2019年10月3日

二階堂奥歯の世界認識への異論…


以下、二階堂奥歯『八本脚の蝶』より、2002年1月19日の記述を全文引用する。


「(前略)それじゃ始めるよ……月」
「月の光り」
「爪」
「爪で掻く金属の皮膚」
「剣、剣の上」
「剣の上に乗る裸足の脚の先」
(中略)
「裸足の人形の土で出来た十二匹の鼠」
「青く塗られた人形の前にひざまづき歌う十二人の水兵」
「水兵の青く塗られた唇に挟まれた薄荷煙草の……」
「煙草の先の炎に眼をつけ世界を見る柔らかな少年……」
「少年の海は疲れた魚の群に頭をつけて……」
(中略)
「頭から剥がれ落ちた魚の群に身を投げる女王の……」
「女王のトランプをくすねた歪んだ頭のイギリス人の尻を蹴飛ばし……」
「走るイギリス人の脚に」
「走るイギリス人の脚にもたれた眼のない兎の」
「眼のない兎の走る脚に」
「眼のない兎の走る脚に」
 二人は同時に唱和し始めた。
「帰らないことを前提とした故郷に棲む兎の、眼のない兎の、月、剣、爪。シーラカンス、ブーゲンビリア」
(牧野修『MOUSE』ハヤカワ文庫)

常にドラッグを体内に摂取し続けている17歳以下の子供たち(マウス)が住む、廃棄された埋め立て地、「ネバーランド」。
全員が常にそれぞれの幻覚を見続け、「客観的現実」がないそこでの攻撃とは、言葉によって相手の見ている幻覚(=現実=世界)を変化させ屈服させることである。
そしてそこではまた、誰かと同じものを見るにはお互いの主観を重複させなければならない。引用したのはそのために自動筆記のように連想を重ね、意識を同調させていく儀式。あまりに美しいので丸ごと書いてしまいました。
世界は言葉でできているということを、「ひとつのリアリティ」を持って描いた優れて詩的な作品ではないでしょうか。

実際に、世界を認識する枠組みは世界の中から変えていくことが出来る(そして無論「世界の外」は語義矛盾だ)。何を読み、何を見、何を認識し何を考え何を感じたかがさらなる世界像を作るのだから。
この世界の読み手にして創造者にして登場人物である私には、作りたい世界像に向けて世界の中から読みとるものを取捨選択することができる。
(下線Takeo)



何を読み、何を見、何を認識し何を考え何を感じたかがさらなる世界像を作る」ことは確かだ。しかし、そのことと、「世界を認識する枠組みは世界の中から変えていくことが出来る」ということを混同することはできない。
わたしが自己の感受性や美意識によって取捨選択し構築した世界、それはあくまでも「わたしという一個人」の「内的世界」「内宇宙」でしかない。そして自己の内側に、自己の美意識に基づいた世界を持つことは、「世界を認識する枠組みは世界の中から変えていくことが出来る」どころか、逆に現にわたしの外側に、「わたしとは全く無関係に厳として存在している客観的世界」との乖離を深めることすら意味している。

何かを読み、何かを見、何かを認識し何かを考え何かを感じたかがさらなる世界像を作る」そのことによって、わたしはますます現実の世界から遠ざかってゆく。

「内なる世界」と「客観的(現実の)世界」とのギャップを埋めるのは、正にこの小説に描かれているように、薬物によって、現実から逃避するという方法以外にはないのではないだろうか?わたしは「ドラッグ」であろうと、「向精神薬」であろうと、「アルコール」であろうと否定はしない。目の前に立ちふさがる厳然たる客観的世界と折り合えない以上、そしてその巨大な壁を破砕することができない以上、「世界の見え方」を操作する以外ないではないか?極端な言い方だが、「精神科医」の処方する向精神薬もまた、「薬物に依る自己欺瞞」と言えるのではないか。
何故なら、それは「現実の虚構化」に他ならないのだから。現実を変えることができないから「現実を見る眼差しを変える」ことなのだから。

「世界は言葉で出来ている」のではない。世界は感覚=刺激の集合体だ。そして世界は先ず「身体」によって「生理的なレベルで」認識される。世界は言葉ではなく、それは「光」であり「ニオイ」であり「色彩」であり「音」なのだ。

繰り返す。

自分の美意識によって形作られた内面世界は、客観的世界と相容れない。
もし「今・そこにある世界」になんの不満も欠乏も感じていなければ、「内的世界の創造」の必要などないからだ。

何を読み、何を見、何を認識し何を考え何を感じたかがさらなる世界像を作る」
ことは、
実際に、世界を認識する枠組みは世界の中から変えていくことが出来る」
というテーゼに背反する。「自分の作り出した世界像が世界の認識の枠組みを変える」のなら、「わたしの外側」に確固として存在する世界を如何にして「認識の枠組み」から「除外」するのか?

意地の悪い言い方をするなら
世界を認識する枠組みは脳の中から変えていくことが出来る」だろう。

しかしわたしは、ドラッグ、アルコール etc....によって、現実の世界に存在することの苦痛から逃れることができるなら、それを「悪いこと」だとは思わない。

19世紀末、「絶えず汝自身を酔わしめてあれ!」と叫んだボードレールに同調するように・・・

「現実の世界」に忠実でなければならない理由とは何だ?















3 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    二階堂奥歯さんのこの日の日記は私の好きな文章の一つです. それが気に入っているという理由は Takeo さんが

    > 「何を読み、何を見、何を認識し何を考え何を感じたかがさらなる世界像を作る」ことは確かだ。しかし、そのことと、「世界を認識する枠組みは世界の中から変えていくことが出来る」ということを混同することはできない。

    また

    > 「何かを読み、何かを見、何かを認識し何かを考え何かを感じたかがさらなる世界像を作る」そのことによって、わたしはますます現実の世界から遠ざかってゆく。

    と書いた, その文章です.

