2018年7月11日

考える義務



考えることこそが人間の尊厳であり、考えないものは石ころか獣と同じであるとパスカルはいう。

わたしはこのような言い方を好まない。けれども、人間には「考える義務」があるのではないか。

今回のオウム真理教の死刑執行についても、素知らぬ顔で、通り過ぎるわけにはいかない。

「悪とはなにか?」「善とはなにか?」「狂気とは?」「正気とは?」

17世紀の人、パスカルにも考えるヒントはいくつも見つけることができる。





「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるモノを前方においた後、安心して絶壁の方へ歩いてゆくのである」(183)



「正義・力。
 正しいものに従うのは、正しいことであり、最も強い者に従うのは必然のことである。
 力のない正義は無力であり、正義のない力は圧政的である。
 力のない正義は反対される。何故なら、悪いやつがいつもいるからである。正義のない力は、非難される。したがって正義と力とを一緒におかなければならない。そのためには、正しいものが強いか、強い者が正しくなければならない。
 正義は議論の種になる。力は非常にはっきりしていて、議論無用である。そのために、人は正義に力を与えることができなかった。何故なら、力が正義に反対して、それはただしくなく、正しいのは自分だと言ったからである。
 このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。」(298)



「流行が好みを作るように、また正義をもつくる」(309)



「正義とは既に成立しているものである。したがって、われわれのすべての既成の法律は、それがすでに成立しているという理由で、検討されずに、必然的に正しいと見なされるであろう」(312)



「権威
 あることを人から聞いたということが、君の信じる基準になってよいどころか、それをいまだかつて聞いたことのないような状態に自分を置いた上でなければ、何も信じてはいけない。
 君自身への君の同意、そして他人のではなく、君の理性の変わらぬ声、それが君を信じさせなければいけないのだ。

もしも古いことが信じることの基準だとするならば、古代の人たちには基準がなかったということになるのだろうか。

もしも一般の同意だとするならば、もし人々がいなくなってしまったらどうだろう。
 (略)
いずれにしても、信じるか、否定するか、疑うかのどれかを選ばなければならないのだ。
 われわれには、いったい基準がないのだろうか。
動物についてなら、われわれは彼らが為すべきことをよくやっていると納得する。人間について判断するための基準はないのだろうか。
 否定することと、信じることと、正しく疑うことは、人間にとって、馬にとっての走ることと同じである。」(260)

以上『パンセⅠ』前田陽一 / 由木 康訳


これらは全て考えるための「酵母」である。

「正義に従うことができなかったので、人びとは力に従うことにした」と、パスカルはいう。

<正しいものを見いだせなかったので、人は強いものを見出した>

または

人は正しいものを強くすることができなかったので、強いものを正しいとしたのである

etc...

考えよ・・・









8 件のコメント:

  1. Nicoさん、これをそっくりそのまま(で、なくてもいいのですが)哲学カテで質問としてみてはもらえないでしょうか。

    私には手に余る問題ですが、ここで考えてみたいと思います。
    コメントできるほどに考えが現われるといいのですが、ちょっとキビシイかも。

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    1. こんばんは、yy8さん。

      これはまだ完結していないんですよ。オウムの処刑のことについて考えるために、その参考になるようなものを探していて、パスカルはさすがに古すぎるのではと思ってページをめくっていたら、古さを感じさせなくてついつい引き込まれてしまいました。

      一応「正義」と「力」「悪」についていくつか引用したつもりですが、まだまとめ切れていません。

      今は体力も気力もブログを書くだけで使い果たしているので「おしえてgoo」はちょっと無理ですね(苦笑)

      yy8さんがこれを元にご自分の質問として使うのはまったく問題ありませんので、試してみてはいかがでしょうか。

      またなにか感想が浮かんだら聞かせてください^^

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  2. >わたしはこのような言い方を好まない。
    僕は、好む!w
    パスカルは、言い切ってしまうなぁ。

    パスカルはデカルトのちょっとだけ後ですね。
    で、パスカルはデカルトが嫌い♪
    「デカルト、無用にして不確実」
    パスカルは、言い切ってしまう。

    >けれども、人間には「考える義務」があるのではないか。
    ある。

    吉野弘が言ってました。
        彼が
        10ワットの太陽
        懐中電灯のような太陽でも
        他人は
        月や星のように
        寒々と輝く義務がある

    考える人なんて、
    1割くらいではないか、って思ってます。
    今の世の中、考えるなんてのは、
    賢い人にはできないと思っています。
    検索すれば、すぐに正解がでてくるのに、
    それでも考えるなんて、
    馬鹿にされることと引き換えではないかと思っています。

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    1. こんばんは、青梗菜さん。

      わたしはパスカルが人間は考えるゆえに、動物よりも上位の存在であると考えているところが好きではありません。

      これは青梗菜さんへの反論ではないのですが、わたしは賢い人ほど考えるのだと思います。そしてどんどん深まってゆく、「知識」は更に深く掘り下げてゆくためのツールであり、また、奥深く降りてゆくための階段のように思っています。

      わたしの場合は下手な考え休むに似たりといった感じで、考えることは、癖・習慣みたいなもので、一向に深まりも高まりもしません。

      前にも書いたように、わたしには「問うこと」が重要なのであって、答えを得ることを求めてはいません。だから基本的に「検索」はしません。

      上の詩、吉野弘にしてはわかりづらいですね。

      コメントをどうもありがとうございました。

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  3. “何か目をさえぎるモノ”

    これは「正義」なのかな、と思いました。

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    1. 何か目を遮るモノ、わたしはそれはインターネットを含むメディアだと思います。

      この場合は「馬の遮眼帯」ですね。


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    2. 「われわれは絶壁(最悪、或いは危険な事、或いは過ち)が見えないようにするために、何か目をさえぎるモノ(正義)を前方においた後、安心して絶壁の方へ歩いてゆくのである」

      なぜならば「正義」とは常に“正しい事”であるはずなので、力を込めて歩く事が出来るから。

      と、このように考えてみました。

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    3. なるほど。おもしろい見方ですね。

      「正義」と呼ばれるものほど疑ってかからなければならないものはない。
      すべての戦争は正義の名の下に行われたのですから。

      けれども人類は「正義」の旗をかざして絶壁に向かって進んでいくのですね。

      正義の道は滅亡へと続く。


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