2018年7月17日

断想「嫌われても平気」なわけ…


「自分が、現にある通りのものであるがゆえに自殺するのはよい。
だが、全人類が顔に唾を吐きかけてきたからといって、自殺すべきではない。」
ー エミール・シオラン『生まれたことの不都合について』(出口裕弘訳)

現実に「全人類に嫌われる」ということはないだろう、(物理的に出遭うという可能性がないという意味に於いて)しかし何者にも愛情を注がれることも、関心を持たれることもない存在ー「世界に唯独り遺棄された者」として、なお人は生きてゆけるか?
そしてその上で、尚生きる意味とはなにか?

「嫌われる」ということが何らかのアクションの結果である、という因果律抜きに、
正に「自分が自分であるが故」の理由で嫌われること。を考える。

シオランの言葉を置き換えれば、

「自分が、現にある通りのものであるがゆえに全人類が顔に唾を吐きかけてきた。」
なら、どうするか?

あなたが「○○だから」きらい。ではなく「あなたがあなたであるから」きらい。と、いうこと・・・


「全人類が顔に唾を吐きかけてくる」ということは、確かに現実には起こりえないことだ。
これはあくまでも修辞的表現に過ぎない。

例えばThe Beatlesの歌、'Misery' の出だしは

”The world is treating me bad... Misery”

「世界中がぼくを邪険に扱う」なんてことは現実にはありえないことだけれども、そんな風に感じること、自分の限られた周囲が、全世界と同一視されるということはないだろうか?


例えばごく幼少期から極めて少ない愛情しか受け取ることができなかった人(宅間守もそのような人間の一人だったと読んだことがある)が、成人後に「巨大な湖」のような愛情を求めてしまうことは本人の責だろうか。
常に親から、周囲から、一定量の愛情を与えられ続けてきた者の愛情の貯水高は、多分愛情に餓えた人たちの求める一括請求と同等だと思うのだ・・・


ニルヴァーナのカート・コバーンは、いろいろと面白いことを言っている。

“I'd rather be hated for who I am, than loved for who I am not.”

「自分自身でいるために憎まれる方が、自分をなくして好かれるよりましだ」

同感だけど、やはりひとりはサビシイ・・・


「誰一人味方がいない」ということは「全員が敵」という事と同じではない。
少なくともわたしの中では。


「一定の距離を置かれた≠嫌われた」か
「一定の距離を置かれた=嫌われた」か? 
わたしは後者だ。


文学、音楽、アートなどの抽象的な対象を愛することに生きる意味を見出すか?
或いは、鳥や獣、草や花など、自然界のあらゆる生き物と心を通わせることができたという、アッシジの聖フランチェスコのように、人間以外の生き物と共に生きるか。
しかしわたしは現実の生身の人間関係がなければ生きてゆくことはできない。




8 件のコメント:

  1. 「あなたがあなたであるから」きらい、というのは別世界で生かされる“知恵遅れの人達”に当てられますか?

    私が自殺を否定(安易には肯定しない)するのは自分の心とは別に、この(自分の)肉体が肉体自身で一生懸命生きている、また生きようとしているからです。

    小さなカやハエの仕草をじっと見ていると、本当に命の不思議をかんじます。
    もしかすると人は自身が思う以上に、この体の方が生きたいと思っているのではないでしょうか。

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    1. ええ、仰っていること、よくわかります。

      前にも書きましたが、

      捨て果てて 身は無きものと 思へども
      雪の降る日は 寒ぶくこそあれ
      花の咲く日は 浮かれこそすれ

      つまりこの世を離れたいという意識と、
      それ自体が生命そのものである肉体の相克・葛藤ですね。

      >「あなたがあなたであるから」きらい、というのは別世界で生かされる“知恵遅れの人達”に当てられますか?

