2019年10月8日

「健康」とは手段であって「目的」ではない。


このところ物事をあまり深く考えることが出来ない。「なにもかもどうでもいい」という、濡れ雑巾のような物憂く陰鬱な感情、「億劫」「大儀」「めんどくさい」「クソくらえ」・・・手の中の雑巾を絞ってどうなるというおもい・・・それは、抑うつ(鬱)状態の亢進というよりも、むしろ厭世観の深まりだと感じている。「厭離穢土」の気持ちが高まっている。

今月18日に保健所の保健士(若い男性)と、市の障害者福祉課から地域担当の保健士(若い女性)が訪問してくれることになっている。先日わたしがどういう風の吹き回しか、保健所に電話をして、この閉塞感の中で生きていることがたまらないと訴えたからだ。過去に何度か保健所に電話をしたことはあったが、男性の保健士と話したのは初めてだ。電話からは、「力にはなれないかもしれないが、自分なりにベストを尽くしたい」という気持ちが伝わってきた。継続して相談をするには、わたしの住んでる地区担当者と話すことになる。もしその男性がたまたまその日に電話に出ただけで、この件は、地区担当者に引き継ぎますということであれば、それならば結構ですと断るつもりだった。けれども偶然その男性がわたしの地域担当の保健士であった。

しかしわざわざ保健所と市の障害者福祉課の保健士に来てもらって、一体何を伝えたいのか?



今日のデイケアのテーマは「生きづらさ」だった、午前中のプログラムにはほとんど出席できないのだが、皆がどのような「生きづらさ」に悩んでいるのかだけでも知りたいという思いが勝った。

配られたプリントのテーマは「生きづらさとリカバリー」というものだった。
万難を排して午前中のプログラムに参加したので、誰がどう思おうとも、言いたいことだけは言わせてもらうという気持ちで、「リカバリー」とは何を意味するのか?といういつもの疑問を呈した。
わたしにとって、現代の世の中に、少なくとも現代の日本に「生きるに値する」と思えるものは何もない。そのような「真空地帯」に於いて、「リカバリー」=「健康になる」「外に出られるようになる」「元気になる」「回復する」呼び方は何でもいいのだが、そのようなことに何の意味があるのかまるでわからない、「真空地帯で元気でいること」それはどういうことなのか、と。

「リカバリー」でも「元気になる」でも「良くなる」でも何でもいい。それは「元気になって」「良くなって」「外に出られるようになって」から「やりたいこと」「やってみたいこと」という目的・目標があることが前提になるのではないか?
そのようなものが無い者にとって、「良くなること」とはどのように位置づけられるのか?

数か月前から出席するようになった、頭の切れる感じの60代くらいの男性が、「それは良くなってゆく過程の中で見出してゆくものじゃないのかな?」
先日引用したリルケの言葉に添えたわたしのアネクドート、
「良くなってどうする?」
「それはよくなって初めて分かることなんだ」という珍問答を思い出した。
しかし「リカバリー」とは、そして「健康」とは、あくまでも「手段」であって、目的化できるものではないはずだ。

今日のデイケアで改めて感じたことは、他の参加者は、程度の差こそあれ、皆「リカバリー」なり「改善」なり「軽快」をもとめてプログラムに出席している。けれども、わたしは、「リカバリー」も「回復」も求めていない。わたしがデイケアに参加するのは、「先のこと」を考えてではなく、その1時間なり2時間なりをそこに居る人たちと共に過ごすこと。その束の間の交流のために行っているのだと。



「公衆電話のない世界」「裸電球のない世界」「ブラウン管テレビのない世界」「カセット/CDウォークマンのない世界」に生きたくはない。煎じ詰めればこれがすべてなのだ。
今回の消費税の増税で、わたしにとって一番大きなダメージだったのは、モノの値段が高くなること以上に、すわキャッシュレス社会の到来かと、頭の中まで「キャッシュレス」な連中が色めきだっていることだ。わたしは言うまでもなく貧乏人だが、多く払っても現金=紙幣と硬貨で死ぬまで通したい。

わたしは保健所の保健士に伝えてある。絶対に持ちたくないもの ー「スマホ」「タブレット」そして「スイカ」「パスモ」。そしてどうしても必要なものは「テレカ」だと。

「時にあらず」・・・なんども繰り返してきたが、「わたしの時」は二度とは来ないのだ。



白内障の悪化で、右目が見えない。手術をしてどうなる?という気持ちと、以前、御茶ノ水の大きな眼科病院で左目の白内障の手術をして、結果があまりよくないことも手術を躊躇させる原因になっている。見えないからと言って手術をして、左目のようにならないという保証はないのだ。それに、今更濡れ雑巾を絞ってどうするという気持ち・・・

