みなが狂いはじめた。当然の生体反応である。わたしたちはもっと狂うべきだ。そして、もっと狂うはずである。さらに狂わなければならない。
もう気のきいたことなど、いおうとしないことだ。わたしは気のきいたことをいわない。
ー 辺見庸ブログ 2018年7月13日
「わたしたちはもっと狂うべきだ。そして、もっと狂うはずである。さらに狂わなければならない。」
わたしはこういう言葉に敏感に反応する。そして肯く。
「自分を否定しないこと、これこそが世界を変えるための第一歩です」
ー 竹宮惠子
これは26歳の若く有能なライター・編集者のブログで紹介されていた本の帯に書かれていて、彼が「強く惹かれた」言葉だそうだ。
Hの言葉にウンウンと肯くわたしは、こういう言葉をみると反射的に「ケッ!」と言ってそっぽを向いてしまう。
こういう言葉は虫唾が走る。
似たようなことが2~3日前にあった。
日本新聞協会 広告委員会主催の「新聞広告クリエーティブコンテスト」の広告が新聞紙面に大きく載っていた。
今年のテーマは「新聞」。
そして、たとえばこんな感じというのだろうか、大きくキャッチコピーが書かれていた。
「将来について、危機感はもちろんあります。でも悲観ばっかりも嫌じゃないですか。」(here)
わたしは思わず「アホか!」と叫んでいた。
Hが言うまでもなく、みな夙に狂っているのだ。
「悲観ばっかりも嫌じゃないですか。」やはり出てくる言葉は、「ア・ホ・カ!」
「いや狂っているのはお前の方だ」というのなら、わたしは素直に「そうかもしれないな」と認めるだろう。自称狂人が今更それを人に追認されたとて別に痛くも痒くもない。
◇
人は、誰かが彼(彼女)自身のことを悪くいうのを聞くのが不快らしい。
そしてもっと自分を認めること、受け容れること、自分を愛することを求める。
皮肉なことにわたしだけが、自分を愛せない自分を受容し、わたしだけが自分を受け容れることの出来ない自分を許している。
そして「死にたくなったら死んでもいいんだよ」と言ってくれる。
わたしは父を好きになることができない。
父のことは何も知らない。定年まで勤めていたという仕事がどういう仕事だったのかも。
父の家族観、親子観、仕事観、人生観などまるで知らない。
父を嫌うということはどういうことか?それは鏡に映った自分の顔に唾を吐きかけるのと同じだ。何故なら、父がいるからわたしが今存在しているのだから。
父を憎むということは、とりもなおさず、自分の存在の根源を憎むことに他ならない。
親は親、子は子という考え方は、わたしには受け容れることはできない。
「親殺しのパラドクス」をご存知だろう。タイムマシンで過去にさかのぼって、自分が生まれる前の父を殺すことができるか?というやつだ。もしできないとしたら、その理由は?
クリスティーナ・ロセッティの詩に、
「いったい誰が閂をかけて閉め出すことができるのだろう、一番嫌いな自分自身から?」という一節がある。
父を憎むということは、とりもなおさず、自分の存在の根源を憎むことに他ならない。
親は親、子は子という考え方は、わたしには受け容れることはできない。
「親殺しのパラドクス」をご存知だろう。タイムマシンで過去にさかのぼって、自分が生まれる前の父を殺すことができるか?というやつだ。もしできないとしたら、その理由は?
クリスティーナ・ロセッティの詩に、
「いったい誰が閂をかけて閉め出すことができるのだろう、一番嫌いな自分自身から?」という一節がある。
I lock my door upon myself,
And bar them out; but who shall wall
Self from myself, most loathed of all ?
わたしの血の半分は父の血だ。人が決して「わたし自身」から逃れることができないように、わたしもまた「父の血」から永遠に逃れることはできない。
父が亡くなったら、悲しいだろうか、と時々考える。悲しくはない、とは言えない。
わたしは父のことを何も知らないのだから。
しかし「まだ元気」と言える今は、わたしは父の呪縛から逃れることができない。
大嫌いな父を見るたびに、わたしは彼の分身であり、彼という川の流れに浮かぶ泡沫(うたかた)であるという考えが自然と浮かんでくる。
自分を創った親を愛せずしてー親の存在から分離してどうして自分だけを愛し、認めることができるというのだ?
自分がどうしても好きになれない者の血と肉と骨と皮によって出来ていること。
それがわたしが自分自身を愛せない大きな理由だが、その他にも、単純に愛され、肯定された経験がないということも当然ながら大きな要因だ。
中学生の時、いつも一緒だった3人の友達がいた、或る年のバレンタイン、下校時、彼らだけがチョコレートをもらっていたことが分かった。彼らはわたしを気遣って隠そうとしていたようだが、偶然知ってしまった。そのうちの1人は、わたしにすまなそうな、それでいてどこか得意気な微苦笑を浮かべていた。
とにかく女性は苦手だった、特に仕事の出来る女性、有能な女性はわたしを見ているとイライラしてくるようだった。年下であっても、随分叱咤された。呆れられた。疎んじられた。
太宰の『カチカチ山』のたぬきとウサギである。女性は醜悪で魯鈍な者には容赦がない。
事実わたしは醜かった。外見に関しては人それぞれ見方はあるだろうが、わたしはセックスの出来ない身体を持っている。(※EDではない)セックスの経験がないわけではないが、それによって快感や悦びを得たことはない。
わたしが自分を否定するとき、自分を認めることができないという時、「思い込みが激しい」「卑下しすぎるのも見苦しい」「自虐趣味?」といった言葉がどれほどわたしを傷つけているかわかるだろうか?不用意に発せられた「そんなことないよ」という一言さえ・・・
「己を肯定せよ」、「汝、自らを否定するべからず」という発想、社会に流通している通念が、どうしても自分を肯定できない者への、ある種の攻撃的メッセージであるということを思って欲しい。
それとも「自分が嫌い」「自分を愛せない」ということは、わるいことなのだろうか・・・
※26歳の「有能な」ライター・編集者と書いたのはあくまでも反語であり、
彼の〔このような〕眼差しをわたしは到底肯んじない。
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