美化」ではないと思います。
    (というか、「美化する理由」がありません)

    もしも、そうでないとしたら、『「悪意に満ちた世間の判断」が正しい』ということに成りますが(それはTakeoさんの自己評価に限りなく近いとも言えるでしょう)、もしもそうだとすれば、「その悪意」は本当は「悪意」ではないということに成り、ここに居るみなさんの判断こそが、「Takeoさんに対する偏った善意」すなわち「Takeoさん以外の者に対する悪意」であるということに成ります。

    でも、ぼくは、そんな風には思いません。

    ぼくは、「自分が見たこと」を言っているだけだと思っています。
    それは、ほかの皆さんも同じじゃないでしょうか?

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    『Takeoさんは、悪いことをしていない』
    『Takeoさんは、100%弱者を擁護する立場をとるだけ』
    『その立場が、一般的な人たちにとっては、自分に対する非難と感じられてしまう』
    『なぜなら、一般的な人たちは、100%弱者を擁護することは出来ないから』

    『Takeoさんは、今の時代を受け入れられない』
    『しかし、実は、今の時代は、誰にとっても受け入れがたい時代である』
    『しかし、一般的な人は、「いま」を100%拒否することもできない』
    『だから、それも、また、自分にとっての非難と感じてしまう』

    『結果的に、Takeoさんは常に「悪意の返礼」を受けることに成る』
    『なぜなら、「彼ら」は非難されていると感じているから』

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    確かに、Takeoさんも「彼ら」を非難してはいますが、それは「弱者」を擁護する気持ちからであることがほとんどです。

    そして、「弱者擁護」は「彼ら」の主張でもあります。
    だとすれば、「彼ら」が何かを考えるところはあるはずです。

    Takeoさんは、十分すぎるくらいに考えていますが、「彼ら」は考えているようでいて、考えているとは言えません。
    けっきょく、「彼ら」の望んでいるのは「娯楽」であり、「自負心の満足」でしかないのだと思います。

    その「娯楽」において、なぜ、「彼ら」は「話し相手」を得られて、Takeoさんはなかなか得られないのか?
    それは、Takeoさんの「娯楽や満足に対する基準」が一般的な基準を超えているからです。

    「彼ら」は、同じ教科書に沿った話を好みますし、それで満足しますが、Takeoさんはそれでは満足できないでしょう。
    Takeoさんは、いつも自分が見たことのないような資料を求めていますし、そういうモノを共有できることにしか興味を持ち続けることが出来ません。

    「彼ら」は、同じ教科書の中の一番難しい部分について話すことを好みますし、その話を共有することで自負心を満たして満足しますが、Takeoさんは、「難しいこと」ではなく「その人であること」を望みますし、「その人でないこと」には、そっぽを向いてしまいます。

    そして、これは、悲しいことではありますが、「その人である人」つまり「本当の自分を認めている人」は少ないので、どうしてもTakeoさんは、「話し相手」を得られる機会が少なく成ります。

    おそらく、ここに居る方はみなそういう傾向があるのでしょう。

    「本当のわたし」を「美化」する必要はありません。
    なぜなら、世の中で唯一美しいモノが「本質的なモノ」であるからです。
    それ以外のモノが美しいことは無いと思います。
    ただ、それを自分で言ってしまうと、本質から離れてしまうので、美しくなく成るということだと思います。

    でも、個人的なことを言えば、最近に成って、ぼくはそれをあえて言うようにしています。
    なぜなら、自分以外の人の「本当のわたし」を認めたいからですね。

    自分のことを『美しくない、ダメだ』と言ってしまうと、結果的に他の人の「本当の姿」もけなしてしまうことに成るような気がするので、それはしないようにしたわけです。

    たとえば、ぼくが絵を一所懸命に描いても全く売れないということを、『自分なんか大したことない絵描きです』と言ってしまえば、世の中にたくさんいる「売れない人たち」をひっくるめて、『あんたたちも、大したことないよ』と言っていることに成ります。

    『自分だけは、大したことないけど、あなたたちは素晴らしい』というのは、どうも説得力がないように思います。
    だから、ぼくは、『売れていません、賞をもらったこともありません、妻に食わしてもらって、絵を描いているだけで、仕事もしていません、でも、恥ずかしいことはありません、それが大したことなのかダメなことなのかは、あなたが判断してください』と言います。
    (まだ、最近に成ってから言うようにしたので、逆のことを言ってしまうこともありますが)


    それから、Takeoさんは、ご自分が「今と言う時代」を受け入れることは不可能だと思っているのでしょうし、それは、すでに決定済みのことであって、変更不能なことだと考えておられるのでしょうが、ぼくは「今」に限らず、「すべての時代」は本来人間にとって受け入れがたいものだと思っています。

    だから、過去に「自分のいるべき時代」を持っていたということは、そして、その時の記憶を持っていられるということは、必ずしも絶望的なことではないと思います。

    ぼくは、「過去に生きる生き方」が悪いとは思いませんし、「現在に生きる生き方」も悪いとは思いませんし、「未来に生きる生き方」も悪いとは思いませんし、そのどれもが正しいとは思いません。

    ただ、人間は「食べ物」と「寝る場所」だけでは生きられないということです。
    だから、「幻想」や「逃避」が必要に成ります。
    それを「リクリエーション」とか「リゾート」というんだと思いますが、それが、「現在」にあっても「過去」にあっても「未来」にあっても、どれも「幻想」であることに課w利はありませんから、「現実」である必要はありませんし、むしろ「現実」であると「幻想」としての価値がなくなってしまいます。

    だから、どんなことであっても、そこに「逃避」できれば、それでいいような気がします。
    「簡単に戻ってこれらる逃避場所」これが、人間にとって必要なんだと思います。

    Takeoさんが、それを見つけ出す可能性は十分にあると思います。


    それでは、また。






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    1. こんばんは、ふたつさん。

      一番下に、Junkoさんに宛てて書いたメッセージが今のわたしの本音です。
      知人の言葉です。「彼」のキミへの感情は「憎悪と享楽」だ、と。
      つまりわたしへの敵意そしてそれに勝る、衆を頼りのなぶりものです。

      一方わたしの感情は一にも二にも忌避感です。とにかく関わりたくない。憎悪など燃やすエネルギーなどありません。

      彼のブログの著しい特徴は One for All, All for One、「彼(ひとり)はみんなのために、みんなは彼のために」つまりは「群れ」です。

      ではもっとも嫌いな彼のようにならないためにはどうしたらいいのか?
      それがJunkoさんに書いたことです。

      どう思われますか?
      仲間に囲まれているAさんと異なるには、ひとりぼっちのBさんになる、違いますか?

      つまり「美化」という言葉は半ば無意識にそこから導き出された言葉なのだと思います。わたしは彼のブログの常連は、「仲間」という以上に、僕(下僕)(しもべ)だと感じています。おそらく、彼の「命令」に逆らうものはいないでしょう。

      Junkoさん同様、極端だとお感じでしょう、しかしわたしが何より嫌うのは「全体主義」=「群れること」と「主従関係」なのです。



      >「彼ら」の望んでいるのは「娯楽」であり、「自負心の満足」でしかないのだと思います。

      そのことは彼らの薄っぺらな場当たり的なブログを見れば一目瞭然です。そう正に「娯楽」以外の何ものでもありません。深い思索などどこにもない、独自性もない。そしてショーペンハウエルが言ったように、「読者の数と、書かれた者の品質は反比例する」という言葉の通り、大衆の自負心を満足させるだけのものしか書けません。



      わたしは必ずしも、その人の本性が美しいとは思えません。
      わたしは自分を好きではありません。ですからここでも、どこでも、自分は醜いし馬鹿でありキチガイですと言って回っています。そして自分は人類の代表ではありませんから、自分を貶めることが他の人を貶めることとどう繋がるのかが理解できません。あくまで「わたしはわたし」であって、他人の価値の目安にはなりません。

      >『自分だけは、大したことないけど、あなたたちは素晴らしい』
      わたしはいつもこれです。
      とはいえ

      「『売れていません、賞をもらったこともありません、妻に食わしてもらって、絵を描いているだけで、仕事もしていません、でも、恥ずかしいことはありません、それが大したことなのかダメなことなのかは、あなたが判断してください』」

      これは表現としてとても美しく感じます。ふたつさんにはぜひこのスタンスで行っていただきたいと思います。



      >過去に「自分のいるべき時代」を持っていたということは、そして、その時の記憶を持っていられるということは、必ずしも絶望的なことではないと思います。

      これが「絶望」の根源なのです。つまり、昔にも書きましたが、ずっと引っかかっている言葉があります。あまりに難解な言葉です。それは『クマのプーさん』の原作者であるA.A.ミルンの言葉ですが、「喪うことがこんなにも悲しいものを持つことができるなんてなんて幸せなんだろう」

      “How lucky I am to have something that makes saying goodbye so hard.” - A.A. Milne.

      という言葉です。

      これと全く反対のことを、『赤毛のアン』の作者、ルーシー・モート・モンゴメリーは書いています。「いずれ喪われるものなら初めから持たない方が傷つかずに済むのに・・・」
      わたしは後者です。

      前者の意味は余りに深く、わたしという人間は余りに浅い。



      最後の所謂「逃避」言い換えればじぶんの物語。このことは今のわたしの頭では充分に咀嚼できませんので、保留させておいてください。

      お返事、遅くなりました。

      推敲せず、生のままを書きなぐりました。

      乱文ご容赦ください。





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    2. 追伸

      「喪われたのちの世界に生きることが可能か?」

      これもわたしの信じている言葉です。

      「誰も失ったもの以上になにかを愛することはできない」
      "You can't love anything more than something you missed"

      これも以前書いた、アドルノの「幸福とは事後的な概念である。われわれは、失った後、「幸福だった」ことに初めて気づくのだ」

      いろいろ考えさせられます。幸福とは何か?「後の世界に生きること」とは・・・


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  3. 「人間がアウシュヴィッツを建てたのだから、人間であることは罪である。
     アウシュヴィッツを建てたドイツ人が有罪であるならば、ドイツ人と同じく人間である自分も有罪である」
    -プリーモ・レーヴィ

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  4. Takeoさん
    ○個性と言うのは、個々のそれぞれが持つ環境という意味を持って使いました。

    ○美化。はしていませんよ
    私も多分、ふたつさんも底彦さんも簡単に美化するような人間じゃあない、と思います。

    ○率直な意見に嫌な思いを感じた事はありません
    ご心配なく、
    で、ここは相手の誤解やら相手の気分を害するのではないか?などと言う事を懸念する事なく率直な意見が言える場所だと思っています。
    意味なく、もしくは相手を痛めつけようとする目的で何かを書きこむ人はここにはいらっしゃらないのですから、、。

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    1. こんばんは、Junkoさん。

      たしかに「美化」はしてはいないのでしょう。しかしわたしは自分と異る意見・価値観を持つ者に対して、執拗に、執念深く憎悪と敵意を燃やしながら、一方で自分のブログについては、「仲間内だけで「仲良しグループ」を作りたくはない」などとぬけぬけという輩に反吐が出そうになるのです。

      それへの強烈なアレルギーから、「自分の意見に同意されること」にすら、抵抗を覚えてしまうのです。

      つまり「彼」のブログと異なろうとするには、「仲間的な存在(乃至は同じ価値観を共有する者)」をすべて排除して、孤立無援の状態になって、初めて、「彼とは違う」と言えるのではないか、とさえ思えるほど、あのブログはみなが見苦しいほどに狎れ合いじゃれ合っているのです。

      こちらから馬鹿のサンプルを見せてくれと頼んだ覚えはないのにね(苦笑)

      >ここは相手の誤解やら相手の気分を害するのではないか?などと言う事を懸念する事なく率直な意見が言える場所だと思っています。

      「彼ら」を反面教師として、率直に意見を言い合える場所でありたいと思います。
      とはいえわたし自身、本来狭量で、すぐに感情的になってしまう未熟ものですが・・・

      率直な意見をありがとうございました。

      上記の極端な意見、理解しづらいでしょうが・・・

      件のブログの筆者があまりにも、「取り巻き連」からたたえられているのを見ると、
      「わたしもTakeoさんと同じ意見です」と聞いただけで・・・

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  5. エミール・シオランに似ていますが、本質的に異なる人物がいます。
    近年日本でも結構人気のようですが、ポルトガルの詩人であり、シオランのような断章を書く、フェルナンド・ペソアという人です。彼の『不穏の書』『不安の書』を読みましたが、
    シオランの様な強烈なインパクトがありませんでいた。どちらかというと、弱々しい感じで、
    何よりもわたしの好む「毒」がありません。

    シオランの好きな人はみな本人が毒を持っています。辺見庸、二階堂奥歯・・・





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  6. Takeoさん、皆さん、こんにちは。

    パソコンの調子が、急に悪く成ってしまって、入力に手間取っています。
    時間がかかってしまうので、何日かに分けてコメントを入れさせてもらおうと思います。
    話が切れ切れに成ってしまいますが、どうぞご了解ください。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    まず、「人間がアウシュヴィッツを建てたのだから・・・・・」ということについてですが、ここで、問題なのは「罪の重さ」が問われていないことです。

    「すべての人間に罪がある」これは、アウシュビッツとは無関係にでも言えることだと思いますが、そこまで話をもっていってしまうと、それ以上話は出来なくなってしまいます。
    そこで、人間に考えることが出来る範囲に話を戻すならば、「罪の重さ」こそが人間にとっての「考えることが出来ること」ではないかと思います。
    (プリーモが言った言葉には、別の意味で逆らいようのない重みがあるのは確かですが)

    『そんなこと、考えたってどうせわかりゃしないよ』という人も居るでしょうが、逆にそれを考えないでいられる人も居ないと思います。
    それを考えることからは逃れられないとするならば、その「考えること」の「質」が問われることに成るわけで、そういう前提で言えば、「罪の重さ」あたりが「人間が考えられることの限度」なのではないかと思います。