      ここはよくわからなかったので、よかったら教えてください^^



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    2. 再考です。

      エミール・シオランは、信念とか信条にかかわる事に付いて云っているようですが、Nicoさんの場合は、性格という要素が大きく加わると思います。

      嫌われるというのは、外見からと内面的な事と二通りに分けて考えることもありそうですが、内面的には行為や言動を通して、と云う事になるのでしょう。
      これらが嫌われて距離を置かれと、人間性を拒否されたようなもので私には一番孤独を感じる事ですね。それこそ外に出られなくなります。また、恥ずかしがり屋で、だけどうぬぼれ心だけは強い私は外見に問題があってもやはり引きこもるでしょう。

      性格と云う要素が大きく、と云いましたが信念や信条と云ったことは性格からくるものだから、分けられないかもしれません。

      私とNicoさんとの違いは、受動型と能動型と云えるではないでしょうか。
      Nicoさんは積極的に友を求めますが、私はそれには消極的です。

      だいぶ前になりますが、性格を九つのタイプに分けて解説した本を読んだ事がありましたが、私は孤独を愛するタイプでした。類似の本などを読んでも、当たっているようでもあり当たってないようでもある、と云った感じでしたが、この本では全くぴったりだと思いましたね。

      一人の時間が至福の時、なんだそうです。

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    3. こんばんは、yy8さん。

      わたしはあまりシャイなタイプではないかもしれません。話が通じると感じる相手には饒舌です(誰でもそうでしょうけど)

      積極的に友を求めるといっても、わたしと「合う」人なんてほとんどいませんからね。求めようがないですね(苦笑)ただ、yy8さんはひとりでも平気な人、わたしはひとりじゃダメな人ということですね。

      わたしはどうやっても「孤独を愛するタイプ」にはなりませんね。

      「一人の時間が至福の時」・・・う~ん。やっぱり孤独は苦手です。

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  2. こんにちは、blueさん。(*^-^*)



    >「一定の距離を置かれた≠嫌われた」か
    >「一定の距離を置かれた=嫌われた」か? 
    >わたしは後者だ。

    :わたしはさうは思ひませんよ。一定の距離を置いてこそうまく付き合えることもありますから。お互いが束ね合って雁字搦めにし合うよりは、ハリネズミのやうに、そこそこ逃げ合う人もいると思ひます。


    >「あなたがあなたであるから」きらい
    :このやうな発言をする相手はいますが、わたしなら発言者から遠ざかります、発言者とは距離を置きます、自分の身を守るためです。たとえば【あなたの○○がイヤだから改善してほしい】というやうな訴えであればこちらも対応できますが、【○○だからあなたはダメだ】と云はれ続けるのは体に悪いからです。【○○だからあなたはダメだ】と云はれて自殺するのはよろしくないと、彼は云ってゐるのでせう?


    酷暑の日々は 焦げこそすれ

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    1. こんばんは瀬里香くん。

      「一定の距離」というものの定義次第ですね。物理的な距離であれば平気でも、心理的な距離は、イコール「きらい」・・・ではないにしても、それに近い感情であるように思えるのですよ。
      わたしは適当な距離の取り方がわかりませんからね。

      >【あなたの○○がイヤだから改善してほしい】
      わたしはこういうのもダメだなぁ。こういうところでわたしの「全てか無か」という性格が出てくるのだと思います。
      わたしのすべてを受け容れるか、すべてを拒否するか?部分否定とか部分肯定というような高度な人間関係はわたしには無理です。

      「あなたがあなたであるうえで、尚、全人類が唾を吐きかけてきても自殺する必要はない」これはなんだかスフィンクスの謎解きのようです。

      わたしは人に嫌われることは辞さないけれど、誰一人味方がいないということには耐えられません。それは言い換えれば誰からも愛されていないということに他ならないからです(この場合の「愛」は「恋愛」ではないことは言うまでもありません)

      わたしがわたしであるがゆえに、全人類と別個に生きてゆけるのか?
      シオランは生きてゆけると言っているようですが、世界の孤児は、ではどのようにして生きてゆくことができるのか?

      そんなことを書いてみました。


      >酷暑の日々は 焦げこそすれ

      あはははは(笑) これオモシロイ!





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  3. 瀬里香です。追記です。

    今までずっと精神障害者2級でしたが、今年6月から1級になりました。別に【知恵遅れ】ではありませんよ、たぶん。

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    1. 別に「知恵遅れ」でも問題ないけど、
      週5日働いている人がどうして1級=重度障害者なのかわからないな。
      以前に比べて「よく」なったんだと思ってたけど。

      わたしなんか外に出ることも含めてほとんど何にもできないけど3級だよ(苦笑)




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