「目」にしたところで、やはり「良くなってどうなる」という気持ちがある。

苦しいのは、困っているのは「生きづらさ」にではない。わたしは生きたくはないのだ。そして必要なのは「リカバリー」ではなく「死ぬこと」だけなのだ・・・

母は言う、目が見えないとちゃんと死ねないよ。

仕事をしていないことを恥ずかしいとは全く思わない。
ただ、このように生き永らえていることがたまらなく恥ずかしい。


ー追記ー

あるブログに本の紹介があった。タイトルは『逃げ出す勇気』。帯には「ベストセラー精神科医が伝えたい「生きること」の大事さ」 さらに「今よりも幸せになるために逃げ出しましょう」

何のことやら

"No Way Out" 「逃げ場はない。死に場所があるだけだ」



ご覧のように、最早人に読んでもらえるだけの文章を書くことができません。
もしここまで読んでいただけた人がいるのなら、ありがとうございましたと言わせてください。









2 件のコメント:

  1. Ciao Takeoさん
    健康と非健康のまさにその狭間に今位置している私が、もしかしてこの書簡に一番意見を述べやすいのではないかと思い、一言。
    健康とはなんの支障も不自由もなく、毎日を過ごせる事なのだと実感しています。
    私たちは普段、「健康」な時は、その肉体の存在を忘れます。
    だって胃が痛かったら、胃の存在を気にしないで過ごすことはできないし、足が痛かったら、腰が痛かったら、歩く度に、もしくは椅子から立ち上がり、椅子に座る度に、足腰の存在を意識しないわけにはいかない。
    そういう事を何も考えないで一日を過ごし、活動し飲食することができる、つまり日々身体のどこの存在をも気にすることなく暮らせる状態を「健康」と呼ぶのではないかと思います。
    ですから、病んだことのない人にとっては、健康とは、ただごく「普通」の状態を意味する事になるのではないでしょうか?

    「良くなってどうする?」
    「それはよくなって初めて分かることなんだ」という珍問答を思い出した。

    私に言わせると、
    「良くなってどうする」
    「それは悪くなって初めて分かる事なんだ」 になります。苦笑
    健康という事は失ってみないと、悪くなってみないと、本当にはわからないのではないかと今回実感しています。
    問題が起きて、それが今まで普通に過ごしてきた時間に異変を生じさせてから、もしくは今まで普通に行なってきた事、つまり飲食、排泄、呼吸、歩行、会話などに支障をきたして、初めて分かるものだと思います。
    普通にものが美味しく頂け、きちんと排泄があり、行きたいところに自由に行け、普通に息ができる。それが健康であるという事であり、また、同時に私たちの自立を支えてくれるものです。
    今、私は重いものが持てませんから誰かに頼まないといけません、
    車の運転がまだ出来ませんから、誰かに運転してもらわないといけません
    これは、自立を屋台骨として今まで生きてきた、私の尊厳をすこし傷つけるものです。
    でも、そこで尊厳などと言い張っていないで、素直に人に援助を頼める。ということもまた、人間の真摯さ謙虚さではないかとも感じています。
    今、まだ食餌制限がかかっている私は、なんでも好きなものを好きなだけ、なんの心配もなく食べれるようになったら、どんなにいいだろうと思っています。
    そう思って健康な人を見ると、彼らがそういった事をごく当たり前のことと思いこそすれ、彼らがいかにラッキーであるかなどとは思っていない、、だろうなということが伝わってきます。
    なぜなら、そう言う問題のある状態を味わったことのない人にとって、そんな事はごく普通のことであるからです。
    イタリアは交通事情が悪いので、電車が定刻に来るととても嬉しいですけど、定刻運行が当たり前の日本では、当たり前のことで特に感謝に値することなどではない。
    健康と言う状況もそういうことだと思います。

    私にとっての「行きづらさ」も、こんな世の中で生きていても、、と言う類のものでした。
    だからこそ、ここまで症状を無視し続けてきたのです。
    ただ、今いろいろ経験して思うのは、
    私が行き続けなければいけない環境である、「こんな世の中」の「こんな」と、その中で生きていく私自身の状況、つまり日々の生活、活動に支障をきたさず、私自身の自立を保てる「状況」はふたつの別個の問題で、「こんな」世の中でもその中での自らの自立、つまり身体を最低限、問題のない状態に保つことは、大事であると私は考えています。
    少なくとも、私が明日自分の命を「こんな世の中」を理由に断つ気持ちがない限りは、私は「どんな」世の中であろうと、そんな世の中で生きていく限りは自らの自立を守っていかなければいけないのですから。

    私は、Takeoさんには、目の治療をしていただきたいと思っています。
    1年以上も病気の兆候を無視していた。こんな私が言うのは野暮ではありますが、苦笑
    目が見えないと困ります。
    やっぱりね、どんなレベルであろうと、聞きづらいとか、視力が落ちたとか、そういうレベルの減少はともかく、それでも5勘プラス6勘は、固持した方がいいのではないかと思います。
    特に視力は大事でしょ?

