2018年7月1日

七月…


7月。一年の半分が終わった。人生なんてあっけないほどに短い。その僅かないのちの時さえ、倖せを感じて暮らすことができない人が大勢いるのだ。これが、「生れてきたことの不都合」でなくてなんだろう。

正直「覚悟はできている」とはいえない。どんな自殺者だって、飛び降りる直前、引き金を引く直前には思い躊躇うものだ。

「人間には生きるために気晴らしが必要である」とパスカルはいった。
わたしにそんなものはない。何もない。ナニモナイ。
それでも尚生き続ける理由を、わたしは見出すことができなかった。
楽に死ぬことができないから。ただそれだけが生の根拠だった。
けれども、退屈と倦怠が「死ぬのも楽じゃない」という気持ちを上回われば、舞台の幕は降り照明は落とされる。


月曜日に今年初めて精神科に行くことになっている。
何のために行くのか?自分でもよくわからない。
確実なのは、(どこであろうと)精神科に因って今の状態が改善される可能性はないという事。そしておそらくわたしは精神疾患などではないのだろうという事。そして引き続き一日の大半を寝て過ごすための薬が要るという事。

「親亡き後」のないわたしにとって、先はそう長くはない。何も死に急ぐことは無かろうという気持ちもないではない。しかし芥川の言うように、ほとんどの人が「ただ生きるために生きている」のだとしたら、人類とはなんと不幸な生き物であることか。





最近は辺見庸のことばかりじゃないかと、わたしのブログの4人の読者の内、4人ともがそう思っているかもしれない。
それほど惹かれるものがあるということだ。彼の書く物には。ただ先日も書いたように、わたしは辺見庸の信奉者でも心酔者でも信者でもない。
わたしは「書かれたもの」と「書いた人」を同一視はしない。

以下またランダムに彼のブログから気になった言葉を引用する。
わたしは彼の紹介者のつもりはない。これらのことばを通じて、こういう思想、こういう考え方に共鳴する者であるという、自己紹介のようなものだ。

それにしても政治についてよく飽きもせずに語る人たちがいるもんだ。
日本に徴兵制が敷かれても、彼ら/彼女らはツイッターで、ブログで、グズグズと愚痴っていることだろう。実際のところ彼らが実在しているのかすら定かではない・・・



ー以下辺見庸ブログより抜粋引用ー


憲法改悪反対の呼びかけに賛同する署名とカンパをしてくれ、といふ手紙がくる。大江健三郎ら、毎度おなじみの「ゼンダマ」ブンカジンたちの氏名と写真つき。アホか。署名とカンパとやつらのえっらそうな記者会見で、9条改悪、集団的自衛権容認、秘密保護法が阻止できるんやったら、さいしょっからこんなことになってないやろ。まずかれらのうす汚い急所を蹴上げよ、だ。(2013/10/23)



未知の〈結末〉などありはしない。だって、〈結末〉はたえず〈死〉でしかないのだから。

エベレストのかへり、女の子たちの話し声を背中に聞いた。小学生だろう。子どもたちがわたしを追いこした。ランドセルの中身の音がした。追いこした3人のうち、ひとりがふりかえり、そのような目つきをどこで教わったのか、さも蔑むような、怪しむような目でわたしを見た。うすく怯えつつ、まったくどうじに、うすく笑っていた。むろん、おもいすごしかもしれぬ。わたしは見返した。〈わたしは不審者ではないよ〉というつくろい顔ではなく、こうすれば残忍な顔になるとひそかに長年イメージトレーニングしている〈残忍な顔〉で笑い返してやった。せつな、子どもが凍りついた。きっと親に報告するだろう。
(2013/11/05)