    この場合、「やられた側」と「やった側」に分けて考えれば、もともと、どちらも罪深い人間ですが、「やられた側」は、「ある種の贖罪」を得ますし、「やった側」は、「罪の上塗り」をしたことに成りますから、当然、「やった側」の罪が重く成るということに成ります。
    この話よりも、もっと、深く掘り下げて考えて行けば、『そういう差は微々たるもので、「根本的な罪の重さ」は変わらない』ということもでルでしょうし、また、『もともと「罪」などというもの自体が、人間が勝手に作り出したもので、そんなものは自然界には存在しないのだ』という考え方もあるでしょうが、それは、人間の限度を超えた話になってしまうので、「考えること」が「考えないこと」に限りなく近づいてしまうような気がします。
    (そういうことを言っている人だって、きっと、殴られれば怒るのでしょうし、「その怒り」の源となっているものを「罪」や「悪」と呼んでも、間違いとは言えないのでしょうから)

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    次に、

    『どう思われますか?
    仲間に囲まれているAさんと異なるには、ひとりぼっちのBさんになる、違いますか?』

    ぼくの考えでは、少し違うように思います。

    本当の問題は、「彼ら」が「仲間」を構成できていないことにあります。
    「彼ら」の「群れ」は、「仲間」ではないと考えます。

    本来「仲間」とは、動物の「群れ」とは違う、人間特有の習性によって成り立っている集合です。

    様々な動物には、それぞれの動物の本質的な性質があります。
    それと同じように人間には「人間の性質」があります。
    動物が「動物の性質」に従って「群れ」を作るのは自然なことですし、それは醜いことではなく、むしろ美しいことに含まれるのでしょう。

    しかし、人間には「人間の性質」がありますから、その「人間の性質」を外れた「動物的な群れ」を形成すれば、それは美しいことではなく成ってしまうということだと思います。

    「人間の仲間」と「動物の群れ」の根本的な違いは、「個」を重視しているか、「全体」を重視しているかの違いだと思います。
    「人間の仲間」は「個」を中心にした場合に成立する概念だと思います。

    人間以外の動物の意識の中には、「自と他」の区別はあると思いますが、はっきりとした「個」はないような気がします。
    「体が大きい個体」とか「オス・メス」と言った「個体差」の意識はあるでしょうが、「個性」というような「その個体に固有の意味」を見つけ出しているのは人間だけではないでしょうか?
    おそらく「個」が言葉の積み重ねによって構成される概念だからなのでしょう。

    地球上に、人間以外には、言葉(論理)を積み重ねることが出来る動物な居ないと思います。
    「自と他」の区別はあるので、おそらく「自我」のようなものもあるでしょうが、論理の積み重ねがないと「個」という概念は形成されないのだと思います。

    以上のようなことから判断すれば、「彼ら」という「群れ」は、{社会」や「全体」を重視していますし、少なくとも場合によっては、「個」を敬遠していますから、「人間的な仲間」ではなく「動物的な群れ」なのであって、その「群れ」を「上品な会話」や「小難しい理論」や「自分勝手な正義」によって、「人間的な仲間」のように見せかけているということが、もっともいやらしいところです。
    ここのところが、「動物の群れ」にはない「醜さ」につながっています。

    ※「彼ら」の「群れ」が「個」を尊重しているように見えるのは、「彼ら」の「規範」にのっとっている場合に限られますが、それこそが「群れのルール」であり、「全体」という概念の根本を成す部分ですから、それを「個」と呼ぶことには、矛盾がありますよね。

    当然のことながら、人間は動物でもありますから、「動物的な群れ」を形成することもありますし、それが必要な場合もあるのでしょうから、そこまでだったら、まだ、醜いとまでは言えないでしょう。
    しかし、それを、スノッブな会話で、上等なものに見せかけるという行為が、非常に醜く成ってしまいます。

    こういったことが、数ある動物の中にあって、「人間の群れ」だけが醜いものに成ってしまう原因だと思います。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    ただし、ここで、「他人と違うこと」が大事なのではなく「自分であること」が重要に成ります。

    一見すると、この二つは同じようなことに見えるかもしれませんが、「他人と違うこと」は、実は、「他人」が基準に成ってしまっているんです。
    大事なのは「自分」を基準にした考えを持つことであって、「他人と違うこと」でも、「他人の影響を受けないこと」でも、「他人と同調しないこと」でもありません。

    「自分」を持っていれば、それが、「他人」に似ていてもかましませんし、「他人」の影響を受けたものであっても構いません。
    最も極端に言えば、「モノマネ」であっても、そこにオリジナリティを生み出すことは可能です。
    たとえば、「パロディ」はその一例でしょう。

    そういった意味での「個人(自分)の集まり」こそが「人間としての仲間」であると考えます。

    ぼくは、このブログには「仲間」が形成されていると思いますし、ここに居続けられる人は、それだけで、すでに「仲間」だと言ってもいいくらいだと思っています。
    (例えば読むだけの人でも)

    そして、「彼ら」にとっては、ここが「居心地の悪い場所」のように感じられるんだと思います。

    それとは、まったく反対に、今ここに居る人たちは、ここを「居心地のいい場所」と感じていると思います。
    つまり、世間一般の世界の方が「居心地の悪い場所」であって、それと対極にある「ここ」が「居心地のいい場所」と感じるわけです。

    そして、その理由が、『個人(本当のわたし)で居られる場所だから』ということです。
    だから、ここの中では、他人と違うか否かということは、あまり気にする必要はないような気がしますし、すでにみなさん「誰とも違う自分」を持っていると思います。

    それでないと、「ここに居続けること」が「居心地のいいこと」にはならないでしょう。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    そもそも、この「他人と違うこと」を「オリジナリティ」としてしまったのは、「芸術の20世紀」における最大の「誤り」の一つだと思います。
    それは、結果的に『他人と違うものであるために、自分であることを捨てなければならない』という完全な本末転倒を創り出してしまいました。

    これこそが、「現在」という「プラスティックな時代=虚構の時代」が築き上げられるきっかけとなった原因だと、ぼくは考えてます。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    また、続きを書こうと思っています。

    それでは、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      「罪と罰」、プリーモの言葉の解釈、更に「動物的な群れ」と「人間性を伴った仲間」との違いなど、いつにも増して理路整然としていて、これ以上わたしが付け加えることはないようです。

      「オリジナリティー」云々に関しては、ゴダールについて蓮見重彦が書いた意見にわたしは近いです。わたしが「引用」を好み、「引用」を多用した文章や映像作品を好むのは昔からで、「引用」が自分の言葉ではないと考えたことは一度もありません。

      ただ、ひとつだけ、ふたつさんとの相違を挙げるなら、わたしが最も重視するのは「わたしであること」以上に「他と異なること」だろうということです。
      つまり自分が大好きでも、皆が好きなら嫌いになろうと努めさえする、と言うことです。

      このことも含めて、また続きを聞かせてください。

      素晴らしいメッセージをありがとうございました。

      よい日曜日を過ごされますよう。

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  7. Takeo さん, ふたつさん, Junko さん, こんにちは.

    > 「人間の仲間」と「動物の群れ」の根本的な違いは、「個」を重視しているか、「全体」を重視しているかの違いだと思います。
    > 「人間の仲間」は「個」を中心にした場合に成立する概念だと思います。

    ふたつさんのこの言葉に共感します.

    私は人は生きる上において究極的には「個」を中心に置いて「個」を突き詰めた先にその人の生き方があるという考え方が好きです. その生き方とは芸術であったり, 詩であったり, 隠遁であったり何でもいいのですが, その人自身で決定されるようなものではない, 寧ろ与り知ることろではないのではないかとすら思っています.

    「個」を追求した果てが本人の力の及ばないところという意見には反論があるかも知れませんが, 私はそれは人間の巨大な複雑さというか矛盾というか, 不合理性の表われのように考えています.

    それと並行して個と個の繋がりが模索されていく中で, 「仲間」や「社会」のようなものが構成されていくのではないでしょうか.

    この個人を過剰に重要視する考えには明らかに偏りがあって, それは私自身が非常に内向的な人間であり「自分が何処にも見つからない」という苦しみを抱いているということから来るものでしょう. 仲間や社会を構成するということへの, どうにも拭えない恐怖と違和感から内面の世界, 自分だけの世界に向かってしまうのです.

    それでもふたつさんの言う, この場所の皆さんが緩い意味での「仲間」を構成しているという意見には同意できます.
    理由としては Junko さんが書かれた次の文章が, 少なくとも私にとってはほとんど全てを言い尽くしていると思います.

    > で、ここは相手の誤解やら相手の気分を害するのではないか?などと言う事を懸念する事なく率直な意見が言える場所だと思っています。

    こういう場がネットの中で形成されているということ, 一方でその中心にいる Takeo さんが極度のデジタルヘイターであるということは何か興味深い本質を指し示していると感じます. それが何か, はっきり言葉にすることができないのですが.

    皆さん, よい日曜日を.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      己という「個」を突き詰めていった結果が、最終的に、自分とは無関係な生の在り方に縫着するのではないか。それはそもそも人間存在というもの自体が一個の矛盾であるから、という考え方はとても魅力的です。

      >その人自身で決定されるようなものではない, 寧ろ与り知ることろではないのではないかとすら思っています.

      自分の道を追い求めていった終着点、そこがどのような場所であっても、それは「わたしの与り知るところではない」いいですね。

      「自己」というものを、全的に・・・とは言わずとも、自己をある程度コントロールできるという考え方自体にわたしは抵抗があります。それが例えば「性格とは運命である」というドイツロマン派的思想への共鳴に現れています。

      自己という「たまたまのわたし」もまた運命であるなら、わたしの生き、行き着く先が、わたしの与り知らぬ場所であり存在でありうるわけです。

      >個人を過剰に重要視する考えには明らかに偏りがあって

      けれども、底彦さんはご自身で、

      >個と個の繋がりが模索されていく中で, 「仲間」や「社会」のようなものが構成されていく

      つまり「個」が「皆」や「多数」「集団・集合」と相反するものであるからこそ、「社会」や「仲間」というものが形成されるという考えのどこがおかしいのでしょうか?そもそも成熟した社会や公共というものは、成熟した個が形成するというもともとのパラドクスがあります。しかしそれを「パラドクス」と見做すこと自体が誤りかもしれません。何故なら「個」が極度に軽んじられる社会を言葉の本来の意味での「社会」と呼ぶことができるでしょうか。



      >こういう場がネットの中で形成されているということ, 一方でその中心にいる Takeo さんが極度のデジタルヘイターであるということは何か興味深い本質を指し示していると感じます.

      つまりデジタル・ヘイターはインターネット上での作法とか、狎れ合いの必要をそもそも認めていないと言いうことでしょうか?
      それほどネットに重きを置いていないので、逆に自由になれているのかもしれません。

      そこにどっぷりと浸かってしまえば、当然現行の在り方に忠実足らんとするでしょうが、わたしにはそれが無いということです。肝心なのは通常のブログの在り方ではなく、わたしがブログをどう使うか。それだけです。

      底彦さんも心穏やかな一日を過ごされますよう。







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  8. Takeoさん、皆さん、こんばんは。


    まず、Takeoさんの言葉について、

    『ただ、ひとつだけ、ふたつさんとの相違を挙げるなら、わたしが最も重視するのは「わたしであること」以上に「他と異なること」だろうということです。
    つまり自分が大好きでも、皆が好きなら嫌いになろうと努めさえする、と言うことです。』

    確かに、これはTakeoさんらしい言葉ですし、Takeoさんがこれを言う限りにおいては、不思議と異議を申し立てる気に成りませんが、一方で、この言葉こそが、ぼくが、前のコメントで言った『他人と違うものであるために、自分であることを捨てなければならない』という本末転倒につながってしまいます。

    ここで、問題なのは、「自分」を厳守しようとするあまりに、ある時点からひっくり返って、いつの間にか「他人」に基準が移ってしまうことです。

    「他人と違うこと」の中には、決して「自分」は見つかりません。
    「自分」であり続けようとすれば、必然的に「他人」との違いが立ち現れて来ると信じます。

    ただし、その「立ち現れてきた自分」が「自分の望んでいた自分」とは限らないので、その「自分が望んでいない自分」を受け入れる必要があります。
    それには、それなりの勇気がいると思いますし、常に受け入れられるというほどたやすいものではないと思いますが、それでも「それをしようとすること」には意味があると思っています。

    次に、

    『わたしは必ずしも、その人の本性が美しいとは思えません。
    わたしは自分を好きではありません。ですからここでも、どこでも、自分は醜いし馬鹿でありキチガイですと言って回っています。そして自分は人類の代表ではありませんから、自分を貶めることが他の人を貶めることとどう繋がるのかが理解できません。あくまで「わたしはわたし」であって、他人の価値の目安にはなりません。』

    ということについてです。

    それをTakeoさんが思うのは自由だと思いますし、そのことをとやかく言うつもりは全くありません。
    ただ、Takeoさんがどう思うかということと、それが美しいか醜いかということは、必ずしも一致することではないと思います。
    (というか、「ほぼ無関係」と言ってもいいと思います)

    花が自分のことを美しいと思うことは無いかもしれませんが、花が美しいということに変わりはありません。
    それは、花が「自然」であり、「本質に基づいたもの」であるからではないでしょうか?

