2018年7月9日

イントレランス


プリーモ・レーヴィはいう。

「怪物」は確かに存在している。けれどもそれは「全体のごく僅か」なのだ。
本当に恐ろしいのは、「普通の人」と呼ばれている者たちである。本質的な問い・疑問を発することなく信じ、行動する用意のある人たちである。

「怪物」とは、先天的に怪物なのではなく、後天的にそのようになる、ごくふつうの者なのであり、ごくふつうの者こそが、ただごくふつうであるがゆえに、ファシズムを熟成させてゆく。その母体となるのが周囲の寛容さである。

彼ら・彼女らが根源的な、乃至顕在的な「悪人」ではないことを以て、彼等が胚胎している「ファシズム」「レイシズム」に寛容であってはならない。


とはいえ、「天皇」であれ「ヒトラー」(ナチズム)であれ、「信じている者」を変えることは事実上不可能だ。


ではどうすればいい?

レヴィナスは言う。「人間(ホモ・サピエンス=「叡智をもつ者」)は、戦争を回避できるほど賢明ではない」と。

それがさしあたっての妥当な回答なのだろう。





前にも書いたことがあるかもしれないが、数年前、フェイスブック上で、欧米の友達に問うたことがある。

「あなたの(ネット上、或いは実生活での)友達、知り合いが、もしドナルド・トランプの支持者であるとわかったら、あなたはそれでも彼らと友達でいられますか?」

皆一様に「ウーン・・・」と頭をひねっていた。フランスの女性は「とても難しい質問だ」と言った。

その後現実にトランプが大統領になった時に、これまでの(FBでの)友だちと袂を分かった人も少なくなかったようだが、正確なところはわからない。

自分の友人が、知り合いが、また家族が、恋人が「差別主義者」だったり「全体主義を支持している」と知った時に、わたしたちはどのように振る舞うべきなのか?

そのヒントになるのがコスタ・ガブラス(Costa-Gavras)監督の名作『ミュージック・ボックス』(Music Box - 1989)であり『背信の日々』(Betrayed  - 1988) だろう。

前者は父親が元ナチであったことを知った弁護士の娘の葛藤、後者は「人種差別主義者」を愛してしまったFBI捜査官の苦悩。
そしてわたしはそれが家族であり、恋人であっても(彼らを)(「家族じゃないか」「恋人だろ?愛している」という「甘え」を許さ(せ)なかった彼女たちの信念を支持する。






6 件のコメント:

  1. 怪物は、よく見ると普通の人の集団であった。
    その集団が怪物に見えるのは、行動が“統一”しているときである。
    そして“統一”は指導者が作り上げ引き出す。

    普通の人が“賢明”ならば「怪物」にはならない・なれない、のではないでしょうか。
    “賢明”でないが故に普通の人=大衆なので、どの様にでも成り得る大衆を煽動する指導者こそが本当に恐ろしい存在になる、と云えるのだ思います。

    そして「信念」と云う怪物をここで見つけました。

    返信削除
  2. 主義・主張は、なぜこうも“争い”の原因になるのでしょうね。
    曖昧模糊とした日常の中での触れ合いで過ごせば、たとえ一時的な意見の相違があったとしても、仲直りは可能だと思えるのに。

    普通の人は日常を“主義”で生きているわけではないと思います。
    “主義”が生活の中で重要な人たちは、やはり指導者に当たる様に思います。
    また、“表現者”も主義・主張は大事かと思います。
    Nicoさんは表現者ですね。

    ちょっと気取って
    『信念によって友だちを失うなんて愚かなことだ』

    ☆ Nisoさんの反応が興味深いです。

    返信削除
    返信
    1. こんかいのコメントは非常に根源的な問題を含んでいるので、なんと答えていいか。

      例えばわたしはブラジュローヌ氏や雨合羽とは友達にはなれません。根本的な価値観が異なるからです。サイコロもだめですね。やはり東大卒ってあんなもんだんでしょうね。話が型に嵌っていて面白くない。

      趣味・嗜好は違っても付き合えるけど、やはり生きる上での基盤になる価値観の相違があるとやはり交流を持つことはできないと思います。

      自公支持者は「悪人」ではない。けれども彼らが支えて、力を貸している人たちはつまり民主主義を損なうのです。

      民主主義はたった一人の意見でも耳を傾けその意見の妥当性を検討しなければならない。つまり少数を排除しないという事が大前提です。
      けれども、その主張が民主主義を否定するものであったり、それを損なったりするものであるなら、それは潰さなければなりません。

      「あらゆる意見を尊重する」のではなく、民衆(国民)に危害を及ぼす可能性、国民の利益を損なう可能性を孕む意見は排除するのが民主主義だと思います。

      なにが民衆ー国民の益になるのか?それを考えるべきです。

      今夜You Tubeで『巨人と玩具』という1958年の映画を観ました。
      開高健の原作ですが、すでに58年の時点で、
      「国民の頭は空っぽです!いったいいつ考える時間があるというのですか?」
      「アメリカつまり日本だよ」
      などという科白が出てきて今更ながら驚きました。
      わたしの生まれる前から日本人の頭の中は空っぽだったなんて!

      https://www.youtube.com/watch?v=6wuOST3_QiY&t=20s

      興味があったらご覧ください。わたしの好きな映画のひとつです。
      開高健の原作にも関心があります。

      >『信念によって友だちを失うなんて愚かなことだ』

      信念を曲げて付き合うこともまた愚かではないかと思います。




      削除
  3. 感想をありがとうございました。
    私も、さらに考えていきたいと思います。

    ただ、信念は曲げなくてもお付き合いは可能ではないかとは思うのですが。
    それとも、付き合い方の深浅と云う事になるのでしょうか?

    また、信念を怪物にたとえたのは、それだけの力があるのでは、との思いからでした。

    返信削除
    返信
    1. うーん、そうですね。わたしは狭く深い付き合いしかできませんから。なるべく気の合う(穏やかな)人と付き合いたいですね。

      信念も怪物に成り得るし、信念がないと怪物に容易に取り込まれてしまいますね。

      削除