プログラムの裏表紙に谷川俊太郎先生の例の「詩」が載っていた。「愛する人のために」。「保険にはダイヤモンドの輝きもなければ、/パソコンの便利さもありません。/けれど目に見えぬこの商品には、/人間の血が通っています。/人間の未来への切ない望みが/こめられています」。わたしはクローゼットの闇に横たわっている。世界は正常だ。ジャン=ギアン・ケラスはイケメンだ。無伴奏チェロ組曲全曲は絶品だ。わるひのはわたしだ。そのとほりだ!保険には人間の血が通ってるぅ!Oh、yes! 人間の未来への切なひ望みがこめられてるぅ!すばらしい詩どぇす!ほんま、涙でます。「お金に愛情をこめることはできます」やて。そのとほりどぇす!わたひがわるひ。わたひの根性がわるひさかい、谷川さん、おまはん、なんぼもろたんや、なんて下品なこつ、つひつひ言うてまうんや。すんまへん!センセ、えろすんまへんな!勘弁してつかぁさい!でも、保険に人間の血がかよってるというのであれば、貧者と病者と弱者を合法的にいびり殺す現在のシステムのすべてに、あたたかなひとの血がかよっているということである。つまり、おい谷川、現代のホモサケルはみんなぶち殺してよい、といふことだな。保険にも入れないホームレスは死ね、ってことか。わたひの根性がわるひさかい、おいクソッタレジジイ、おまはん、なんぼもろたんや?て、つひつひ言うてまうんや。すんまへん!そうしたわたしの下劣な品性をコビトは見ぬいている。だから、シカトするのであらう。クローゼットの闇でわたしの顔は赤らむ。(2013/11/17)



けふは小雨のなかエベレストにのぼった。道ばたにパトカーがとまり、なかから警官が2人わたしをじっと監視していたので、気分を害し、2度目の登頂はやめにする。どうしてわたしがアルカイダだとわかったのだろう?おなじジョークを9.11の翌年の1月、ボストンで言ったら、勾留されるから2度と口にしないでくれと米国人カメラマンに真顔で忠告されたっけ。でも、けふは下校時だったので、たぶん、アルカイダではなく、「不審者」か「変質者」とうたがわれたのかもしれないな。突きつめてかんがえてみれば、わたしが広義の不審者か変質者であることは、必ずしも否定できない事実だ。わたし以外のひとびとが非不審者、非変質者であればの話だが。(2013/11/25)



秘密保護法に反対するのなら、新聞はーーそこではたらく個人たちは、という意味だけれどもーーストライキをすべきだった。少なくも、それを目指すべきであった。白紙の新聞、記事の載っていない新聞をだしたらよかったのに…。ぼくはそうおもったし、いまもそうおもう。安倍政権はきわめて危険である。ほんきで倒さなければならない。むろん、ストライキなどおもいもつかず、ロバの屁のような社説でお茶をにごし、きょうもそしらぬ顔で「ニュース」なるものを生産、偽造しつづける、個人のいない新聞と、それら下品な浸透圧の犠牲となる読者たち。困ったことです。そう言いつつ、秘密保護法下の状況を不作為によって支えるひとびと。批判者たちの、アジビラていどの語法とボキャブラリー。下品な浸透圧は、反ファッショの側からも生まれている。いまは権力の実相がきもちわるいだけではない。反権力を自称する者らの立ち居ふるまい、目つき、腰つきも、なにやら怪しい。戦端は、ひとだのみにするのでなく、「個」がいま、みずからひらけばよい。惨めになんどでも負ければよい。(2013/12/30)




・この国は、ヒロシマ、ナガサキがあるために、ずいぶんかいかぶられてきた。絶大な経験はひとの認識を深める、とかんがえるひとびとにより、もともと深い精神性をもつ日本の思想文化は、ヒロシマ、ナガサキの空前絶後の体験によって、かならずや、さらに深淵なものになっているはずである、とかいかぶられてきた。誤解である、善意の。この国の思想文化は、残念ながらヒロシマ、ナガサキの経験をほとんどすこしも血肉とはしていない。かつても、いまも、おそらく、未来も。アラン・レネ、ロラン・バルト、そしてタルコフスキー、ボードリヤールにさえ、日本への好意的誤解があった。誤解はなんらかれらの罪ではなく、かれらの自由であり、勝手である。罪というなら、ヒロシマ、ナガサキの経験をほぼ消費しつくして、観光的表象(というより“商標”)だけを残して、反核反戦の思想と魂の基地をつくることがついにできなかったこちら側にある。経験は、いつもかならず自動的に、認識を深めるというものではない。フクシマについても。とくに、この国の社会なきセケン(世間)とゴロツキ政治においては。侵略戦争のかぞえきれないほどの加害責任を、東京大空襲とヒロシマ、ナガサキのホロコーストで、ご都合主義的に相殺する、チャラにすることで、いちどとして激烈な内省をしなかっただけでなく、ヒロシマ、ナガサキの責任追及をあっさり放棄し、天皇制ファシズムの歴史的検証もネグレクトし、いまや侵略戦争そのものとそれに付随したおびただしい犯罪を正当化するまでにいたっている。