    たとえば、同じ花でも、それを、「その花の本質」を無視して華美に飾り立てたり、見せよう見せようという人間の意図で固めた演出を施したりすれば、それは徐々に美しさを失っていくことに成りますが、それは、やはり「本質」が失われるからだと思います。

    だから、ぼくの場合、「醜い人たち」というのは、『「彼らの本質」が醜いのだ』とは思わずに、『「彼らの本質」が覆い隠されているから醜いのだ』と思うわけです。

    ※ビリー・ホリデイには虚言癖があったそうですが、きっと、ぼくは「ビリーの嘘」を美しいと思うでしょう。
    おそらく、その「嘘」を生で聞けたら、彼女の歌を生で聞けたのと同じように感動できると思います。
    なぜなら、「その嘘」こそが「ビリー・ホリデイ」だからです。
    もちろん、「その歌」も「ビリー・ホリデイ」そのものです。
    つまり、どちらもビリー・ホリデイの人生を集約した「彼女の本質」に近いモノであればこそ美しいのだと思うわけです。

    Takeoさんの場合は、『わたしは自分を好きではありません。ですからここでも、どこでも、自分は醜いし馬鹿でありキチガイですと言って回っています。』ということまで含めて、「Takeoさんの本質」なんでしょう。
    でも、その言葉と、「本質的なモノは、いかに醜くても、やっぱり美しいということ」が一致するとは限らないということだと思います。


    それから、ぼくが「自分がダメだ、大したことは無い」と言わないようにしたのは、自分が「全ての売れない絵描きの代表」だと考えるからではなく、
    「その中のとるに足らない一人」だと考えるからです。
    これは、前に、Takeoさんが『黒人街の中で、一人の黒人に対して「ニガー」と叫べば、すべての黒人を差別したことに成るんだよ!』と言っていたのと同じような意味です。
    「その一人の黒人」が、「黒人の代表」であるということではなく、むしろ「とるに足らない一人」であることによって差別がより明確に成ります。

    つまり、ぼくは、世間から見たら、「取るに足らない一人の売れない絵描き」に過ぎませんから、そのぼくが自分のことを『売れてないので、大したことありません』と、世間一般に対して言ってしまうと、その世間の見方を肯定してしまうことに成ってしまい、結果的に『やっぱり売れない絵描きは、大したことないから売れないんだ』という世間一般の論理を二重に肯定したことに成ってしまうわけです。

    そこで、『私はたいしたことないから売れませんが、売れない人の中にも素晴らしい人は居ます』というのが、ぼくには嘘っぽく見えるように成ってしまったということです。
    だから、そう言う代わりに『「売れていること」と「売れていないこと」であれば、「売れていないこと」の方が、少しだけ「芸術の中心」に近い』ということを言うようにしたわけです。

    要するに、「みんなの代表」として『それを言おう』としたのではなく、「みんなの中の一人」として『それを言ってはいけないんじゃないか?』と思ったわけですね。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    次に、底彦さんの言葉について、

    『「個」を追求した果てが本人の力の及ばないところという意見には反論があるかも知れませんが, 私はそれは人間の巨大な複雑さというか矛盾というか, 不合理性の表われのように考えています.』

    こういうのに、反論なんてないです。
    こういうことに、反論を言うのは無意味だと思います。
    ぼくは、矛盾や不合理を持たない「理論」や「合理性」は無意味だと思います。

    もしも、そういう「合理」を持つ者がいるならば、その人が「人間」で居られるわけはありません。
    なぜなら、「人間」が「不合理を含んだ存在」だからですね。

    ぼくは、「合理と不合理」や「過去と現在と未来」や「存在と非存在」などの対極的なものは、すべてつながっていて、一つでもあり、また、すべてでもあると思っています。

    なぜかと言えば、それでないと、この世の中は説明がつかないからですね。
    (もちろん、それでも説明はつきませんが)

    だから、こういう考えを、「偏った考え」だとは思いませんし、こういう部分を含まない考えこそが「偏った考え」だと思います。

    「完全に整合する理論」を求めることほど無意味なことは無いと思います。
    「完全に整合するということ」こそが、もっとも「不合理なこと」ですから。
    「完全な合理」は「無」だけだと思います。

    また、続きを書こうと思ています。

    それでは、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      >『他人と違うものであるために、自分であることを捨てなければならない』という本末転倒につながってしまいます。

      けれどもそれはあくまでも一般的に考えられる「大本」と「枝葉末節」との関係です。わたしがわたしであることとは、イコール「他と異なる」です。その時点で既に「わたしの本質」というものは二義的なものになっています。

      若い頃、猫も杓子も「ルイ・ヴィトン」の製品を持つことが流行りました。わたしは仮に全く同じものでなくとも何故皆が、あの人もこの人も持っているLVのロゴの入ったモノを持ち歩けるのか、不思議で仕方ありませんでした。一言でいえば「恥ずかしくないのか?」という感情です。

      わたしは人と同じ部分があると、自分のその部分が約分されて消えてしまうように感じるのです。トランプの「ババヌキ」と同じです。わたしが7のカードを持っていたとします。そして次に相手から引いたカードもやはり7.すると同じ数字ということで、その2枚を手放さなければなりません。それが重なると、最後には手元には何も残らなくなります。だからわたしは「ジョーカー」足らんとするのです。

      とはいえ、皆が好きだから、ビリー・ホリデーを嫌いにならなければ、皆が好きだから、シェイクスピアを嫌わなければとは思いません。(思ってもいいと思いますが)
      ロセッティーやミレイの絵には逆らい難い魅力があります。嫌いになれと言われても無理です。
      幸い、「自分が大好きでも、皆が好きなら嫌いになろうと努めさえする」ような場面にぶつかったことがありません。それどころか、別に好きでもないのに、ドロローサやオーファンが好きというなら、好きになりたいとさえ思います(苦笑)

      >「他人と違うこと」の中には、決して「自分」は見つかりません。

      「自分」であることをそれほど重要視していないのだと思います。何より大事なのは「違うこと」そこに生じる本末転倒は厭いません。

      言い換えればそもそも「わたし」などというものを持っていないのかもしれません。
      だからせめて群れと離れることで、消極的な自己を辛うじて保持しているだけなのでしょう。



      >ぼくの場合、「醜い人たち」というのは、『「彼らの本質」が醜いのだ』とは思わずに、『「彼らの本質」が覆い隠されているから醜いのだ』と思うわけです。

      わたしはふたつさんのように純粋でやさしい心を持っていないので(皮肉ではなく自嘲です)
      「彼らのうつくしい本質が何らかの理由によって覆い隠されているから醜く見える」という考え方には同意できかねます。無論これはわたし個人の意見に過ぎません。

      つまり安倍晋三であろうが、トランプであろうが、その本質はうつくしいと考えるほどわたしの心は広くはありません。

      そしてまたふたつさんのこの考えを推し進めてゆけば、「憎悪」の感情というものはどうなるのでしょうか?わたしは韓国人が日本人を憎むのは当然だと思っていますし、憎み続けなければならないと思います。心の底の底から誰かを憎む。これもまた人間の本質です。であるからわたしは、憎悪・怨念という人間の本質もまた美しいと思っています。



      >『黒人街の中で、一人の黒人に対して「ニガー」と叫べば、すべての黒人を差別したことに成るんだよ!』

      憶えています、忘れましたが、誰か無知の者が「引きこもりは人生に対する罪である」などと「虚言癖」どころか、あからさまな「差別」発言をしたことに対してだと記憶しています。

      けれども、「肌の色が黒いこと」「引きこもり」であることは、その人個人の属性ではありません。つまりニガーとか「引きこもりは罪」であると公言することは、同じ属性を持つすべての人への敵意であり害意です。

      一方で、わたしが自分は醜いキチガイであることはわたしの個別性に属することです。ひとりの名もない黒人の肌の色を貶めることは、そのことによって、そのとるに足らぬひとりの黒人を期せずして「彼らの代表」にさせるのです。
      わたしはどこかの〇〇に「引きこもりであること」を「罪」と断罪された時点で、誰も知らない引きこもりの代表になるのです。

      そして繰り返しますが、わたしが醜いこと、狂人であることは、普遍性を持ちません。何故なら、「狂気」とは「醜さ」とは「愚かしさ」とは、肌の色や引きこもって外に出られないというように、明確に誰もが認識し得るものでゃないからです。

      しかしそういい募っても、やはりわたしは基本的にふたつさんのスタンスに共鳴する者です。そして

      >『「売れていること」と「売れていないこと」であれば、「売れていないこと」の方が、少しだけ「芸術の中心」に近い』

      という考えにも全面的に共鳴します。



      最後に底彦さんの発言については、今更付け加えることは何もありませんが、
      「矛盾のない人間」という表現自体が「撞着」しています。

      人間は生体であって、理論や論理に基づいて産み出されたものではありません。

      何度も繰り返しますが、

      捨て果てて 身は無きものと 思へども
      雪の降る日は さぶくこそあれ
      花の咲く日は 浮かれこそすれ

      という西行法師の歌のように、そもそも存在論的に人間を考える時に、身体性を捨象することは誤りです。

      >「完全に整合する理論」を求めることほど無意味なことは無いと思います。
      「完全に整合するということ」こそが、もっとも「不合理なこと」ですから。
      「完全な合理」は「無」だけだと思います。

      完全にこの言葉の通りです。












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  9. Ciao Takeoさん、ふたつさん、底彦さん、
    こんにちわ

    皆さんのコメント、そしてTakeoさんのお返事を何度も読み返しました。
    そして、思ったことは
    こうして、一つのテーマを自分の認識からだけでなく、相手の状況をも思いやって考察し、文章にする、
    それぞれのコメントがとても深いので、ちゃんと理解するために何度も読まなくてはいけないのですが、何度読んでも一個一個のコメントに書かれた巧みな文章の裏に漂うそれぞれの方の暖かい人間性を感じて、私は感動しています。
    そしてこういう方々の存在を知れたこと、そして皆さんとこうして互いの意見を交わし合える機会と場所を作ってくれたTakeoさんに感謝します。

    ふたつさんがこうおっしゃっていますが、
    > もしも、そうでないとしたら、『「悪意に満ちた世間の判断」が正しい』ということに成りますが(それはTakeoさんの自己評価に限りなく近いとも言えるでしょう)、もしもそうだとすれば、「その悪意」は本当は「悪意」ではないということに成り、ここに居るみなさんの判断こそが、「Takeoさんに対する偏った善意」すなわち「Takeoさん以外の者に対する悪意」であるということに成ります。

    でも、ぼくは、そんな風には思いません。

    ぼくは、「自分が見たこと」を言っているだけだと思っています。
    それは、ほかの皆さんも同じじゃないでしょうか?

    全く私も同じ考えです
    私はTekeoさんはTakeoさん自身がそう言い切っているような人間だと思っていませんし、そしてそう言うTakeoさんのことを他の皆さんと同じように評価して、愛している
    それを、ただ率直に言っているだけなのですから。

    Takeoさんは「彼ら」のような人間と自分を異なるものにするために、仲間を持たないと仰いますが、Takeoさんにまず一番にしてもらいたい事は、悪意に満ちた「彼ら」の判断に自らを委ねて欲しくないという事です。
    Takeoさんがどうして「彼ら」のような悪意に満ちた判断に惹かれ、同意し、私たちの率直な見方を否定するのかが私にはわかりません。
    悪意に満ちた「彼ら」が、ほざく事など、一考にも一瞥にも値しないものだと私は考えます。
    一瞥しただけで、彼らの悪意は私たちの感情を害し、一考すればそれは私たちの内面を醜く侵します。

    彼らと同じにならないために仲間を否定するのではなく、
    互いの存在及び思考を率直に評価し、リスペクトし、そして愛してくれる人々
    の言っていることを、
    「 彼らが揃ってこれだけ言っているのだから、一理とはいかなくても、半理くらいは潜んでいるのではないか?」と、、そう思えないでしょうか?
    私は自分が信じている人の言う事は、おおかた信用します
    全て理解、同意できなかったとしても、そう言うこともあるかもね、、と思います。
    だからTakeoさんがやっている事は、私からすると「悪意に満ちた彼ら」に賛同し、同じ旗を挙げているということのようで、なんか変だなあと思うのです。

    Takeoさんがおっしゃっている、、
    > どう思われますか?
    仲間に囲まれているAさんと異なるには、ひとりぼっちのBさんになる、違いますか?

    苦笑
    はっきり言って、、
    違います。
    そんな事をわざわざしなくても、AさんとBさんは根本から異なっているのですから、、。
    なぜ Takeoさんが「彼ら」と異なる自分自身であるために、「彼ら」が持っていないけれど、Takeoさんは持っている素晴らしいもの( それは、Takeo さんの繊細さ、正直さと感性、そして私たちの存在です、ははは) をあえて否定するのか?
    それこそ「悪意のある彼ら」の思うツボではないですか?
    彼らはTakeoさんのそういうところに嫉妬していると言うのに、、。
    だから彼らはTakeoさんに彼らと同じようにその崇高さを捨てて、群れという退屈で平凡な糞の中に引き摺り込みたいと思っていると言うのに、、。
    彼らのところに、ふたつさん、底彦さん、私のように純粋な思考でかつ中立な意見をこうして率直に交わし合うことのできる人々が居ますか?
    居ないと思うのですよね。
    「彼ら」の同意は、真の同意ではなく、彼らの群れに属するための暗黙の決まりです。
    なぜなら、同意しないとあそこには居られないからです。
    「彼ら」の立場には上下関係があり、平等ではありませんから、異なる意見を述べた途端、もはやあの「群れ」にいられなくなるばかりか、虐めの矛先が彼に向かう危険性が大です。
    そんな危険を冒してまで反論を翻そうという、思考力そしてそれを文字にする文章力をそしてそれを実行する勇気を持ち合わせる人はあそこには居ないと思います。
    何故なら、彼らは彼ら自身でなく、彼ら自身の思考を持っていないからです。
    そして
    私たちはTakeoさんが好きで、だからこうしてみんなでTakeo さんを擁護しようと寄ってたかってそれは違うよと言っているのではなく、そうじゃないだろ?と私たちが心から考えるからこそ言っているわけで、
    それは迎合でも美化でもありません。
    もちろん、Takeoさんのことをどうでも良いと思っていたら、わざわざ乏しい知力を表現力を駆使して、こうして書き込みませんけどね。。 苦笑

    群れと仲間は確かに違いますね
    群れにはその頂点に立ち、仕切る「親分」と、それにかしづく「子分たち」が必要ですし、個を無視した一方的なルールが存在しますが、仲間にはそれがありません。
    それぞれが個でいられ、そこに流れるのは誰かの命令でも指示でもなく、それぞれの思考や思い、その自由な表現と流れの中で自然に出来上がった共通の意識、しかありません。

    (文字制限のため続く)

