2019年10月4日

秋ー瀬里香さんのコメントに寄せて


ネット上だけですが、かれこれ11~2年の付き合いになる瀬里香さんから久しぶりにコメントを頂きました。



本当はもっと動き回りたいしお金を稼ぎたい…にもかかわらず、思い通りに動けないときは「休むのも忍耐」だと思ってゐます。生きるでも死ぬでもなく休止中。今は彼岸花や秋桜を眺めさせてください。金木犀の香りを楽しませてください。さういうご褒美があるから生きてゐられます。



こんばんは、瀬里香さん。久し振りです。

こういう言い方はたぶんあまり適切じゃないのでしょうけれど、わたしは瀬里香さんが羨ましい。わたしは毎日毎日なにもしなくていい。でもそんな人生が楽だとか楽しいと思ったことは一度もありません。なにもしなくてもいい・・・なにもできない、なにかをしたいとも思えないのです。

東京は日曜日はまた30℃を超えるだろうという予報です。毎日エアコンをつけています。お彼岸を過ぎてからも連日30度近い暑さだからです。

去年の10月の記事を覚えています「秋、感興なし・・・」昨年の秋、やはり生暖かい空気の中で、金木犀の匂いに触れました。金木犀の匂いが漂ってくると「ああ、秋だなぁ」と息をつき、沈丁花の匂いを感じると春が来たと感じていたのが、はるか遠い昔のことのように思えます。

春は名のみの風の寒さよ 
庭のうぐいす 歌はおぼえど
時にあらじと 声もたてず
時にあらじと 声も立てず

わたしは検索することが嫌いなので間違っているかもしれません。
検索云々以前に、わたしの世代(50代)でこの歌の歌詞を憶えていないなんて恥かしいことです。題名すら知らないのです。

 今は時であろうとなかろうと、気温が30度近くとも金木犀は咲きます。
「時ニ不ズ…」などということは、もはやどこにも求めようもありません。

やがて秋が来て 子供たちの踝(くるぶし)まで青空が下りてきた

もうこのような秋を見ることはないのでしょうか・・・


大田区に居た頃、この時期には自転車で馬込から大森駅まで行く途中、あちらこちらの庭から金木犀の香りが漂ってきました。広くはありませんが、17年間住んでいたアパートの庭にも、金木犀も沈丁花も、桜も紅葉もありました。

毎度の愚痴ですが、郊外に来て、相前後して唯一の友人を失った時に、わたしの人生は実質的に終わったのだと思っています。

近くの公園に金木犀の樹があります。春には花見客がそこここの桜の木の下に見られるくらいの規模の公園です。
しかし今のわたしにとって、公園とは木を伐る場所、落ち葉を掃き清める場所、そして(木を伐る音、落ち葉を吹き寄せる音で)やかましくうるさい場所です。

「さういうご褒美があるから生きてゐられます。」

わたしにそういうご褒美が無いのは、瀬里香さんのように懸命に人生を生きていないからでしょうか?

「命懸けじゃない人生」、妙な感じですね。

「今は彼岸花や秋桜を眺めさせてください。金木犀の香りを楽しませてください。」

こう言える瀬里香さんを心から羨ましく思います。

素敵な秋が訪れますように。




3 件のコメント:

  1. こんにちは、Blueさん、ずいぶん昔からいつもありがとうございます。
    10月になつたのに名古屋も相変はらず暑く、ツクツクホウシが大合唱をしてゐます。本来ならそろそろ鍋料理が恋しくなる季節のはずですが、まだまだ冷奴や素麺ばかり食べてゐます。春は名のみの…の歌は中田章さんの【早春賦】ですね。大好きな歌です。中田章さんの息子さんである中田喜直さんの【夏の思い出】も好きな歌です。

    わたしも命懸けで生きてゐるわけではありません。命を削つてまで生きるのは本末転倒ですので。仕事が休みの日は適当に自転車にまたがつて山奥に逃げてゐます。山奥で滝を見つけると最高です。電子音から解放されてナマの水しぶきの音を聴きながら滝つぼを眺めるのは最高の御馳走です。

