「妙なことだが、その瞬間まで、わたしには意識のある一人の健康な人間を殺すというのがどういうことなのか、わかっていなかったのだ。だが、その囚人が水たまりを脇へよけたとき、わたしはまだ盛りにある一つの生命を絶つことの深い意味、言葉では言いつくせない誤りに気がついたのだった」
「これは死にかけている男ではない。われわれとまったく同じように生きているのだ。彼の体の器官はみんな動いている──腸は食物を消化し、皮膚は再生をつづけ、爪は伸び、組織も形成をつづけている──それがすべて完全に無駄になるのだ」
「爪は彼が絞首台の上に立ってもまだ伸びつづけているだろう、いや宙を落ちて行くさいごの十分の一秒のあいだも、かれの目は黄色い小石と灰色の塀を見、彼の脳はまだ記憶し、予知し、判断をつづけていた──水たまりさえ判断したのだった」
「彼とわれわれはいっしょに歩きながら、同じ世界を見、聞き、感じ、理解している。それがあと二分で、とつぜんフッと、一人が消えてしまうのだ──一つの精神が、一つの世界が」
これは、7月7日に行われた、オウム真理教死刑囚一斉処刑の日に、Hのブログに引用された、ジョージ・オーウェルのエッセイ「絞首刑」(『オーウェル評論集』小野寺健=編訳 岩波文庫)からの一節である。
この同じ文章同じ個所が、やはり以前、Hの著書の中で紹介されていて、はじめて読んだ時の強い印象を憶えている。
◇
生きているということ。それは爪が伸びるということであり、頭髪が伸び、皮膚の組織が代謝を繰り返すということだ。言い換えれば、生きるということは、爪を切らなければならないということ。髭を剃り髪を切らなければならないということ。入浴しなければならないということだ。それはひどく億劫で面倒くさいことでもある。大変な重労働でもある。
生きるということはとても面倒くさいことを引き受ける、ということなのだ。
捨て果てて 身は無きものと思へども
雪の降る日は 寒ぶくこそあれ
花の咲く日は 浮かれこそすれ
これまで何度も引用した西行の歌である。
生きるということは、世を厭い、お暇乞いをしたいと思っている自己の意識と、
それ自体が「生命そのもの」である身体との絶えざる相克・葛藤である。
「生命力」 「生きようとする盲目的な意志」について、印象的な文章をふたつ、紹介しよう。共に今から16年前、2002年に朝日新聞の読者投稿欄に掲載されたコラムだ。
最初は30歳の主婦の投稿。
「やっと3カ月の娘が、この暑いのに必死にしがみついてくる。そこには彼女の「命の綱」があるからだ。
この子が今、生きていくための手段は、おっぱいを飲むこと。これしかない。
この世の終わりかとおもうほど大きな声で泣きわめいた後は、目に涙をいっぱいため夢中でおっぱいを吸う。母となったことを実感する瞬間。1日7、8回、この生死をかけた挌闘が繰り返されるのだが、毎回、母子とも汗だくである。
腕の中で一生懸命生きている娘を見ながら考えた。
汗にもいろいろあるが、私と娘が今、かいている汗は何だろう。子供を産むまで、こんな汗があるとは知らなかった。」
もう一つは60代の男性。
「早朝の散歩の途中、公園の前を通ると、何か小さなものが動く。何と胴体のない頭と前脚だけのカブトムシでした。折からの風にあおられて倒れると、頑張って前脚で起き上がる。
それを何回も繰り返す。
その姿を見て、出来るだけ風の当たらない所に移し、いつもより早めにコースを切り上げて帰りに寄ってみると、ひっくり返って手を宙に動かしている。
蟻にやられてしまうぞとみていたが、よい知恵が浮かばない。どの道、長生きはできない。最後に何か食べさせてと思い、家に連れて帰りました。
盆の上に梨を切り、載せて近づけると両手を広げ、梨に手をかけて果汁を一生懸命吸いました。
胴体のないこの小さな命が、どうしていきていられるのか不思議でなりませんでした。何とかよいかたちで成仏させてやりたいと、夜は桃を切ってやり休みました。