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  10. 続き

    日本から友人が送ってくれた本を読んでいたらそこにこう書かれていました。
    猿山の猿は、ボスがいてその下にヒエラルキーが形成される。と言われますが、このヒエラルキーを作るのは、人間と接したことのある猿であり、野生の猿にはそう言う習性はないのだそうです。
    興味深いことです。
    私は小さい時から群れを作れないし群れに入れません
    群れと言うものに全く魅力も興味も感じないからですし、今大人になって考えてみると、あそこにいるためには、個を殺さなければいけないと感じていたからでしょう。
    個がリスペクトされない、個がその存在を生き生きと主張できない群れ、それは今の社会とよく似ていますが、だから私は社会と言うものと距離を置きます。
    社会という群れは私の個を消せ、もしくは抑えろと強要します。
    個があるという事は、とりわけ今のような社会の中では、互いに不便、とりわけ彼らにとって不便、不都合なのです。
    個とは私の魂であり、私自身であり、それを捨てての人生などそれこそ無意味です。
    個のない私が営む毎日ってなんなんでしょうか?
    そして
    こうして、個を否定する社会であるから、
    重ねて言いますが、個とはそれぞれの人がそれぞれに持つ性格、身体状況、精神状況、考え方、困難度、経済状況も含め、彼らが生きていくにあたって身に纏っている、背負っているすべての環境、状況、実体です。
    そう言った個を否定するから、前にも書きましたが、彼らが勝手にスタンダード(普通)だというカテゴリーから外れたものが、問題、異質なものになり、「狭量な」人々の偏見、差別の対象になるのです。

    私が野良猫シェルターでお手伝いをしている時、ある一人の少女がお母さんと連れ立って里親になりたいと猫を選びにきました。
    シェルターには、生まれつき目の見えない猫、神経を病んでいてギクシャクとしか歩けない猫、足が不自由な猫などがいます。
    彼女は、何日かシェルターに通って猫たちと遊んだあと、最終的にこの神経を病んでギクシャクと歩く猫を選びました。
    なんでこの子がいいの? と聞いたら、彼女はとても嬉しそうに
    「だって彼はいつもダンスをしてるでしょう? それって楽しいもの」 と答えました。
    私たちには、ギクシャクが、彼女にはダンスなのです。
    この事はどんな事も見方一つでその様を変えるということを改めて実感させてくれました。
    私は彼女の持つ、社会のそして多数の人々の意識に毒されていない、自由で囚われない視線を愛します。

    ふたつさんはこうも仰っていますね
    > ただし、ここで、「他人と違うこと」が大事なのではなく「自分であること」が重要に成ります。

    一見すると、この二つは同じようなことに見えるかもしれませんが、「他人と違うこと」は、実は、「他人」が基準に成ってしまっているんです。


    同感です。
    他人と違う事ではなく、自分である事。が重要であり、その結果他人と若干似ていることになろうが、自分自身である事に変わりはありません。
    今の社会は他人を意識し過ぎています。
    だから競争なんて事も起きるわけでしょう?
    自分の人生を苦しくも楽しくも生きていくのは自分であり、自分と全く同じ環境、性質、感性、状況そして能力を持ち合わせている人など皆無なわけですから、そんなところで他人に基準を合わせたり、他者と競ったりする事はとても無意味ではないですか?
    そうやって、常に他人と自分を比べ、他人と競いながら、私たちは個への尊厳を忘れていくのだと思います。
    そしてそれは、多分、社会の思う壺なのです。
    個への認識、実感が希薄で、より多くの他者が共有する意識やら意見やらが、多数決ということだけで力を持つ社会は、その分、民の思考の誘導がやり易くなるという事、
    多分、今の時代に自分自身を認めてあげられない人が多いのは、そのせいではないかとさえ思います。皆自分を喪っているようです。
    そして自分を喪った人々は、どこか寂しげだったり、どこか虚ろだったり、怒りっぽくそして妙に意地悪だったりします。
    ところが、ここには個をしなやかにそして頑固に固守している人たちがいる。
    それは、私にとっては仲間であり、そしてそういう人たちと接することができるこの場所は素晴らしく居心地の良いという事になります。
    スマートフォンが大嫌いだ。
    公衆電話や時計のない街はおぞましい。
    などという事を言って、
    「なんでそこまで嫌うの?」と 不思議な顔をされない唯一の場所であるからでもあります。
    スマートフォンが嫌いだという事を説明しなければいけない相手に、いくら言葉を尽くして説明しても理解を得る事はできないのですから。

    底彦さんがおっしゃっている
    > こういう場がネットの中で形成されているということ, 一方でその中心にいる Takeo さんが極度のデジタルヘイターであるということは何か興味深い本質を指し示していると感じます. それが何か, はっきり言葉にすることができないのですが.

    私もそう思います。
    それはネットの持つ底力のようなものではないかと、考えます。

    それでは
    Takeoさん、皆さん
    穏やかで良い1週間をお送りください





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    1. こんばんは、Junkoさん。

      コメントの表示が大幅に遅れてしまい申し訳ありません。

      取り急ぎひとことだけ。



      「野良猫シェルター」でお手伝いをされていたんですね。素晴らしいことです。

      >私が野良猫シェルターでお手伝いをしている時、ある一人の少女がお母さんと連れ立って里親になりたいと猫を選びにきました。
      シェルターには、生まれつき目の見えない猫、神経を病んでいてギクシャクとしか歩けない猫、足が不自由な猫などがいます。
      彼女は、何日かシェルターに通って猫たちと遊んだあと、最終的にこの神経を病んでギクシャクと歩く猫を選びました。
      なんでこの子がいいの? と聞いたら、彼女はとても嬉しそうに
      「だって彼はいつもダンスをしてるでしょう? それって楽しいもの」 と答えました。

      正直わたしはこの子供の眼差し、或いは子供ならではのイノセントな感受性よりも、
      この数行の描写に、以前底彦さんが、ご自身の愛する絵として紹介してくれ、わたしが『平和な日曜日』と間違って呼んでいた絵の描写と、同質の愛おしさと愛(かな)しさを覚えました。

      そしてそこに居るすべての猫・・・敬意をこめて「野良猫」「ストレイキャッツ」はまさしくわたしの同類だと感じました。
      一方に人間を置き、反対側にこの猫たちを置く、するとわたしは、最早完全に、人間たちからは遥かに遠ざかり、「猫たちの側」に在ります。
      何故ならそこには紛れもない美と悲しみがあるからです。

      それに近いのは、篤く病んだ人、老い衰えた人、障害を持った人、(パラリンピックに出るような人は別)、ホームレス、そして北風のように孤独な人たちです。



      Junkoさんは「彼ら」は人間ではないという言い方をされます。けれどもわたしにいわせれば、彼らこそが「人間」なのです。そして上記の人たちや、わたし、更には「野良猫シェルター」の猫たちとは対極の存在です。

      こんなことを言うとまた「卑下」ととられるかもしれませんが、わたしはそもそも「人間」というものが、上記に挙げた命たちよりも尊い存在だとはまるで思っていないのです。

      猿山のエピソードと、

      「シェルターには、生まれつき目の見えない猫、神経を病んでいてギクシャクとしか歩けない猫、足が不自由な猫などがいます。
      彼女は、何日かシェルターに通って猫たちと遊んだあと、最終的にこの神経を病んでギクシャクと歩く猫を選びました。」

      この部分だけで、1万字に勝る重みをこのコメントは備えています。

      わたしが心の拠り所にしている、「人間」以外の存在ー人間以外の生き物の存在。
      そしてアーミッシュのように現代文明を拒絶して生きている人たち。また人外(にんがい)と呼ばれる人たち。つまり「彼ら」の属する「人間社会」からはみ出した存在こそがわたしにとっては、いわば心の支えであり、わたしという存在の拠り所なのです。

      Junkoさん、ふたつさん、底彦さん。

      「ぼくたちのことを「群れている」と批判している彼ら自身が、その一点で同意することで「しっかり群れている」じゃないか。人に投げつけたブーメランは必ず自分のところに戻ってくるんだよ」と嗤う「利口な彼」と、目が見えない、脚が不自由、神経を病んでいる痛めている野良猫や、ごみ箱を漁る少女との関係・・・
      「賢さ」「立派さ」「正しさ」と、「見すぼらしさ」、「敗残者であること」・・・

      「立派さ」と「崇高さ」とは、対極にある概念だというわたしの想いがお分かりになるでしょうか・・・

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    2. Junkoさんへ、(続き)

      >だからTakeoさんがやっている事は、私からすると「悪意に満ちた彼ら」に賛同し、同じ旗を挙げているということのようで、なんか変だなあと思うのです。

      わたしは自分という人間を肯定したくないのです。先日も書きましたが、わたしは今の世の中が嫌いで、こんな世界に生きていたくないと思っている人間です。同時に、わたし個人の思惑とは別に「生きていてはいけない人間」であるという意識が常に根底にあります。ですから自己を是認承認しないのです。したくないのです。
      何故生きていてはいけないのか?それは先日「生きるに値せず」という投稿に書いた通りです。



      「あのブログ」に関するJunkoさんの評価には同感です。あそこには確かに主従関係が透けて見えます。そして一方で、「お仲間」や「露払い」も、別に彼の言葉に心酔しているわけでもなく、それを真剣に受け止め、考え、自らの思想や言葉を涵養しているわけではありません。薄っぺらな上辺の言葉を、彼の好きな言葉で言えば「トレース」して、お義理の拍手を送っているだけです。
      つまりは「娯楽」であり「暇潰し」でしかありません。
      彼に反論や異論を述べても仕方がないのです。

      それと対照的なのが、以前あった、「ですぺら」という渡邊一考の掲示板です。二階堂奥歯も、時折渡邊一考と真剣に哲学的な「議論」を戦わせていました。種村季弘とも親交のあった特異な造本家であり編集者でもあった、ホンモノの大人と、20代前半の二階堂が、真剣で、哲学について議論しているのです。(厳密に言えば「哲学についての議論」というよりも「哲学的な議論」を交わしている)のです。
      「ですぺら」は赤坂見附にあるバーですが、マスターがそういう人なので、客筋も、文学者や編集者が多かったようです。(過去形?)

      つまりあの掲示板がふたつさん、底彦さんの言われる「緩い仲間」たちの見本のようなものです。

      二階堂奥歯は渡邊一考と哲学的な議論を交わすこと、彼に本気で反論することに歓びを覚えていたでしょう。いわば彼女にとっては憧れの人物ですから。
      「だから真剣に議論するのです」。真剣に、本気で彼の発言彼の言葉に反応するのです。



      わたしがJunkoさんについて高く評価しているのは、話の通じない人との交流は時間の浪費でしかないとブログを閉鎖したことです。

      わたしはJunkoさんの星の数ほどいる「ブログ友だち」の多くが、心の底でJunkoさんに反感を持っていたとは思いませんし、逆にみなが悉くJunkoさんの発言に異を唱えてきたから、とは思いません。彼らはきっと、「例のブログ」のお仲間さんたちのような人ばかりだったのでしょう。つまり、Junkoさんは、一考vs奥歯の様な関係を築くことができなかった、そのような存在に巡り合うことができなかったのではないかと想像します。

      表面的には極めて(双方とも書くことが仕事ですから)丁寧な、相手の言葉を承けて自分の表現を紡いでゆくのですが、お互いにそれは違うと思えば引かない気概がある。

      もしここが、「ですぺらの掲示板」に少しでも似ているのなら、それに勝る喜びはありません。



      最後に余談ですが、確か安倍政権になってから年間の自殺者数が激減しました。10何年か連続して、連続年間の自殺者数が3万人を超えていたのが、安倍政権になって数年後から3万人を上回ることはなくなりました。ではそれはみなが多少生き易くなったからでしょうか?或いは自殺防止政策が功を奏しているからでしょうか?
      そうは思いません。要は多くの人が最早「悩むことが出来なくなっている」ということだと思います。それは日本人がどれだけ踏みつけにされ、棄民政治の犠牲になろうとも、娯楽を与えておけば、フランスや香港のようなことは決して起こることはないと、為政者たちが知悉しているからです。


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  11. Takeo より補足

    上記のJunkoさんのコメントは例によって、こちらに反映されず、万一(最早万一ではなく日常茶飯事になっていますが)のために、メールで、同文を送ってもらっています。

    Junkoさんのメールが届いていたのは、本日月曜日午前10時42分でした。

    わたしが頻繁にメールを確認していないことと、ご存知のように昼夜逆転の生活をしているということに依ります。

    また字数制限で2つのコメントにわけましたが、これも、Junkoさん本人が分けたものではないことをお伝えしておきます。

    ふたつさん、底彦さん、そして何よりもJunkoさんにご不便をおかけしたことをお詫びします。

    メッセージへの返信は後程。

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  12. 2年前、2017年の12月17日にわたしは「「ブログ」そして渡辺一考界隈」とういう投稿をしている。彼の話が出たついでに、リンクではなく、その全文をここに転載する。

    これも長いので、2回に分けて。




    最近の事情はしらないけれど、ひとむかし前までは、アメリカではクリスマスの日に、家族そろって『素晴らし哉、人生』と『34丁目の奇跡』という2本のモノクロ映画を観る習慣があったと聞いたことがある。

    『素晴らしき哉、人生』は1946年に制作されたフランク・キャプラ監督の代表作のひとつで、人生に絶望し自殺を図った男が、「二級天使」に助けられ、「彼が生れていなかった世界」を垣間見ることによって、これまでの人生が無駄でなかったことを知り、再びわが家に戻る。そこには愛する妻や子供たちが彼の帰りを待っていて、クリスマスということで集まっていた友人や親類たちが彼をとりまく。その時、クリスマスツリーに飾られていた小さな鐘が鳴る。それは彼を助けた二級天使に翼が与えられたことを告げる鐘の音であった。
    彼はツリーに一枚のカードを見つける。そこにはこう書かれていた、
    「友を持つ者は敗残者ではない」贈り主は、今は翼を得て本物の天使となったクラレンスだった。

    若い頃、このシーンを観たわたしは涙を流した。映画に感動したからでも、二級天使に翼が与えられたことを喜んだからでもない。他ならないわたし自身が「友を持たない敗残者」だったからだ。

    すれっからしのわたしは、キャプラのこの映画を名作とは認めながらも、一方で、たとえそれが小さな田舎町であっても、ひとりの人間が他者に与える影響がどれほどのものかという冷めた目で見てしまう。
    サラ・ポーリー主演の『死ぬまでにしたい10のこと』(原題" My Life Without Me") では、妻であり、母であり、また娘であり友でもある彼女が死んだ後も、彼女をとりまいていた人たちが、まるで彼女が最初から存在していなかったかのように以前と変わらない生活をしているシーンがラストに次々に映し出される。それはまるで彼女とともに死んだものは何もなかったかのように。
    「わたしのいないわたしの人生」は、キャプラの夢物語よりも遥かにリアルだ。



