法哲学者で芥川龍之介の親友でもあった恒藤 恭(つねとうきょう)は、『旧友芥川龍之介』のなかでこう書いている。
「おたがひに一と言も話さないで、おやぢと二人、へやのなかにゐるときがある。それでゐて、そんな時にいちばん幸福な感じがするんだ」というようなことを芥川が話したことがある。これは意味の深い言葉だと思っていまでも記憶してゐる。[……]
ほんたうに親しい間柄の人と人とは、ただ同じ処にいっしょにじっとして居るだけで、すでに充分幸福である」(市民文庫版1952年)
そのひとが今、ここにいること。わたしと共にここいいること。これに勝る幸福があるだろうか?
わたしは人と話したい・・・言葉を交わさずとも一緒に黙っているだけで心安らぐ。そんな深い信頼関係を築くことはおそらくわたしには無理だろう。
「あなたがいるからわたしがいる」、敢えて哲学的な言い方をすれば、「プルーラル・アイデンティティ」(plural Identity) =(他者あっての自己)
わたしは愛されない限り、何者でもなく、存在すらしていない。
◇
もうすぐ八月。わたしはホタルを見たことがない。
飛ぶ蛍 あれと言わむも ひとりかな (炭 太祇)
もう一つ、わたしの好きな句(?)がある。志ん生の噺『心中時雨傘』の〆の一言
こぼれ松葉は 枯れて落ちても 二人連れ
心中、か・・・愛の極致。
ひとは知らず、わたしは”プルーラル・アイデンティティ”というものを、このように理解している。
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