    > ただ、このように生き永らえていることがたまらなく恥ずかしい。
    私は、Takeoさんが大好きなので、こういう風に言われると哀しくなります。
    私はむしろ生き永らえてくれていて、ありがとうと言いたいからです。
    私のTakeo さんとの出会いは貴重ですし、それ故にふたつさんや底彦さんのような方達がいるという事を知った事もとても大事な事なのです。
    私は小さい頃から、私は変わっているので誰も私を理解してくれなくても仕方ないと思ってきました。そして人々は難しい話が嫌いで、なんでそんなことをわざわざ問題にするのだと言わんばかり、、。
    そんな中で唯一私を理解していたのは、おそらく母でしょう。
    私の思考や感性は多くの人に理解されません
    ヨーロッパは個々の思考や嗜好の違いをリスペクトする国ですから、あ、そういうものなのねと「私の意思」として了解はされても、他者が共感、同感、ましてやそれを実行するなどという事はあまりないと思います。
    例えば、私のスマホ嫌いを理解する人はいません。
    街に公衆電話がない、時計がない、と苦情を述べる私の真意を理解する人はいません
    キャッシュレス然りです。
    そんな中でTakeo さんに会ったとき、私は同じ類に属する人に出会った気がしたのです。
    だからね、
    とりあえず、今まで生き永らえてきてくれてありがとうと私は言いますし、Takeoさんがいなくなったら私はとても悲しいし寂しく思います。





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    1. こんばんは、Junkoさん。

      Junkoさんの仰っていること、よくわかります。「健康であるとは、自分の身体を完全に忘れていることだ」というようなことを、エミール・シオランは書いています。
      別にシオランがそういっていたからJunkoさんの言っていることがわかる、というわけではありませんが(苦笑)

      けれども、今のわたしの、この目のような、霞のかかった頭では、Junkoさんの言われていることは、あくまでも、身体的な健康についてであると感じています。

      幸いわたしは外に出ようと思えば、「まだ」「辛うじて」自分の両足で歩くことができます。
      猫がいれば自分の手で撫でてやることができます。
      身体の健康。健康であることを忘れるほど健康であること、正常に機能しているということは、何にも増してありがたいことです。

      以前Junkoさんのコメントに対して、「しかしわたしは心が自由に動かない状態なのです」と書いたと記憶しています。



      何故「外界」と「自己」を別個のものとして捉えるのか、わたしにはわからないのです。

      人間の歴史を振り返れば、生涯に一度も心から笑ったことのない人、口減らしに娘を廓に売らなければならなかった人、ルイス・W・ハインやジェイコブ・リースの写真に写し出されているように、小学校にも行かないで、工場や農園で働かなければならなかった子供たち、そして休みなど無く働いても、食うことさえままならぬ小作農たち、そして余りの過酷な生涯に絶句する以外にないような永山則夫のような人の生涯・・・

      そう考えれば、「この世の中に楽しいことなんて何ひとつない」などと嘆くこと自体が愚かしいことだとも言えるのかもしれません。
      そもそも楽しいことがある世の中、人生。そんなものを期待することが間違っているのかもしれません。
      しかし、それがまったく誤った認識だと言われても、尚、そこにとどまらなければならない理由は何でしょうか?

      世界に、また人生に「喜」や「楽」を求めることが間違っているのだから、「喜」も「楽」も存在しない世界で生き続けなければならないという理由、根拠は何でしょうか。

      すべての人間は「生きる刑」を課せられて(或いは「科せられて」)いるのでしょうか。
      そこから逃れることは「罪」でしょうか?



      >健康とはなんの支障も不自由もなく、毎日を過ごせる事なのだと実感しています。

      Junkoさん、上にも書いてあるように、「わたしは毎日が苦しい」のです。生きているのがしんどいのです。

      母が先日、秋の七草の「藤袴」は、奈良時代にはすでに大陸から渡ってきており、以前は川辺に自生していたのですが、河原がゴルフ場や公園に開発されて、現在ではほとんど野生のものはみられなくなったので、植物園にでも行かないとみられないだろうと言っていました。

      藤袴は秋の七草の中の一番の香草ということです。

      環境の変化によって絶滅した動植物は数え切れないほど存在します。
      それは恐竜の絶滅とは根本的に異なります。恐竜は地球という惑星の環境の変化によって絶滅したので、人間の存在によって、「絶滅させられた」数多くの「種」とは異なります。



      手足が動いて、見えて、聞こえて、食べて飲むことが出来ても、わたしの魂は、もうとうに自由の利かない状態になっているのです。

      楽になりたいのです。しかしJunkoさんの言われたように、生と死の断裂を跳び越えることは生易しいことではありません。

      メッセージをどうもありがとう。



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