    本を孤独な者の友と呼ぶことがある。そして本とは、作者と編集者によって生み出されるものだ。
    渡辺一考という編集者がいる。
    二階堂奥歯の『八本脚の蝶』に彼を紹介した箇所があるので引用する。

    ★ 2001年7月12日(木)

    < 熱に浮かされて、ですぺらを宣伝するという使命をおろそかにしていた。
    6月25日のところでも書いている、赤坂のショットバーですぺらにみなさまぜひお運びあれ。
    シングルモルト専門店といっても、シングルモルトしかないわけではありません。
    シングルモルトが只事でなくあり、日本酒、ジン、ウォッカ、ビール、カクテル等その他のお酒もたくさんあります。特にワインが充実しています。

    御主人の渡辺一考さんはかつて南柯書局で粋を尽くした美麗な幻想文学の書物を作られた編集者・造本家です。お客さんも文人多数です。
    思わぬ噂話を聞くことが出来るかもしれません。

    私のような小娘が行けるくらいですから、一人でひっそり行っても居心地よし。グループで行かれる向きにはテーブル席もあります。
    先週伺った時には『モルトウイスキー大全』他の土屋守さんがいらしていました。

    お値段も幅広い上、チャージもありません。
    (池袋もけっこうチャージ取らないのですが、するとなぜ馬場のちょっと洒落たバーはチャージ取るのよ!?
    馬場のくせに生意気ではありませんか。学生の財布を考えてほしいものです。)

    場所は赤坂一ツ木通り沿い、赤坂見附駅側を背にして進むと左手に吉野家があります。そのビルの三階です。

    それでまた金魚の話。
    一考さんは金魚の養殖をされていたこともあります。(というか驚くほどたくさんのことをされています)。
    金魚は一言で言えばデカダンスなのだそうです。
    人工的に作り出され、人間の手を離れては存在できない美しくもグロテスクな生き物が金魚だそうです。
    願わくば私も金魚のようにありたいものだわ。>

    ですぺら掲示板に投稿された渡辺一考氏の文章から、自身について述べられていると思われる個所を抜粋する。

    ○ 昔、澁澤(龍彦)さんから、体があまりに弱く入退院の繰り返し。従って尋常の仕事かなわず、売文に明け暮れるようになったと、幾度となく聴かされました。稼ぐ手立てが限られれば、自ずから専心するしかなく。例えば私のようにいささか器用な人間は、結局何者にもなり得ないのかもしれません。
    種村(季弘)さんから、一考は今のままでは駄目、君は人生に今なお未練を持っている、いざりにならなければものは著せないよとの忠告を受けました。この辺りの消息は(加藤郁乎著)「後方見聞録」の解説で触れましたので、お読み頂ければ幸いです。
    投稿者: 一考    日時: 2001年10月10日 〔(  )はブログ筆者〕


    ○・・・きざな言い方で恐縮ですが、酒、書物、オートバイ、暴走族用の車、金魚、レース用もしくはアンティークな自転車、料理、香辛料、アウトドアに関するグッズ、北海道、かつての色街、変態セックス、その辺りをテリトリーに蠢いております。かかる領域でのご質問なら何でもお答え致します。ちなみに、横浜ケンタウロスの一員として、現在なお、族を張っております。
    投稿者: 一考    日時: 2001年10月10日


    ○ 自らを信じ、もしくは自ら肯うところのものを信じ、言葉を換えるなら、拠ってたつ規範を信じる人や必要とする人、さらに言えば、自らの存在に意味や意義があると思うような人を私は俗物として退けます。例えば読書の対象が俳句のみ、ミステリーのみというような人はまさか居ないでしょうが、もし居られるとしたらその方々も同じ意味合いにおいて私は忌み嫌います。これは自らを要約してみせるような人にも同様のことが言えるでしょう。
    (中略) 
    ・・・人も同様で、失意と懐疑というふるいによってその人がいかに風通しのよいデタラメな人品の持ち主に成り果せるかが問われるのであって、職種や職歴が問われるのではありません。
    投稿者: 一考    日時: 2001年10月17日


    ○・・・プライド、オリジナリティー、パーソナリティー、ポリシー、アイデンティティー等々。政治用語から社会学用語に至る虚言に、現代人はすがりつき、振り回されているようです。虚言と申しましたのは、それらの文言は中味すなわち実体をまったく伴っていないからです。虚言癖をかなぐり捨て、肉声を発しようではありませんか。肉声とはおのが迷いであり、逡巡であり、懐疑なのです。それは心の中にふるえを、畏れを、おののきを齎します。でも、それでよろしいではありませんか。精神に賓辞などあろう筈もなく、人に安住の地などあろう筈もないのですから。
    投稿者: 一考    日時: 2001年10月28日


    ○ 二階堂奥歯さんへ、先日の哲学問答に感謝。
    (中略)
    私がポリシーとかアイデンティティーなどという言葉を忌み嫌うのも、自信など持ってよろしいのですか、もしくはひとつの立場に安住していてよろしいのですかとの疑問を自らに突きつけるのを常態としたいからです。
    投稿者: 一考    日時: 2001年10月30日


    ○ 10月30日の東京新聞夕刊の大波小波にも書評が掲載されました。書き手は「風紋」とのみ著されていますが、内容から押して先々代の学芸部長風間寿夫さんではないかと思われます。解説より引用し「今どき、こんな純な言葉をはき出す出版人がいるだろうか」続けて「こんな本を文庫に入れた出版社の見識は見上げたもの」との賛辞。増田さん共々、喜んでいます。
    投稿者: 一考    日時: 2001年10月31日


    ○ ちょっと切り口を換えてみます。「いかように託けようとも、人に存在理由はありません」と著しました。確かに人としての個体には生きる理由も生き延びる理由もなにもないのです。でも、それら余りにも茫漠とした風景に人の心は堪えかねます。そこで編み出されたのが、世のしがらみです。しがらみとは柵(さく)であり、渡しであり、堰なのです。要は流動する心を塞き止めるためのノーハウということになります。謀と言って拙(まず)ければ方策で結構です。その方策の中に人は胡座をかき、かかわりの中に存在理由を見つけ出そうとするのです。即ち人から必要とされる存在であるとの誤謬を自らに刷り込むために。また、存在理由により確とした信憑性を持たせるために、しがらみは時と共に複雑化され、更に錯綜したものになって行きます。しがらみの最たるものが家族であり、仕事であり、友であり、金品なのでしょう。

     さて、しがらみの対極に個があります。個が個であることの証明はひとつ、それは才能と権威の拒否です。才能とは実績に他なりません。さればこそ、実績を積めば権威が生じます。いわゆるその道のプロというやつです。プロに成り果せるのは容易ですが、それを拒むのは然るべき意志力が必要です。何故なら、飯の種を自ら投げ出すことになるからです。山本六三さんは人生の後半、全力を傾注してやまなかった一群のタブローを一枚として売却しませんでした。氏の本意が孰れにあろうとも、六三さんが個に拘泥し続けたのは事実です。志をもたない山本六三さんに同志やともがらは必要なく、人を愛する能力が欠落した氏に連れ添いや伴侶は本来不似合いだったのです。また、特定の趣味を持たない氏に常に親しく交わる仲間の要もなく、定めのない氏の生き方に従者や道づれなど生じよう危惧すらない筈だったのです。そこのところを何時の日か綴らねばなりますまい。
    友の死に思う 投稿者: 一考    日時: 2001年11月11日

    つづく

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  13. 「「ブログ」そして渡辺一考界隈」〔2017年12月27日投稿〕 つづき



    渡辺一考氏は、あたかも「わたし」「自分」「我」という観念が幻想であるかのように語っているように見える。
    二階堂奥歯は2001年10月31日の投稿で次のように書いている

    「自己にすら帰属しないこと。
    一考さんがアイデンティティーという言葉を忌み嫌うのは当然です。
    アイデンティティーを保つとは自己に帰属することに他ならないのですから。
    「二階堂奥歯なる私」など社会的な約束事に過ぎず、「思考者」(いや、「者」が邪魔ならいっそ「思考」でも「思惟」でも)は無名です。名前、自己同一性、そんな重いものを引きずっていたらどこにも行けません。言葉を軌跡としてただ飛べばよいのです。」

    「自己にすら帰属しない」けれどもそもそもそのようなことが可能だろうか?
    人には「思考」以外にも「生理的な好悪」がある。自己の持つ「好き・嫌い」から果たして人は自由に成り得るだろうか?
    果てしなく自己を相対化していっても、そこにはどうしてもこれ以上は譲れないというギリギリの「瀬戸際」というものがあるのではないだろうか。

    一考氏は二階堂奥歯との議論の中で
    「自分に対して「例外はない」「等し並」であると言い聞かせる、自分自身へのイエロー・カードの随時発行であり確認なのです。同列、同様、一様との文字を私が好んで用いるのも他者と自己を差別したくない、もしくは差別など出来る筈がないとの立言に則ってのことなのです。」
    と、繰り返し、「自分は何者でもないし何者にもなりたくない」というようなことを述べている。しかし傍から見れば渡辺一考は他でもない「功なり名遂げた」・・・という表現が適当でなければ、斯界にその名を知られた名物編集者であり著述家である。この掲示板ひとつみてもわかるように、彼の周囲には常に人が集まり、名士たちの輪が花開いている。

    「人間の一生で何が稀といっても「師友」にめぐまれるということほど稀なことはない」と、野呂邦暢は書いているが、渡辺一考という存在は、当人がどう韜晦しようと、またどのような理念を持っていようとも、疑いようもなく' Somebody ' であって、' Nobody ' でも' Anybody ' でもない。

    そして、彼の許に集う多くの「師友」もまた「一廉」の人物たちである。
    「渡辺一考」は如何に望んでも群衆の中のアノニマス、或いはエトセトラになることはできない。

    「歴史とは勝者によって書かれたものである」という言葉がある。
    それに倣って言えば、「書物とは勝者=(才能の持ち主)によって著されたものである」
    何故なら「書物」とは、その一面に於いては明らかに「商品」であって、「売れそうもない」ものを商品化する者はいない。
    渡辺一考氏がいかに「才能・実績」を否定しようとも、出版界とはもとより才能のある者が生き残る世界であり、不本意であっても彼は紛れもなく「勝者」あるいは「生き残り」の側の人間なのだ。

    「出版業界」「文壇」・・・「あちらの世界」・・・本をめぐる世界は横のつながりが強く、身内意識が高く、渡辺氏の言葉とは裏腹に「選良意識」を持った人たちが案外多くいて、一冊の本はそんな臭気の漂う中から産み出されてくるのかもしれないと思うと、本を選ぶ指先も鈍る・・・



    一方で、わたしが好む「ブログ」の筆者たちは、わたし自身を含め、先に述べた意味での「敗残者」であり、何者にもなり得ぬNobody である。
    ある者はひきこもり、またある者は精神を病み、またある者は「死なないためにだけ生きる虚しさ」と語る。
    40代のワーキングプアが「やっぱり自分は「社会」に適応できないなと思った・・・」と書くとき、その言葉の重さは渡辺一考御一統さまとは比重がまるで違うのである。

    ブログを読むとは、敗残者の、悲哀を滲ませた動物としての単独者の生の言葉を聴くことである。
    Somebodyならぬ名もなき者のつぶやきに耳を傾けることである。
    それは決して、本からは聞こえてこない声たちである・・・


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  14. 「 人って、表に出す人もいるし出さない人もいるけれど、大概自分のことを自慢したいんです。自己表現と自慢は一枚のコインの裏表。例えば、私が書物にのめり込んだのも、それは、こんな美しい本があるとか、こんな素敵な本ができたとか、つまりは「すごいだろう」って自慢したいだけなんです。
     何かしている、何かに夢中になっている時って、充実しているじゃないですか。どう顛んでも人の一生なんて、「質の悪い冗談」でしょう。行き先には滅亡しかないんですから。生き甲斐なんてあるわけないですよ。だからこそ、死に至る過程を如何に楽しむかが問題になるんです。それはスタイルであり、なりふりの問題です。例えば、人と話をする時に、信じるべき自分、話すべき自分なんて、どこにもないわけでしょう。でも、それでは会話が成り立たないから、その間だけ無理矢理自分を構築するんです、自分はこうなんだと。要するに、相手の思惟の対極にわが身を置くんです。総論反対、各論絶対反対ですね。そうすると、話をしている間だけは「自分」がある。本来、存在していないに均しいものが存在感を感じる。これ以上の錯覚、これ以上の快感はないと思うのですが。」

    渡邉一考(わたなべいっこう)昭和二十二年二月五日、兵庫県神戸市生まれ。

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  15. こんにちは。

    どうも、パソコンのタッチパットが壊れたみたいです。
    それと関係あるのか、わかりませんが、きのうはインターネットにアクセスできなく成り、回復するのに3時間ほどかかりました。
    (ルーターの設定が勝手に変わってしまったらしい)
    ほかのところは、今のところ大丈夫なんですが、サポートに電話したら、タッチ・パットはもう駄目でしょうというようなことを言われてしまいました。

    いつ使えなく成るかわからないので、出来る時にコメントしておきます。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    まず、初めにお断りしておくと、ぼくは、Takeoさんにに変ってほしいとは思っていません。

    ぼくが思わなくても「変化」は常に起こっているものですし、それを止めることは誰にも出来ません。

    ただし、これはTakeoさんが言っている「変節」とは違うと思います。
    「変節」は、人間だけが行うことであり、要するに「自分の都合だけで、物事を捻じ曲げて捉えること」を言うのだと思います。
    それに対して「変化」は、自然の流れに沿ったことだと思います。
    つまり、言い換えるならば、「自然な変化を捻じ曲げること」こそが「変節」であるともいえると思います。

    だから、意図して「変化してほしい」と思えば、それが「変節」につながると思っていますし、意図して「変わるまい」と思うのも、「変わらないこと」による「変節」に成ると思います。