    誰にとつても足手まといでちつとも役に立てないわたしが今も毎日生きてゐるのは、ちやんと生きないとちやんと死ねないやうな気がするからです。無残に木が切り倒された公園は痛々しいので、わたしはそれを見ないやう都合よく目を閉じて生きてゐますが、目をひらいていられるときは逃げ場を必死で見つけ季節のお花を眺め倒すやうにしてゐます。それは無料かつ最高の慰安所だし無料かつの御馳走だから。病院で処方されるどんなお薬よりも最高の処方箋だから。

    Blueさんにとつて心が休まる場所、安心して心をリセットして充電できる場所が見つかりますやうに。わたしは茶碗をひつくり返すやうにリセットしたときの余白が好きです。音をはじめとした情報がぎゅうぎゅうづめだと息が詰まつてしまひます。だからわたしは逃げてばかりゐます。生きる為に逃げてゐます。ちゃんと生きないとちゃんと死ねない気がするから。

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    1. こんばんは、瀬里香さん。

      ああ、「早春賦」か、そうかそうか。
      「夏の思い出」ママさんコーラスみたいですね。

      「夏が来れば思い出す はるかな尾瀬 遠い空

      その次忘れた (霧の中に浮かび来る?)

      水芭蕉の花が 咲いている 夢見て咲いている水のほとり

      次また忘れた」

      いいですよねこういう歌。
      特に好きなのは「浜辺の歌」(あした浜辺をさまよえば 昔のことぞ忍ばるる)
      「夏は来ぬ」(菜の花のにおう畑に ホトトギス 早も来啼きて 忍び音もらす 夏は来ぬ)

      やっぱりわたしはこういう日本が大好きなんです。だからこそ、現代の日本が嫌いで、憎くてたまらない。

      >山奥で滝を見つけると最高です。電子音から解放されてナマの水しぶきの音を聴きながら滝つぼを眺めるのは最高の御馳走です。

      母は、見たことはありませんが、「滝」というイメージが大好きで、また瀬里香さんとは逆に、歳とともに暑さに弱くなっているので、河や滝の近くに行きたいと時々言います。

      けれどもわたしは何もしてあげることができない。母にも、自分自身にも。

      >ちやんと生きないとちやんと死ねないやうな気がするからです。

      今のわたしにとって、「ちゃんと死ねない」ということは「自殺に失敗する」という以外の意味を持たないので、瀬里香さんの言われていることがよくわかりません。

      そして別にちゃんと生きたいとも、ちゃんと死にたいとも思っていないのです。
      (自殺の失敗だけは御免ですが)

      なににせよ、わたしに「ちゃんと」という言葉は似合いません。

      以前も書きましたが、ルソーは、「不治の病をなおせるのは緑の野山だけだ」と言っています。「自然に還れ」のあのジャン・ジャック・ルソーです。

      少なくとも現代の日本に、わたしが心から安らげる場所など無いと思っています。
      滝壺に行けば、滝をスマホで写している人が必ずいるはずです。SNSに載せるために。
      かといって、前人未到の、人が決して来ない滝を見つけることも出来ません。

      瀬里香さんは、確かに診断としては、また症状としては、わたしよりはるかに重い「心の病」かもしれません。けれども、瀬里香さんの言葉からは、プリーモや石原吉郎のように、魂の芯の部分が蝕まれているという感じを受けないのです。

      飛び降りたプリーモは、失見当識著しく、酒におぼれた最晩年の石原は、「ちゃんと死ねた」のだろうか?

      彼らの死がちゃんとした死であるならわたしにも希望はありそうです。

      東京地方 明日土曜日の予報。最高気温32℃、「昼間は真夏並みの暑さ」

      ことしはツクツク法師の鳴き声を聞いていません・・・

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    2. 訂正

      「夏は来ぬ」の歌詞ですが出だしから違っていました。母によると「卯の花の匂う垣根に」だそうです。尚、書く時には「におう」と書きますが歌う時には「におおかきねに」となるはずです。そういえば最近のアナンサーはちゃんと「鼻濁音」を使っているのでしょうか?「鼻濁音」この文章で言えば──「匂う」と書きますがの「が」が鼻濁音になるはずです。「ガ」ではありません。

      「夏の思い出」昔の母の手帖によれば、作詞 江間章子 作曲 團伊玖磨のようです。

      ウィキペディアなどで確認せず、瀬里香さんの憶えているままで書いてくれたことに感謝します。

      もっともこの母の手帖に書かれている作詞・作曲家が絶対に正しいとも限りませんが・・・

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