    冒頭に引用される不思議な言葉遊びと, それについての奥歯さんの言葉は私にとって印象的なものです.
    奥歯さんは

    > 世界は言葉でできていることを、「ひとつのリアリティ」を持って描かれた優れて詩的な作品ではないでしょうか。

    と言っています. 日記を読むと奥歯さんは大学でのクワインの輪講にも参加しています. 奥歯さんの思考の様式が窺い知れるようで興味深いです.
    世界を言葉で認識していく, 言葉によって構成されたものを自らにとっての世界として捉える.

    日記の別の文章で奥歯さんは見るという感覚への強い傾倒を書いています. 子どもの頃に見ることに使命感を持っていたといった文章だったと思います.
    私はこの日の日記も好きで, 「見たものだけが存在する」という言葉が自分の中に残っています. この言葉はもしかしたら奥歯さんは言っていないかも知れませんが, それにしても奥歯さんの日記を読んだ私が得た言葉です.

    これは上の, 言葉によって世界を作り出すということと合わせて私にとっては魅力的なものです. 見ること, そして言葉にすること, それによって世界を構築していくこと, このような考え方は私の思考形式と合っていたようで惹かれています.

    一方で, そうして構築された自分の内的世界と現実の世界との間には Takeo さんが書いているようなギャップがあります. それを埋めるためには強力な思想か, もしくはドラッグやアルコールなどの薬物による逃避が必要と思います.
    強力な思想はいろいろな人がいろいろな側面から必死に考えているのだろうと思いますが, 現代に至っても存在していないのではないでしょうか.

    もちろん私自身にそのような思想など作り上げられるわけもなく, そして私は正しくアルコールに逃避して依存症になりました.

    > 「現実の世界」に忠実でなければならない理由とは何だ?

    という Takeo さんの問いかけは多くの, 特に精神的な人間が抱く苦しみではないでしょうか.

    私自身, 頼りにしていたアルコールから離れたことによってこの苦しみに再び直面する結果となりました.
    おそらくずっとこの問題と向き合っていかなければならないのだろうと思います.

    あまり深く考えることができませんでしたが, 好きな奥歯さんの文章に出会ったので短く書いてみました.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      最近また絵を描き始めたようですね。少しづつでも続けられればいいですね。

      二階堂奥歯はたまに読み返したくなるんです。
      といって、最初から最後まで精読したことはありませんが。

      アマゾンのレヴューでもそうですが、彼女の文章はわりと明確に好き嫌いが分かれるような気がします。つまり「二階堂奥歯という女性は精神を病んでいる」と見る人が多いと感じます。そして、「好き」という人は「普通じゃない」=「病んでいる」から好き、「嫌い」な人は「何を言っているのか分からない」「本の引用ばかり」・・・

      わたしは彼女が精神を病んでいると感じたことはありません。世界認識が独特であることが、「病んでいる」ことになるのだとしたら、今更ながら、恐ろしい世界にすんでいるのだなと慄然とします。

      わたしがこれを書いたのも、彼女の「世界は言葉で出来ている」という認識に同意できなかったからです。彼女が一個の精神としてこの世界に参加しているなら、わたしは精神以前に、ひとつの身体としてこの世界に存在しています。

      わたしはこの世界に「身体的・生理的レベルで」苦しめられています。
      それが上に書いた「音」であり「ニオイ」であり「光」「色」です。

      彼女の議論のように、世界内存在として、自己の身体性を捨象するなどということは到底考えられないことです。

      ここでも何度か書いていますが、わたしは「言葉」というものを左程信頼していない、というか、人間という存在を煎じ詰めれば、結局誰しもが一個の肉体であり生体であると思っています。



      「私はどこまでも身体であってそれ以外の何ものでもない。
       (略)
       キミの思考と感情の背後に一人の強力な命令者、知られざる智者がいる。その名を「自己」という。キミの身体にそれは住む。キミの身体がそれなのだ」
      というニーチェの言葉を引用して、木村敏は、

      「自己」の問題を正しく考えるには、身体と精神の「存在論的地位」を根底から転倒させなければならぬ。精神現象を正しく捉えるためには、まず「精神」(イッヒ)のあったところに「身体」(エス)の生成を見なければならない。
      「身体」こそ出来事の唯一の場所であり、精神はむしろ「外延」(エクステンシオ)の場である。身体は現実的普遍的の世界に向かって開かれ、精神は抽象的個別の内部にとどまっている。」

      わたしはどちらの考え方が正しいなどということに関心はないのです。二階堂奥歯には彼女の哲学があり世界観があっていい。ただ、わたしは個人的に、この木村敏の説に共感するのです。

      病んでいようがいなかろうが、要は書かれていることが魅力的かどうか。それがすべてです。

      「深く考えて」書かなければならないということはありません。雑談気分で気軽に意見をきかせてください。

      コメントをありがとうございました。

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  2. 追記

    日本人て何故「引用」を嫌うのでしょう。
    気の利いた「引用」のない名スピーチ、名演説というものがあったでしょうか?

    能力のある政治家や名優でなくとも、それこそ普通のアメリカの女子高校生が様々な引用を巧みに織り交ぜながらおもしろい会話をするのに対して、日本人は、何故それほど「自分の言葉」という「様式」に固執するのでしょう?世界で最も「自分の言葉」を持たない民族でありながら。

    引用引用と批判する人たちが、じゃあ二階堂ほど自分の言葉で書き、話すことができるでしょうか?

    まず自分の考え、自分の言葉を持たなければ引用は至難の業です。

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