    要するに、「生成り」のじょうたいがいいと思いますが、ただ、人間の場合は、どこがその「生成り」なのかが、自分でもわからないので、困るということでしょう。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    以下、前のコメントからの続きの話に成ります。



    『>過去に「自分のいるべき時代」を持っていたということは、そして、その時の記憶を持っていられるということは、必ずしも絶望的なことではないと思います。

    これが「絶望」の根源なのです。』

    とTakeoさんがおっしゃっていたことについてです。

    これは、ぼくの個人的な意見ですが、やはり、「いずれ喪われるものなら初めから持たない方が傷つかずに済むのに・・・」というのは、「その喪われるもの」を持っていたから言えることだと思っています。
    「それすら与えられなかった者」の存在を思うと、ぼくにはこれは言えません。
    (Takeoさんやモンゴメリーという人が、それを言うことを批判しているわけではないので、あしからず)

    これを言うと、こういった言葉を残した人たちには失礼なのかもしれませんが、やはり、彼らはほとんどの場合、良家の出身者である場合が多いでしょうし、ある程度の教育も受けていることが多いと思います。
    そして、何よりも「時代」が違います。
    だからこそ、こういう言葉を残すことが出来たわけでしょうし、また、それが出版物などの形で残っているのだと思います。

    そして、やはり、そういった環境があったからこそ、彼らには「喪ったもの」があったんだと思います。
    もちろん、その「喪ったもの」を叙情的にとらえた感性や、それを言葉にして残したことは称賛に価することだと考えますが、「喪うものすら与えられなかった者たち」の存在を思うと、どうしても、「喪ったこと」は「絶望」とは呼べないような気がしてしまうわけです。
    (「現在の絶望」は、これとは違うところにあると思います)

    つまり、それを「彼らが絶望と感じたこと」は、彼らの個人的な感性によるもので、それは、否定する気はありませんが、それを「現在の絶望と同質であるとすること」には疑問があります。

    ぼくの個人的意見ですが、少なくとも、モンゴメリーの感じていたことは、Takeoさんが今感じている「絶望感」とは違うものではないかと思います。

    モンゴメリーの「絶望感」は、抒情的であり詩的なモノだと思いますが、Takeoさんの「絶望感」は、それよりもかなり切実なような気がします。

    さらに強い「毒」を持っているシオランやプリーモ・レーヴィに成ると、かなり「現在」の感覚に近い気もしますが、「現在」の環境は、ある意味では、それを超えていると思います。

    プリーモのような人は極限的な体験をしているのでしょうから、そう簡単には言えませんが、少なくとも、「現在」は生まれながらにして、すべての人が「緩やかな収容所」の中で育つようなものだと思います。

    この『生まれた時から死ぬまでずっと続く』というのが、本当の意味での「絶望」なのではないかと思います。

    ※1960年代頃までのアメリカにおける黒人差別は、「極限的であり、かつ、生まれてから死ぬまで続くでもある」という感じだったと思います。
    カーティス・メイフィールドのアルバム・タイトルに「There is No Place
    like America Today』と言うのがあって、まさにそういう状況だったと想像されますが、さらに言えば、それをようやく言えるように成ったというのが本当で、戦前までの黒人差別はそれを遥かに凌ぐほどであったことも、おそらく間違いないでしょう。

    ※そして、もう一つ付け加えるならば、1800年代から1900年代にかけて、存在した、アメリカの人種差別はおそらく人類史上最悪であったと思われます。
    それは、「奴隷解放」によって、「本当の黒人差別」が生み出されたということからも明らかです。
    奴隷は過去にも世界中にあった概念であり、もちろん、奴隷たち本人にとっては、悲惨なことであったのでしょうが、もう一つの引いた視線から見ると、奴隷たちには「奴隷という仕事」が与えられていただけであって、それは「サラリーマン」には「会社員=社畜」という仕事が与えられていることと、同じことともいえるわけです。
    つまり、「奴隷制」が存在していたことで、「奴隷たち」には「家畜」という役割が与えられていたわけで、一般的に言うところの「家畜(動物)」が、必ずしも虐待されているわけではありませんし、必ずしも侮蔑を受けるというわけでもありませんから、それと同じように、その時代の黒人奴隷たちには、アメリカの中での役割が与えられていたわけです。

    そして、「奴隷解放」によって、「差別」は残り、「役割」だけが奪われてしまったわけです。

    もちろん、『「奴隷」の方がよかった』ということを言っているのではなく、『世の中には「奴隷以下」もある』と言っているわけです。

    本当の意味での「差別」は「奴隷」よりも悲惨だと思います。
    つまり、「奴隷」は「一部の権利」を失うだけにとどまりますが、「本当の差別」は「全ての権利」を奪い取ります。
    (昔の奴隷には、それなりの権利が与えられていたという資料もあるようです)

    「社会」は、「個人」にとっては、常に「一部の権利」を奪うものですが、「現在の社会」は「より多くの権利」を奪うようになりつつあります。
    そして、「現在」は、そういう「本当の差別」や「本当の絶望」が世の中に溢れていると言えば、言い過ぎに成るでしょうか?

    そう感じない人も居るでしょうが、それは「ナチスの収容所」に入れられても、ただ『自分だけは生き残ってよかった』と思う人も居たでしょうから、本質的にはそれと同じことだと思います。

    つまり、現在、Takeoさんが感じている「絶望感」は「かつての時代が喪われたこと」によるのではなく、「現在という時代」が作り出している致命的な「人間軽視」の構造から発生しているものであって、「かつての時代」を思うのは、むしろ、そこに「幻想」や「逃避場所」を求めているからではないかと思います。
    (ぼくが、そう思うだけですが)

    たぶん、Takeoさんは「良い時代」を喪ったというよりも、「現在の闇」に囚われてしまったんだと思います。
    これはプリーモの言う「死者の声」とほぼ同じものだとは思いますが、モンゴメリーの感覚とは違うように思います。


    ただ、ここで「絶望」ではないと思えるのは、プリーモの聞いた「死者の声」も、Takeoさんの居る「現在という収容所」も、「正真正銘の声」や「正真正銘の収容所」ではないということです。

    「本物の死者の声」と「自分の意識が作り出してしまう死者の声」、「本物の収容所」と「自分の意識が作り出してしまう収容所」、どちらが「不幸」であるか?と聞かれたら、『同じ』と答えるでしょうが、どちらが「絶望」であるか?と聞かれたら、ぼくは『本物』と即答すると思います。

    「本物」には「不幸」を感じるゆとりも与えられないような気がしますね。
    だから、そういう時には、自殺者が少ないのかもしれませんね。

    「不幸を感じられること」も「不幸すら感じられないこと」も、同じくらい「不幸」ですが、ぼくの感覚では、「不幸すら感じられないこと」の方が「絶望的」だと思いますね。

    では、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      パソコンのことは全然わからなくて、「タッチパット」とは「キーボード」のことでしょうか?「ルーター」とはモデムのことでしょうか?

      >いつ使えなく成るかわからないので、出来る時にコメントしておきます。

      これは「わたし」も同じです・・・



      先ず「変化」についてですが、

      >ぼくが思わなくても「変化」は常に起こっているものですし、それを止めることは誰にも出来ません。

      この意味がよくわかりません。恒常的な変化とは、「生身の人間の肉体(及びその機能)」のことでしょうか?それとも「社会の在り方・人心」のことでしょうか?それとも「自然界」のことでしょうか?
      わたしに唯一理解できる「常に変わりゆくもの」とは「人間の身体(しんたい)の状態」以外にありません。(敢えて加えるなら「季節の移り変わり」といった感じですが、前から書いているように、現在、本当に「季節の移ろい」などというもがあるのでしょうか?)

      「変節」に関しても、おそらく、わたしとふたつさんの意見にそれほどの隔たりはないはずです。ただ、見る位置、そして表現の仕方が違うのだと思います。
      その上で

      >「変節」は、人間だけが行うことであり、要するに「自分の都合だけで、物事を捻じ曲げて捉えること」を言うのだと思います。
      それに対して「変化」は、自然の流れに沿ったことだと思います。

      実はここで言われている「自然」の意味もよくわからないのです。
      「今の時代スマホを持ってるのが自然だよ」という意味ではないと思います。
      もしそうだとすれば、わたしは 〈「自然な変化を捻じ曲げること」こそが「変節」〉の「自然な流れ」に「自分の都合で」逆らっていますので、「変節漢」ということになります。

      そう思われても一向に差し支えありませんが、ふたつさんが(「わたしの味方だから」ではなく、性分として、気質として)そういうことを言うとはちょっと考えられないのです。

      わたしはいつの時代も、社会の大多数は、「流されている」と思います。当人は流れに乗っていると思っているかもしれませんが、実際は流されているだけです。
      それは「砂鉄たち」が、ちょっと磁石のところに訪ねて行こうじゃないか、と思うのを、あたかも自分たちの意思であると感じているのと同じです。

      「変節」とは、「世の流れに逆らうことを止めたこと」だと思っています。
      例えば勲章や褒章をもらう人間は、単純に「おくに」に褒めてもらえることがうれしいのだと思います。そのはしゃぎぶりは、中島みゆきを見ても、桃井かおりを見ても、高倉健を見ても明らかです。

      つまり自分の都合で、世の流れを捻じ曲げることをせず、あくまでも世の流れと合流すること、世の流れと一体化すること=個を(孤を)失うことを「変節」と見做しています。

      わたしはふたつさんの言われる

      >意図して「変わるまい」と思うのも、「変わらないこと」による「変節」に成ると思います。

      というタイプに近いと思います。「意図して変わるまい」という態度を尊重しますが、わたし自身は、「変われない」「変わる気が無い」といった、もっと消極的なものだと思っています。



      わたしは先のコメントで、A.A.ミルンの「喪うことがこれほどまでに悲しくつらく感じられるものを持てたという幸せ・・・」という言葉の意味があまりに深く、わたしには理解できないと書きました。
      わたしには「悲しむことのできる幸せ」という逆説が理解できないのです。

      このメッセージを読む限りでは、ふたつさんは、「もてた(る)だけ幸せ(或いは恵まれている)」と仰っているように聞こえます。
      モンゴメリーは失うくらいなら最初からない方がいいと言っています。そしてわたしの気持ちは彼女に近い、ということ。

      >「その喪われるもの」を持っていたから言えることだと思っています。
      「それすら与えられなかった者」の存在を思うと、ぼくにはこれは言えません。

      これを読んで、太宰治の「生まれてきたのが運の尽き」という言葉を思い出しました。つまり「生誕の災厄」=「生まれてきたということの不都合・・・」

      生命(いのち)というものが与えられたゆえに、それを喪うという「悲劇」「不幸」があるのです。

      端から与えられなかった者は幸いなる者たちではないでしょうか?

      >この『生まれた時から死ぬまでずっと続く』というのが、本当の意味での「絶望」なのではないかと思います。

      これをシオランは「生まれてきたことの不都合」と言っているのではないでしょうか。彼は「存在していることに堪える」と、至る所で言っています。「それが生きるということだ」と。肝心なのは「敗者であることを学ぶこと」それだけだ・・・」と
      敗者即ち「生まれてきた者」



      There is No Place like (America) Today...

      「今日のアメリカの様な状態は他のどこにもない」、とはいえ、この括弧の中を任意の国や場所に変えれば、この言葉は古今東西あらゆる場所で言われ続けてきたことではないでしょうか?
      「There is No Place like Japan Today」ということは無理でしょうか?
      アメリカの黒人や、20世紀初頭からの欧州のユダヤ人と、現在の日本人をどうやって比べるのか?というのは単に現象をみているに過ぎません。人間の本質とは、常に
      「There is No Place or time like Today」の絶えざる連続に他ならないのではないでしょうか?



      「奴隷制」「奴隷」という存在論については、軽々しく「ああじゃないか」「こうじゃないかと」今のわたしには言えません。これについて言及するにはわたしは余りに無知であり浅知恵に過ぎます・・・
      しかしこのような深く鋭い問題提起がなされるのもここの特徴だと思います。

      この「奴隷制」に関する数行も、底彦さんの愛する絵についての、Junkoさんの描かれた野良猫シェルターについての数行と同様、深く胸に刻み込まれる文章です。



      >「社会」は、「個人」にとっては、常に「一部の権利」を奪うものですが、「現在の社会」は「より多くの権利」を奪うようになりつつあります。
      そして、「現在」は、そういう「本当の差別」や「本当の絶望」が世の中に溢れていると言えば、言い過ぎに成るでしょうか?

      その通りだと思います。

      >つまり、現在、Takeoさんが感じている「絶望感」は「かつての時代が喪われたこと」によるのではなく、「現在という時代」が作り出している致命的な「人間軽視」の構造から発生しているものであって、「かつての時代」を思うのは、むしろ、そこに「幻想」や「逃避場所」を求めているからではないかと思います。

      これもまた非常にわたしにとって難しい問いかけです。
      現実に、「公衆電話」や「ブラウン管テレビ」「裸電球」「カセットテープ」etc....という「モノ」が喪われたというだけでも、それらが存在しない時代というだけで、わたしにとって現在は既に生きるに値しない時代なのです。

      日本という国は明治以来特に「致命的な「人間軽視」」の国です。



      >たぶん、Takeoさんは「良い時代」を喪ったというよりも、「現在の闇」に囚われてしまったんだと思います。

      これはわたしにいわせればトートロジー(同語反復)です。つまり「古き良き時代を失ったこと」が、まさしく「現在の闇」に他ならないからです。

      >ただ、ここで「絶望」ではないと思えるのは、プリーモの聞いた「死者の声」も、Takeoさんの居る「現在という収容所」も、「正真正銘の声」や「正真正銘の収容所」ではないということです。

      プリーモの聞いた「死者たちの声」が本物ではないとすればそれは何でしょう?
      繰り返し書いているように、わたしたちはすべからく個々の主観の内部に生きています。つまり自分の外側に「本物の世界」など存在しないのです。
      それは自分の主観が無ければ世界が存在しない(わたしにとって)ことからも明らかなことです。

      ここでも何故ふたつさんが、「不幸」と「絶望」を異質のものとして扱われているのかがわかりません。
      いったい両者の何が違うのでしょう?


