2019年10月5日

秋は名のみの・・・


    早春賦


1、春は名のみの風の寒さや

谷の鶯歌は覚えど 時にあらずと声も立てず
          
時にあらずと声も立てず


2、氷解けさり 葦は角ぐむ

さては時ぞと思ふあやにく 今日も昨日も雪の空

今日も昨日も雪の空


3、春と聞かねば知らでありしを

聞けば急かるる胸の思いを いかにせよとのこのごろか

いかにせよとのこのごろか


(母の古い手帖より)






5 件のコメント:

  1. Ciao Takeoさん
    谷の鶯歌は覚えど 時にあらずと声も立てず 、、時にあらずと声も立てず
    美しいなあ
    韻の響きと言い、
    日本語って本当はこんなに美しい風雅な言葉なんですよね、、
    やすやすと美しい早春の風景が脳裏に描き出され、
    心にしっくり、すとんと落ちてきて、じんわり懐かしい思いが胸に拡がります
    昨今のスマホ ピープルたちが使うお馬鹿な短縮言葉とか、彼らの書き言葉とかの汚さ、下品さが改めて苦々しく思い出されます。

    さて
    無事手術を終え、木曜日に家に戻ってきました。苦笑
    病院ではいろいろ考える事が多かったです。
    私が今までいかに 「老い」とか「死」を表面的に認識していたか、も、思い知らされました。
    私は今まで、「老いる」ことも「死ぬ」ことも、ただ受け入れればいいだけで、そんなに難しくないのではないかと考えていました。
    でも、本当はとても難しい事、(私はまだ経験していないので、それでもまだ、はっきりと語れませんが)、厳しい事なのだと思いました。
    病院には、年取った方が比較的多いです。
    年取ったら、それを受け入れればそれでいいのだと思っていましたが、そんな簡単なことではなさそうです。
    自分の思い通りにならなくなるかもしれない自分の手足や意識、それらを思い通りにならない手足や意識でどう御していけというのか。
    想像した通りになど行くわけがないのだ。と言うのが私が気づいた事です。
    死ぬ、という事も、私は生の執着が特に強くありませんから、その時が来たら来たで受け入れればよいのだ、などと考えていましたが、そんな簡単なものではないと感じました。
    生と死の間にある境界線を超えるって、すごく厳しい事なんじゃあないかと、感じています。
    そして、この機会に救急車搬送やら、緊急入院やら、検査やら、それに伴う絶食やら、そして手術やら、痛みやらをいろいろ経験して、私の、生きるということ、そして自分の生に対する見方が少し変わりました。

    Takeo さん、ふたつさん私のために祈ってくださってありがとうございました。
    お二人の祈り、心から嬉しく、そして大変効き目がありました。 謝




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    1. こんばんは、Junkoさん。

      やっぱり文語体っていいですよね。格調高く、雅味がある。今丁度、底彦さんと、ちょっと内容は違いますが、「世界は言葉で出来ている」という話をしていました。
      (「二階堂奥歯」の記事です)
      Junkoさんの言葉を承けて、確かに(その点に於いては)「世界は言葉で出来ている」と言っていいと思います。

      日本語も満足に喋れない人が多いのに、小学生からの英語教育など本末転倒です。
      日本人が最も多く接し、最も多くの言葉を交わすのが、他ならぬ日本人であるなら、先ず、「綺麗な日本語」を身に着けるべきです。「見られる」を「見れる」などと書いてあるのを読むと、ああ、言葉を軽く扱ってるなと感じてしまいます。
      これは教養などということ以前の、言葉に対する誠実さの問題、ひいては自分の発言に対する真面目さ、真剣さの問題だと思います。



      さて、無事に生還出来てなによりです。(笑)

      昨日の新聞広告に、先日(いつ?)亡くなった樹木希林の映画の宣伝が載っていました。彼女の顔のよこに、「せっかくできたしわだもの・・・」その後なんだったかな?

      わたしは樹木希林のことはよく知らないのですが、

      >「老いる」ことも「死ぬ」ことも、ただ受け入れればいいだけで、そんなに難しくないのではないかと考えていました。

      という言葉を読んで、彼女のこと、その映画を想いました。
      全身をがんに侵されながら最後まで映画に出演し、70代の後半で亡くなった彼女の人生を耳にすると、Junkoさんのこれまでの考えを根底から覆す必要があるのかとも思います。

      もちろんそういう人ばかりではありません。老いて、半ば呆けて、或いは寝たきりになって家族や介護の人の世話にならなければ何もできないお年寄りも大勢います。

      イタリアの事情を知りませんが、日本では、そのような「お荷物」「厄介者」になっても「行き場所の無い人」が溢れています。
      子供を保育園に預けて働きたくても、入れない、老人ホームも余程の金持ちでなければすんなりとは入居できない。老・老介護、保育園不足、80:50問題、日本では人の命の問題が一番後回しにされます。



      自分の身体が、自分の精神が、「私」にとっての最大の、そして決して勝つことのできない敵になる。それが「老いる」ということであり「衰える」ということだと思います。これは誰しもが直面しなければならないことでしょう。

      「生老病死」、この問題は、本当に、極めて個人的な問題で、軽々しく口にはできない恐ろしさ、重さ、底知れぬ深さを感じてしまいます。

      >想像した通りになど行くわけがないのだ。と言うのが私が気づいた事です。

      ほんとうに、これが真実だと思います。

      最後の最後に待っているのが自分の精神・肉体という最大の敵、と言いましたが、これもまた万人に当てはまるわけではありません。

      生・老・病・死、これらすべて、人知を超えた領域に属するのだと思います。
      すべては「運」ではないかと思います。

      今回のことで、いろいろ考えられたようで、考えたところで何になるわけでもないかもしれませんが、そえはそれで貴重な時間だったのだと思います。

      おかえりなさい。





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  2. Takeoさん、Junkoさんこんばんは。

    回復されたようで、何よりです。
    病気やけがの時は、いろいろと考えますよね。
    (ぼくは、もっぱらけがですが)

    手術後も、無理なさらずお大事に。

    それでは、また。

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  3. Junko さん, Takeo さん, ふたつさん, こんにちは.

    手術が無事終わったとのこと, 本当によかったです.

    入院していると自然と生きることに目が行きますね.

    家に戻られ, 少しづつ生活が元に戻っていきますように.

    Junko さんの健康をお祈りしています.

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  4. Ciao Takeo さん
    そして底彦さん
    ありがとうございます。

    昨日痛かったところが痛くない、昨日できなかった事が今日は出来る。という事は徐々に身体が回復しているという事、細胞が日々活性化してくれているという事、私みたいな歳になっても、、です。
    有難いなあと思います。笑

    Takeoさんもふたつさんも底彦さんもここだけでのお付き合い。ですが、いつかみんなでお目にかかれたら楽しいだろうなあ、などと妄想します。

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