翌朝目を覚ましてみると静かに両手を合わせて息を引き取っていました。」
生後僅か3カ月の赤ん坊、胴体のない頭部だけのカブト虫が、「いのちそのもの」「いのちのかたまり」であることがいきいきと伝わってくる。
わたしは思う。この圧倒的な生命の力は、厭世観と人の世の屈辱にまみれたこのわたしの中にもあるのだということを。
捨て果てて、あらずもがなとおもう我が実存と、
雪が降れば寒いと思い、照る日には汗をしたたらせ、日々もの喰う我が身・・・
「飛び込み」にせよ「飛び降り」にせよ「縊死」にせよ、「溺死」にせよ、
どのような形であれ、無条件に生きんとする意志に逆らって消し去ることの困難さと哀しさを想う・・・
こんにちは、blueさん🎶 瀬里香です。
返信削除お久しぶりです。暑い日が続きますがお元気にお過ごしですか。
こちらは先日、気温が40度を超え、酷暑が続いておりますが、何とか週5日、自転車通勤して仕事をしております。女性の平均寿命が90歳を超えました。わたしが現在44歳ですので、90歳まで生きるとなると、人生あと半分以上あります。そこまで生きるとなると相当な【おかね】が必要と思われるので、地味に貯蓄しています。
久しぶり過ぎて何から話したらよいのやら。わたしは20歳のときに車の運転免許証を取ってから今年の2月まで、ずっと車を利用していましたが、車検代や税金や保険料を払うのが面倒になり、四輪自動車を手放して、欲しかったロードバイクを買いました(15万円)。今は通勤も遊びに行くのももっぱら自転車(人力)です。
人力で移動して仕事をするためには、朝起きて、メシを喰らわなくちゃなりません。朝メシを喰らうのにも、切ったり塩を振ったり焼いたりしなくちゃなりません。使った包丁やまな板や皿は、洗わなくちゃなりません。また、朝メシを喰らった後は、便所に行って排泄しなくてはなりません。生きてゐるだけで面倒なことだらけです。
出勤するためには、パジャマを脱いで着替えなくちゃいけないし、顔を洗って歯を磨いて化粧をしなくちゃいけないし、面倒なことだらけです。【ノーメイク 会社はいれぬ 顔認証】。なんちて。わたしはそこまで化けてゐませんが、身だしなみ程度のお化粧をしてゐます。
さて自転車で通勤すると、この季節ですから当然、大量の汗をかきます。汗をかいたら風呂に入らなくちゃいけないし、着てゐたものを洗濯して干さなくちゃなりません。面倒くさいです。それが終わったら明日もまた働くために、睡眠薬を飲んで布団に入って寝なくちゃなりません。面倒くさいです。
いつも、お肉やお魚や卵や米や野菜をいただいてます。命をいただいてるなあ、と思います。特に、卵やジャコや網エビを食べるとき…まだまだ小さくてこれから大きく育つものを食べるときは、命を【まるごと】いただいてわたしが生きてるなあ、という気分になります。
生きてゐるというのは、とんでもなく神秘的で、とんでもなく面倒くさいです。
ではまた。瀬里香。
こんばんは、瀬里香くん。久しぶりですね。
削除わたしは何故かSNSというものに興味を失ってしまって、今のところ、FBに戻る理由がありません。
FBは「日常」がある人が、これを喰ったあそこへ行ったと報告する場所のように見えます。ツイッターもわたしには向いていないようです。
わたしはもうよほどのことがない限り外には出られなくなりました。
図書館も母に行ってもらっています。精神科医には今年はまだ一度も行っていません。睡眠剤と抗不安薬と、20年一日の薬をもらうにもなかなか出られずに、これも母に取りに行ってもらっています。
瀬里香くんは暑い夏が好きでしたよね。わたしは家の中で少し動いただけでも疲れてしまいます。
なんとか元気そうでなによりです。立ち寄ってくれてありがとう^^
よい週末を過ごしてください。