      >「不幸を感じられること」も「不幸すら感じられないこと」も、同じくらい「不幸」ですが、ぼくの感覚では、「不幸すら感じられないこと」の方が「絶望的」だと思いますね。

      >「不幸すら感じられないこと」は「幸福」です。
      つまり痴呆症はまだ人間ですが、今日「不幸を感じない」ことはつまり最早人間であることを止めたことに他ならないからです。
























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    2. 追伸

      父の行き先が決まり、我が家の唯一の収入源であった父の年金がなくなりました。
      弟は、いろいろ考えて、ここに戻ることを保留することになったようです。
      いまのわたしは、前にも増して、「わたしさえいなければ・・・」ということばかりを考えるようになりました。いつ。どこで、どのように・・・そんなことばかり考えています。

      「絶望」というのはわたしにとって「希望」の不在に他なりません。

      そのようことから、いつものように、わたしの状態に細心の注意を払ってメッセージを書いてくれたふたつさんに対し、どこか攻撃的な物言いをしてしまったかもしれません。

      わたしは「こんなことを言ったら相手の気分を害するのではないか?」という気持ちを持たない人を好きではありません。それはわたしが人一倍傷つきやすい=狭量だからでもあり、鈍感で、人の心を傷つける人間だから尚更そう思うのです。
      傷つきたくないし、傷つけたくない。

      もしいやな気分にさせてしまったとしたら、深くお詫びします。

      そしてパソコンの調子の悪い中、丁寧に考え抜かれた文章を書いてくださったことに改めて感謝します。

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  16. わたし自身陰でコソコソいうのも言われるのも嫌いなので、そのようなことのないように、上記の文章を補足します。

    わたしはJunkoさんのメッセージの中に

    「ここは相手の誤解やら相手の気分を害するのではないか?などと言う事を懸念する事なく率直な意見が言える場所だと思っています。」

    という言葉を見つけた時に正直驚きました。そして更におどろいたのは、底彦さんがこの言葉に全面的に賛同していることです。

    無論良し悪しのもんだいではなく、わたしと、Junkoさん、底彦さんとは、意外なところで、相当な考え方の隔たりがあるのだなと感じたということ。

    言うまでもないことですが、これはこの発言によってわたしが気分を害したということではありません。ただ、似たような価値観を持っているように見えて、人って、思わぬところで違うもんなんだなということを改めて認識したということです。

    「ここは相手の誤解やら相手の気分を害するのではないか?などと言う事を懸念する事なく率直な意見が言える場所だと思っています。」

    こういうことを言ったら相手はどう受け止めるだろう?

    端から相手を傷つける意図で発せられる言葉でないかぎり、その配慮は最低限欠かすことのできないものだと思っています。わたしは鈍感な人間でまったくダメですが、少なくとも気持ちだけは現にみなさんが、「現実にはこの言葉に反して」やっているように、相手の気持ちを斟酌するということを、相手の感情に配慮して言葉を選ぶということを常に心に留めておきたいと思っています。

    今なぜこんなことを書いたかというと、ふたつさんのいつに変わらぬ木目細かい心遣いと、わたしの自己中心的な物言いを今日改めて、対極にあるものとして感じたからです。


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  17. Ciao Takeoさん
    「個性」の時と言い、言葉の使い方の難しさを痛感します。
    そこまで、入念に説明しないとわかってもらえないのかな、、と
    私が
    > 「ここは相手の誤解やら相手の気分を害するのではないか?などと言う事を懸念する事なく率直な意見が言える場所だと思っています。」

    と言ったのは、読む側に充分な配慮や気遣いを施した後、自分の思いを文章にした、その後のことを言っています。
    なぜなら、ここにコメントを残す人が、私自身も含め、そう言う配慮をしないで、ここでは何を言ってもいいんだーーなどと買い被って好き勝手な暴言、いい加減な意見を軽く書くことなど、考えられないからです。
    Takeoさんが拘っていらっしゃる、その「相手に対する配慮」とは、もはや実に自然な行為であって、わざわざ「配慮してます」などと特記するものではない、と、少なくとも私は考えています。
    歩く時に右足を出して、おっと次は左だ、などと考えて歩く人はあまりいません。
    それと同じことです。
    ですから、あえて一言で、
    「ここは相手の誤解やら相手の気分を害するのではないか?などと言う事を懸念する事なく率直な意見が言える場所だと思っています。」
    と書きました。
    別に、Takeoさんの反応を見て、自分の言葉を正当化しているわけではありません。
    私は充分な配慮をしないで、文章を公に載せたことがありません。
    自分のブログでも、乱暴な言い方をあえて使っても、配慮を欠かした事はなく、それでも誤解、曲解、攻撃される事はあるのです。
    そういう意味で、ここに来る、少なくともここにコメントを残す人たち及びTakeo さんの間には、根本に流れる共通なものがある、だから少なくとも、誤解や曲解はされないだろうと思っていました。 
    文章やら言葉とは思いの発露であり、まず思いがあって、言葉が生まれます。
    ですから、文章の書き方がたとえ稚拙だったり、説明が足りなかったりしても、そこに真の純粋な思いが流れていれば、書かれた文章はその純粋さやら真の率直さを嫌でも纏うであろうと私は思っているのですが、どうやら私の思いこみだったようで、皆が皆それを感じるという訳ではなかったようです。

    確かに仰る通り、Takeo さんと私は共通の部分は共有していても、それ以外の部分では、むしろこんなに違うのかと思うほど、対極にいると思っています。
    ですから、私たちが似ている。と私は感じたことがありません。
    でもそれでいいのじゃあないかと思います。
    TakeoさんはTakeo さん自身であり
    私は私自身である。それが一番大事なことで、私は友人だからと言って、一から10まで共通のものを持たなければいけないと望んだ事はありません。
    むしろそういう人がいたとしたら、逆に興味を持たないかもしれません。

    私の人となりを少なくともわかってくださっているのではないかと思っていましたから、この言葉の端を捕まえて、妙な深読みされると、少しがっかりしますね
    人と人の間には、やっぱり深い深い谷があったのだなと実感しています。
    私としては、もう少し肩の力を抜いて、いろいろなことを話しあえたらと思っていますが、、、
    思っているより、遙かに難しい事なのかもしれません

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    1. こんばんは、Junkoさん。

      この文章、このコメントを書く際に、「Junkoさんの気分を害するであろう」ことを予め承知して書きました。それはJunkoさんの意見への反論になるからです。けれども、このブログに関しては、「一応」わたしがメインになっている場所ですから、筆者に向かって投げかけられた言葉・意見に、反論という形で応ぜざるを得なかったのです。



      >Takeoさんが拘っていらっしゃる、その「相手に対する配慮」とは、もはや実に自然な行為であって、わざわざ「配慮してます」などと特記するものではない、と、少なくとも私は考えています。

      それが親子であろうと、仲の良い恋人であろうと、「お互いに通じ合っている」ということを、「予め自明の事」と見做すことはできません。少し強い言い方をすれば、それは「狎れ合い」と同質になりかねません。

      >ここにコメントを残す人が、私自身も含め、そう言う配慮をしないで、ここでは何を言ってもいいんだーーなどと買い被って好き勝手な暴言、いい加減な意見を軽く書くことなど、考えられないからです。

      それはそうでしょう。しかしそれでも、それを、疑いの余地のない前提としてしまうことにわたしは抵抗があります。

      堅苦しいと思われるでしょうが、わたしは「作法」というものを重んじたいのです。
      わたしがみなさんに返事を書くとき、みなさんがここに自分の率直な気持ちを書くときに、まず第一に「読み手」の存在を意識しなければならないと考えています。(読み手とは「すべての読み手」のことです)

      侃々諤々大いに結構。けれども、わたしは真剣勝負でありながら、「礼に始まり礼に終わる」という気持ちを重んじます。そして敢えて言うなら頭と尻尾だけではなく中間も「礼を持って」です。

      Junkoさんはこれらすべてを、「自明の事」「いわでものこと」としているようですが、わたしは右足の次は左足だと、常に意識しているような関係を好みます。

      人間は誰も完全じゃない。だから、「欠けている自分」を可能な限り思い返し意識して補う気持ちを持てればと願います。



      >私は充分な配慮をしないで、文章を公に載せたことがありません。

      わたしはとてもそう言い切ることはできません。
      わたしにとって究極の配慮は「沈黙」になってしまいます。

      そこまで極端でなくとも、わたしの書いたものはコメントでも、ブログの投稿でも、自分なりに充分な配慮をしているとは、やはり言えません。
      ほとんどが見切り発車です。そうでなければ何も書けないし何も言えない。
      見切り発車である以上、遺漏は必ずあります。ですから、常に緊張していなければなりません。



      >文章やら言葉とは思いの発露であり、まず思いがあって、言葉が生まれます。
      ですから、文章の書き方がたとえ稚拙だったり、説明が足りなかったりしても、そこに真の純粋な思いが流れていれば、書かれた文章はその純粋さやら真の率直さを嫌でも纏うであろうと私は思っているのですが、

      文章であろうと、絵であろうと、写真であろうと、そこに作者の真情が表れていることと、他人がそれをそのままの形で理解することとは別のことです。

      自分の気持ちが真っ直ぐであれば、それは皆ではないにせよ、この人たちには通じるはず、というのは、ナイーヴに過ぎると思います。これはわたしが身を以て体験してきたことです。

      どんなに真心を込めて真情を吐露しても、肉親にも、親友にも理解されないということは珍しいことではありません。ですから前提とすべきは寧ろ「誤解・曲解」だと思います。
      「こんなことで誤解されるんだ」ということ。それは悲しいことですが、「わたしはあなたではない」「あなたはわたしではない」という、それこそ自明の理を欠いていないでしょうか。



      何度も繰り返しますが、わたしが言っているのは、「反論するな」「異論を述べるな」「自己主張をするな」ということでは全くありません。
      逆に言えばそれあってのこのブログです。

      これもまた充分な配慮を欠いた見切り発車です。過去のわたしのすべての文章と同じく・・・





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  18. Takeo さん, こんにちは.

    > 「ここは相手の誤解やら相手の気分を害するのではないか?などと言う事を懸念する事なく率直な意見が言える場所だと思っています。」
    > という言葉を見つけた時に正直驚きました。そして更におどろいたのは、底彦さんがこの言葉に全面的に賛同していることです。

    はい, そのように書きました.
    自分の率直な思いを書くことができる. そういう場であると感じています. そのような思いで書いたのですね.

    ところがここには相手への配慮が欠落しています. 私自身, Takeo さんに指摘されて気が付いたのですが, そのような考えを持つことができませんでした. 自分の無神経さに驚きました.
    Takeo さんの心に土足で踏み込むことをしてしまったのではないか, と今悔やんでいます. 心が痛いです. もうどうしようもありませんが.
    ごめんなさい.

    私は人から自分の心にずかずかと入ってこられるのが何より嫌です. そのような行為を嫌悪しています.
    なのにそう思っている自分自身がそれをしてしまいました.

    元々がそういうところのある人間なのだろうと思います.

    今はどうにもその醜さに堪え難いです.
    それは治すことはできないでしょう. 意識して努力して行為に及ぶ機会が減らせるかどうかはわかりません.


    > 端から相手を傷つける意図で発せられる言葉でないかぎり、その配慮は最低限欠かすことのできないものだと思っています。わたしは鈍感な人間でまったくダメですが、少なくとも気持ちだけは現にみなさんが、「現実にはこの言葉に反して」やっているように、相手の気持ちを斟酌するということを、相手の感情に配慮して言葉を選ぶということを常に心に留めておきたいと思っています。

    このような思いを持って人に向き合うようにしたいです.

    私は思い上がっていたようです.

    指摘していただいたこと, 感謝します.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      予め、Junkoさんの頭越しに、Junkoさんのコメントを無視して底彦さんに、という意図ではないことを、周知させたいと思います。



      先のコメントで、「わたしが更におどろいたのは、底彦さんがこの言葉に全面的に・・・云々」と書いたのは、今底彦さんがご自身で言われているように、わたしの目には、底彦さんは、わたし同様、「こんなことを言ったら相手はどう思うだろうか?」「あんなことを言ってしまったけれど、今頃気分を害しているんじゃないだろうか?」そして逆に「何故彼/彼女はあんなにズケズケとものを言うのだろう?こちらがどう思うかを考えたことがあるのだろうか?」というタイプだと思ったからです。

      これは必ずしも、鈍感さと繊細さとの対比ではありません。わたしが強調したいのは、人は屡々わたしを「繊細」と言います。しかしわたしは自分の神経質なところ、寛容でないところが好きになれません。わたしは確かにちょっとしたことで傷を負います。けれども、傷を負うこと即ち「繊細さの証し」にはならないということです。

      わたしは本当はもっと豪放磊落でありたかった、気軽に軽口をたたけ合えるような仲間を持ちたかった。いや、持てたかもしれません。このわたしの気質を持ってしても、彼になら何を言われても・・・という関係を築けたかもしれません。けれども「師友は会い難し」無論わたしのせいですが、そういう関係を持つことができませんでした。



      わたしは繊細だから、壊れ物だから気を付けて扱えと言っているのではありません。
      このブログに限らず、またインターネットの世界に限らず、配慮は、「し過ぎた」ということはないと思います。

      実際に会って、目の前の相手の声を聴き、表情を見、仕草を見乍ら話すのと、お互いにせいぜい名前を知っているだけで、顔も、声も、筆跡も、どんな笑顔を持っているのか?どんな風に機嫌が悪くなるのか?そのような、イン・パーソンなら一瞬にして得られる情報が、ごっそり欠けているのがインターネットの文字のやり取りです。極端に言えば、「ネット上の友達」というものが、そもそも語義矛盾であるとさえ感じています。今言葉を交わしている相手との親密さ、相手の存在の密度、重み、という点で、ディスプレイ上の文字だけのやり取りは、「手紙」は言うまでもなく、(相手から受け取る日・言語的な情報の点で)「電話」にすら大きく水をあけられています。つまり単に簡便なだけでしかありません。

      これは釈迦に説法の感がありますが、「相手の気持ちを斟酌する、慮る」ということは、
      わたしがAといえば、「そうです。Aなんですよね。Aしかないもん!」
      でもやっぱりBかも「B!、そこに気付いたというところがさすが!ただ物じゃない、Aなんてみんなそう思ってる。Bに決まってますよ!」
      いや、Cという可能性もあるな「Cなんだあなこれが、ここまで深く考えられるあーたにはもう脱帽・・・」
      といった「太鼓持ち」的な態度のことではありません。

      言葉を発するということは恐ろしいことです。
      「でもそれじゃあ何にも言えないじゃないか」というそのギリギリの一線の上で、わたしはみなさんと話しています。

      どれほど気を遣っても、わたしが底彦さんではない以上、いつ底彦さんの心に傷を負わせてしまうかわからない。逆も同様です。

      わたしが改めて強調したいのは、会って話すことを最善の状態とすれば、次が「手書き」の手紙乃至葉書、その次が電話。
      相手の「身体性」「そのひとをその人足らしめている身体」を一切捨象してしまっているネット上に現れる文字列の解読で、心が通じたと、安易に思うべきではないと自戒を込めて考えます。

      それにしても、ふたつさんの言葉遣いの巧みさはどうでしょう。
      わたしなど舌を巻くだけで、とても足元にも及びません。

      追伸

      >Takeo さんの心に土足で踏み込むことをしてしまったのではないか, と今悔やんでいます. 心が痛いです. もうどうしようもありませんが.
      ごめんなさい.

