2018年7月2日

一期は夢よただ狂へ


明日の精神科の予約はキャンセルした。あまりにも具合が悪い。
第一にここから駅まで歩いて約20分、クリニックのある駅から約10分の道のりに耐えられるか?
途中、西部邁言うところの「スマホ人」と「傷害事件」など起こさないか?
衝動的に線路に飛び込んだり赤信号で道路に飛び出したりしないか?
先方で、ちゃんと話せるか?

そのようなことに全く自信が持てなかった。



母はHの書いた

「命はもっと粗末に、ほったらかしにしやうぜ。」という言葉が解らないと言った。
「命を粗末にしよう」という事が解らないと。

わたしはこのセリフとてもいいと思う。
なにかの映画の科白なのか、本の中の言葉なのか、それともH自身の言葉なのかは知らないが、人は、いっしょう懸命生きているから死にたいと思うのだ。
概して不真面目な人間は自殺など考えない。
死にたいと思うほどいっしょう懸命に生きているのだ。
「よく生きるためには自殺さえするのだ」というコクトーの言葉を思い出す。

だからHは、もっと不真面目になれよ、と言っているように思う。

「詩が彼を怠惰にした。そうでなければもっと真面目に自殺を考えていただろう」という言葉が出てくる三島の小説はなんだったろうか?

けれどもわたしはそういうタガの外し方を知らない。



これからこのブログはますますいわゆる「まともさ」から逸脱してゆくだろう。
リベラル、護憲派、戦争反対を訴える人たちから総スカンを喰っているHを今頃になって盛んに持ち出してくること自体、世間の所謂「良識派」と袂を分かつ宣言しているようなものだ。

けれども、誰にでもわかりやすい、それ故まったく衝撃を伴わない、新味も深みもない、敢えて言うなら「非・文学的」「非・哲学的」=「没主体的会話」こそが、大方の理解と共感を得られるというのなら、わたしはわたし個人の言葉で話し、それ故に誰の耳にも届かない孤独な狂人で構わない。

「大勢の理解と共感を得る」ということは、どのような場合にしても決して望ましいことではない。何故なら畢竟それは大衆(マス)への迎合に他ならないからだ。
もう「まともさ」や「正気ぶること」には正直ウンザリシテイルノダ。


追記

Hの言っていることは非常に正鵠を得ていると思う。
けれどもわたしはHに限らず、好きな音楽、内容のある本、素晴らしい映画を人に勧めることが好きではない。わたしが200%の素晴らしさだと思っても、それはあくまでも、あくまでも、わたしの趣味の問題でしかないのだから。
Hは(普遍的な)「真実」を語っているわけではない。(そもそも「真実」ってなんだ?)
わたしは彼のひとりごとに勝手に耳を傾けているだけだ。













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