2018年7月21日

辺見庸のエッセイに失望


河北新報に掲載された辺見庸の「むごい夏──処刑とクチナシの花」を読んだ。
なんだか肩透かしを食った感じ。小洒落たエッセイ風にまとめられていたが、そこには憤怒も、絶望も、蹉跌も、焦燥も、惑乱も読み取ることができなかった。

かつて辺見はイスラエルによるガザでの殺戮についてこう書いていたのではなかったか?


「アーレントが生きていたら、アドルノが生きていたら、なんと言ったか。パレスチナの少年にガソリンを飲ませ、焼き殺した所業について。パレスチナ国際義勇軍の編成が呼びかけられたかもしれない。元気だったらわたしもパレスチナ入りをめざしたかもしれない。サルトルも国際義勇軍に賛成しただろう。オーウェルはそれに参加しただろう。ヴァルター・ベンディクス・シェーンフリース・ベンヤミンは国際義勇軍結成にかんする知的なメッセージを送ったかもしれない。ソール・ベローはノーコメント。堀田善衛は国際義勇軍に心情的に賛成しつつ、みずからは参加できない苦渋を、キザで無害なエッセイにして、スペインあたりから朝日新聞夕刊文化面に寄稿しただろう。それでも暴力の連鎖には反対だとか。吉本隆明は「ナンセンス!スターリニストども!」と罵ったろう。カネッティは『目の戯れ』の続編を書いたろう。ツェランはまたも自殺したかもしれない。世界はまだ砕かれず、覆されてもいない。世界は凡庸でもない。また再びのユダヤ人迫害への環境ができつつある。」

彼のイメージした堀田善衛的な、そこはかとない傍観者的態度(強いて言えば「諦念」)を、わたしは今回のエッセイで辺見庸自身から感じた。

クチナシの花ービリー・ホリデーー奇妙な果実(私刑によって嬲り殺され、木に吊るされた黒人たちを'Strange Fruits'=奇妙な果実と呼んだ)
これなら辺見庸じゃなくてもエッセイストかコラムニストが書けばいいのではないか?

少なくとも、この処刑によって、彼自身が負った傷(そんなものがあればだが)も、そこからしたたる血の色も見ることはできなかった。

「死刑は国家による殺人である」という死刑廃止論者の常套句を、原稿用紙七枚分の上品で手堅い(H自身が最も嫌うはずの「毒にも薬にもならない」)エッセイに仕立て上げただけ。わたしにはそんな風にしか思えなかった。そしてもうひとつ、うっすらと耳の奥に響いていたのは、'Look Back in Anger' 「怒りを込めて振り返れ」という声だった。



フランシス・ゴヤ シリーズ『戦争の惨禍』より「どちらも」(Tempoco) 



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