      これに関しては御心配には及びません。
      わたしはあくまで「言葉と狎れ合うまい」という気持ちでいたいのです。

      わざわざお返事をありがとうございました。



      削除
    2. 追伸

      底彦さん。

      このことについて、何か、心の中に思うところがあれば、わたしのために、皆のために是非聞かせてください。

      わたしは皆が委縮して、言いたいことが言えなくなるという雰囲気にこのブログがなってしまうことを最も怖れます。今回のことひとつにしても、わたしとJunkoさんの意見の相違に過ぎません。もしわたしの例によっての舌足らずで、ここはわたしのブログですから「発言には十分注意してください」と言った、わたしの最も嫌う「決まり事」「校則」「優等生的な」匂いを感じ取られたとしたら、それは全くわたしの本意ではありません。

      「自己主張」「異見」「意見」「謬見」大いに結構。

      ただ、わたしとJunkoさんの違いは、気配りは既にして前提だというJunkoさんと、
      Junkoさん、底彦さん、ふたつさん、そしてわたしという極ミニマルな小宇宙でも、
      気配りを「自明の事」としたくないという「立場のズレ」のようなものです。

      わたしは教師になるつもりも生活委員になるつもりもありません。
      そして「みなさん喧嘩は止めましょう」などという気もありません。
      議論の応酬のないブログなど何の意味があるでしょうか。

      底彦さんの本当に居心地がいいと感じられるブログはどのような形の場所ですか?

      是非参考にさせてください。

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    3. こんにちは, Takeo さん, みなさん.

      言葉, 特にネットでの言葉に関してふたつさんは「必ずや「誤解」に行き着くもの」だと書きました. Takeo さんもまた, インターネットでの言葉はコミュニケーションの障害になるだけだと書いています. Junko さんも言葉の使い方の難しさについて言及していましたね.

      それを念頭に置いた上で, 私にとってネットでのコミュニケーションはある種の救済となっていると書きたいです. それを最も強く感じるのは寝た切りで何もできなくなったときです.
      その最悪の体調をネットに書き込んで自分の確認作業としているのです. 不思議なことです. 世界と繋がっているという感覚があります.
      そんなものはコミュニケーションではないと言われそうですが, 私にとっては確かなコミュニケーションです.

      一方で私にはコミュニケーション恐怖の症状があり, それにはネット恐怖が含まれています.

      メールを読んだり書いたりすることは気分を奮い立たせなければできません. Facebook と LINE は恐怖で開くことができません (Twitter だけは心の病を抱えた人びとの呟きを読めるようにして使っています).

      症状が酷くなったのは, SNS で人格否定・罵倒・嫌味や冷笑・恫喝などの言葉を受け続けたためだと思います. きっかけは仕事での大きな失敗や誰かの意見に対する反応の鈍さ, 気配りの無さではなかったでしょうか (記憶が一部失われています).
      ネットで投げかけられる否定的な言葉は, 言葉本来の意味でこちらに刺さってくると感じます. 心の折れる音が聞こえたようでした.

      インターネットでのコミュニケーションは便利です. その便利さを突き詰めるとスピードと効率がその重要な要素ということになるでしょうね.
      私はそのスピードに付いていけません. 効率的に利用することもできません. 失敗ばかりです. 私は愚鈍です.

      あらためて今回, Takeo さんの心に土足で踏み込むような文章を書いてしまったことに打ちのめされています. 取り返しの付かない無礼をはたらいてしまった.
      同時に, このような失敗を侵した否定の言葉は自分にそのまま跳ね返ってくるものだと実感しています.
      私は相手に対する気配りができないという点で大きな欠落があります. 過去に同じ失敗を何度もしています. いろいろな方法を試しているのですがどうしても治せません. 元々の気質にそういう部分が組み込まれてしまっているのでしょう. そういう人間なのだと受け入れるしかありません.

      ですから私はネットにおいても, 常に何かに怯え, 誰の目にも触れないように, 十分過ぎるほど気を付けて静かにいようとしているのです. それができませんでした. ごめんなさい.

      私はネットで多くの文章を読みますが, 思慮の無い理屈や未知のものに対する知的無関心は嫌いです. そのような文章には多くの場合, 論破のみを目的とした「議論」や, 恫喝による否定が伴っています. これは暴力と言っていいかも知れません. この暴力の匂いが私には堪えられません.

      精神の自由を追い求めることは喜びです. 私はネットという空間でもそのように行為したいと思ってきました. 広大なネット全体がそのようになることは絶望的でしょうが, そのようにできる小さな場所は残っていてほしいのです.
      スピードと効率を重視するネット空間の中で, そういう場所が存在することは不可能でしょう. そこから離れなければならないように思われます.

      Takeo さんのブログが形成する空間には, 不思議な自由さがあります. 安心できる静寂があります.
      はっきりとはわかりませんが, その自由さは Takeo さんの書く文章, 投稿される絵画や詩, 引用などの繊細な構成によって, おそらくはかなり確信に満ちた意図によって成り立っているような気がします.
      だから私は毎日 Takeo さんのブログを開くのです.

      すでに知っている言葉にも別な意味が与えられる瞬間に遭遇することができたり, 世界から弾き出されてしまった者たちの小さな声を聞くことができることもあります. 知恵の花輪を追い求めることができるという気がします. 紡がれ続ける詩の中にいるようだと感じることもあります.

      好きな詩の一行づつを精一杯の想像力を働かせながら読んでいく, その喜びに喩えてもいいと思います.

      私は Takeo さんのブログにそういう場を求めていたのでしょう.
      最初に私は, ネットのコミュニケーションに救済を得ていると書きました. 正しく Takeo さんのブログでのやり取りは私にとって救いでした.
      広大な, しかし暴力性を伴ったネット空間の中にこのような場が静かに存在しているのは驚きです. しかし実際に起こっていることです.

      せめて今後は私自身, もうそれを壊さないようにしたいと思いますが.

      願わくば, この場が守られますよう.

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  19. Takeoさん、みなさん、こんばんは。 


    みなさんのやり取りを拝見していて、改めて言葉(論理)とは、必ずや「誤解」に行き着くものだと思いましたねぇ、わたしは。

    要するに、言葉というものは、非常に単純な機能しか持っていないんだと思います。

    それは、「世界を二分すること」です。

    「自分」と言えば、「自分という言葉」を境界線にして、「自分」と「自分ではないもの」に世界が二分されます。
    (これを積み重ねていくと、「論理」に成りますが、その過程でどんどん理解がすれ違う可能性も生まれてしまいます。)

    ただし、ここで、すでに「言葉の罠」が出来上がってしまいます。
    「自分」という境界線で、二分され得るのは、「自分と自分でないもの」だけですが、人間はどうしても「自分と他者」という対極をそこに挿入してしまいます。
    (厳密に言うと「自分でないもの」と「他者」は違うということです)


    「自分」や「他者」の話だとややこしく成りそうなので、もう少し単純な話で言うと、例えば、「赤い玉」という言葉は、「赤い玉」と「赤い玉でないもの」に、世界を二分します。
    その境界線が「赤い玉」という言葉です。

    しかし、ここにすでに「言葉の罠」があります。

    人間は、往々にして、「赤い玉でないもの」に対して、「青い玉」を想定してしまいます。
    しかし、「赤い玉でないもの」は、「赤い立方体」かも知れません。

    それならまだしも、「赤い玉」の球形が、少しだけ歪んでいるかも知れません。
    いや、それだけでなく、「赤い勾玉」みたいなものがあった場合は、それを「赤い玉」というべきなのかどうか判断できる人などいません。
    「勾玉」というくらいですから、「玉でないもの」とも言い切れません。

    しかし、そうなると、もはや、「赤い立方体」を「赤い玉でないもの」と言い切れるでしょうか?
    一体どこまで、真球体に近ければ「玉」と呼べるのか?
    どの程度まで「角」があってはいけないのか?

    『玉は完全な球体だけだ』ということはできますが、その「完全な球体」は現実には存在不可能ですから、それは机上の空論に過ぎません。

    しかも、問題は「形」だけではなく、当然「色」についても、「赤い」という言葉は、「限りなくオレンジ色に近い赤」から、「限りなく紫色に近い赤」まで含まれますし、そうなれば、問題は、光の周波数の話に移ってしまいますから、上述の「形」の場合と同じで、最終的には、「青」ですら「赤い」に該当しないとは言い切れなくなってしまうわけです。
    (まぁ、最も極端に言えばという話ですが)

    その上、「赤い」とか「玉」とかと言っていますが、それが変化する可能性もあります。
    たとえばリンゴの色は刻々と変化していきますし、蝶の形も卵から成虫まで変化し続けていきます。

    リンゴは「赤い」かも知れませんが、その前は「青りんご」です。
    蝶の卵は「玉」ということもできますが、蝶々は「玉」ではないでしょう。


    こんなにも曖昧な「言葉」というものを使って話をしているのに、何となく話が通じることが、むしろ、信じられないほどですねぇ。

    つまり、話が通じているということの方が錯覚で、本当は全く話なんか通じていないというのが本当なんだということもできますし、それとは逆に、そんな中でも通じる部分がるということは、「ナニカ」が共有されているという証拠だということもできるでしょう。


    まぁ、いずれにしても、「言葉」が持っている領域は、大したことありませんから、そこで、それほど、重大な問題は発生しないような気がしますよ。

    つまりは、その「隔たり」こそが「個人」であるということだと思います。

    要するに、それは、「言葉の機能上の問題」であって、そこに関わっている「人の問題」ではないということですね。
    誰が、どう話しても、必ず最終的には「誤解」に行き着きますが、それでも、話を続けることは出来ますから。

    ただ単に、嫌いな相手と、そうまでして話し続ける人は居ないということです。


    でも、ここにも、また「罠」があります。
    ほとんどの人が、「誤解」によって、その人を嫌いになってしまうという「罠」があるわけです。

    でも、これも「言葉の罠」であって、「その人が仕掛けた罠」とは限りません。
    「言葉」は、そういうモノですね、残念ながら。

    本当は、「言葉」よりも人間の心の中をダイレクトに伝えられる手段があればいいんですが、無いので、「言葉」で我慢しているしかないともいえるし、その足りないくらいが丁度いいんだともいえるでしょうね。

    まぁ、ぼくに言えるのはそんなことです。


    では、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      わたしはインターネットというものをやり出した時から、つまり20世紀末から、インターネットでの「言葉」は(少なくともわたしにとっては)コミュニケーションの障害になるだけだ、という思いをいやというほど味わってきました。
      だからわたしはネット上で、言葉以外で繋がれる場所に逃げたのです。それがMySpaceであり、その後のTumblrです。

      >言葉(論理)とは、必ずや「誤解」に行き着くものだと思いましたねぇ

      これはわたしの20年間のネット生活の結論でもあります。



      「わたしはあなたではない」「あなたはわたしではない」この個別性は当然自明のこととすべきでしょう。その端から異なっている「わたし」と「あなた」との隔たりに架橋する努力、その営みが言葉を発するということだと思います。つまり、試行錯誤の連続です。ダイレクトに、簡単に「わたし」と「あなた」が通じ合えるわけがないから、あの道この道、あの言葉この言葉と模索してゆくのだと思います。
      ですから、わたしが長文のコメントを好むのはそのためです。その人が何を言いたいのか?それを理解するためには文脈が必要です。何故なら、辞書の中の言葉たちは、彼の紡いだ文脈の中でこそ、ある特定の意味と意図を与えられるからです。

      わたし個人の意見ですが、まったく同じ内容でも、こういう場所にこのような形で書かれたもの例えばメールと、手紙とでは、差し出したものと、受け取った者の距離が格段に誓います。

      手紙には当然その人物の身体性が含まれているからです。

      >本当は、「言葉」よりも人間の心の中をダイレクトに伝えられる手段があればいいんですが、無いので、「言葉」で我慢しているしかないともいえるし、

      繰り返しますがわたしは言葉だけで、人と人とが通じ合えるということは非常に難しいと思っていますが、人間は、非・言語的な情報をも受け取ることができます。
      これは「文字」ではありませんが広義の「言葉・言語」と言えるでしょう。

      デイケアなどで、話すのが不得手な人が、それでも何とか自分の気持ちを伝えたいという想いは、見ているだけで強く伝わってきます。それは立て板に水の人の言葉よりも、重たく感じられます。

      人に自分の気持ち、感情を伝えるということは、相手に向き合うのと同時に、言葉と対峙することでもあります。そして言葉と向き合うことは畢竟自己と向き合うことです。

      わたしは嘗て、ブログのコメント欄でも、所謂掲示板でも、狎れ合いか、罵り合いしか見たことがありません。そうでない場というものを作りたいと思っています。



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  20. 「ワタシハアナタデハナイ」「アナタハワタシデハナイ」

    この永遠の深淵・・・

    「ダレモワタシデハナイ」

    この完全なる孤独・・・

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  21. このブログをこれ以上続ける意味があるのか。
    おそらくないだろう。

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