日本が今後、憲法を改定する公算は論なく大である。徴兵制ないし準徴兵制にふみきる可能性もあるだろう。45年に廃止された治安維持法(実質的に再生しているけれども)が、新しい装いで復活する可能性もつよい。将来的核武装化の可能性はもはや絶無ではなくなった。『サクリファイス』をみながら、例によって、茫々と妄想にふけった。経験は直線的に認識を深めることはない。とりわけ、テクストとされた集合的経験と記憶は危うい。経験と認識は、権力にゆだねるものではなく、あくまでも「個」の向自的作業であるべきだ。たしかこんなセリフがあった。「わたしはこの時を待っていたのだ…」。じっとじぶんに耳を澄ますと、わたしにも待っている気配がある。平和やそのための「犠牲」となることではなく、全面的核戦争でも大震災でも巨大隕石の落下でもなんでもよい、徹底的な全的破滅をどこか待っている心もちがある。それまでの一瞬になにを見て、なにをかんがえるか…だけがテーマである。
犬がベランダに糞をしたので、心静かに、ゆっくりとかたづけた。午後3時半すぎ、東口のミスドとストラーダ・ヴェルデをめざしアパートをでるも、寒風意外にきびしく、目標をきゅうきょ下方修正し、マックに行ったら満員。しかたなく、なんだか形式的にエベレストにのぼってお茶をにごす。
かへりみち、郵便屋オットーの言葉をおもいだした。「いままでの人生は本物ではなく、ずっと永いあいだ本物の人生を待ってたにすぎないのだ…」。言外に、本物の人生なんかない、ただ死を待つだけ、とかたっている。このしゅの人生論はなかなかおもしろそうで、じつはとてもつまらない。人生論はどうやってもつまらないものなのだ。『サラバンド』の80をとうにこした老人が吐きすてる、じぶんの人生など「クソだったよ…」のほうが、すっきりしていてよほど好きだ。(2014/01/02)




・エベレストにけふ、のぼった。強風下2回。シダレヤナギの葉が右側の尾根に、切りおとされた無数の青いひと差し指のやうに、ちりつもっていた。友人が自殺に失敗した。らしい。昨夜知った。またやるだろう。そこここで、死はすでに、「状況」なんかより、よほど身近であり、もっとも正直だ。いまごろさかしらげに「状況」をかたるやつはマジ、ウザい。うそくさい。いざといふときが近づいているのだ。ひとはいざという間際に、急に悪人にかわる。わたしぃが言ったのではなひ。まったく文字どおりに、漱石が書ひている。だからおそろしい、油断ならなひ、と。金の話でごまかしてはいるが、むろん、金の話なんかじゃあなひ。いざという間際…とはなんだらう。と、いぶかるが、ププイ、いぶかるまでもなひ。大道寺さんからけふ、封書がとどいた。また黒塗りが1箇所あった。なぜかはわからなひ。ムッとする。ていねいにこの黒塗りをやったきみ、東京拘置所のひと(ブログ読んでますかぁ?)を、しかひ、わたすぃはあまり恨んでいなひ。わたひぃは、この刑務官より100万倍も、朝日はじめ各社の新聞記者や作家、詩人らをふかーく軽蔑する。宮内庁は、刑務官とくに絞首刑の執行にあたった刑務官たちこそ宮中にまねき、あつく労をねぎらひ、表彰すべきである。全員に勲一等旭日大綬章をあたへるべきである。新聞記者、テレビキャスターや作家、詩人らは、わざとらしひ善人面したのも、もともと悪党面、アホ面したのも、ならべていっぱつ延髄切りでええ。

友よ、いまは自殺にもあたひしなひ季節なのだから、首吊りはしばらくやめとけよ。命はもっと粗末に、ほったらかしにしやうぜ。なにもわざわざじぶんでやらなくったって、やっていただけるかもしんないだらう?(2013/12/22)




現とも 夢とも知らぬ 世にしあれば 在りとて在と 頼むべき身か

源実朝「金槐和歌集」より






※ 辺見庸が時に不審者に見られるというのは、彼は2004年に講演中に脳出血で倒れ、その後遺症で右半身マヒの症状が残っているためだろう。
「エベレスト」というのは彼の自宅の近所の小高い丘のことで、彼の歩行リハビリ(彼は「自主トレ」と呼ぶ)のためにしばしば登頂する。

上記の文章を読めば辺見庸がしばしば「左翼/リベラル」に敵視(というよりも、冷笑を伴う黙殺)される理由もわかるだろう。

なお下線・太字は引用者による。






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