今日も引き続き辺見庸のブログを読む。やはり肯くところが多いし共感するところも多い。
けれどもわたしは、彼の「愛読者」ではあっても彼の「味方」ではない。
わたしは万引きするホームレスの味方ではあっても、痴呆症の老人の味方ではあっても、辺見庸の「味方」ではない。
ところでわたしに味方はいるだろうか?おそらくそんなものはいない。
わたしが好きな歌は、啄木の
死ぬことを 持薬を飲むがごとくにも
われは思へり
心いためば (「一握の砂」より)
だけではない。
自殺しても 悲しんでくれる人がいない だから私は自殺するのだ
という夢野久作の『猟奇歌』の中の歌も愛している。
しかしわたしは啄木の友ではないし、啄木はわたしの友ではない。
夢野久作とて同じこと。
人は誰かに愛されることによってはじめて人になる。
誰からも愛されない者は「ひと」ではない。
そしてわたしは、そんな「ひとではない」者たちの味方でありたい。
ひとりのアパートでスーパーの値引き弁当をぼそぼそと食べている孤独なお年寄りと、辺見庸を、エミール・シオランを比べたとき、より尊いのは、そしてわたしが愛するのは、いうまでもなく前者だ。「才能」と「尊厳」は同義ではない。
「誰からも愛されない」ということが人生の不条理なら、「才能を持つ」ということもまた人の世の不条理ではないだろうか。
そのように突き詰めてゆくと、わたしは「文化を否定する者」ということになるのかもしれない。
なぜならわたしは「限りなく無に近い存在」をこそいとおしむから・・・
無益・無用・無価値であることの尊さ、高貴さ、
愛されること、才能を持つということの原罪性・・・そんなことを考える。
存在から、一切の「価値」「意味」なるものを剥ぎ取ること。
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