2018年7月6日

泥の美 負の美


なにかを書こうと思うのだが、うまく考えがまとまらず、もどかしい。

弱者であるということは一種の恩寵だろうか、という考えがふと頭を掠めた。
だが「恩寵」という言葉は相応しくはないだろう。「恩寵」というからには、それを受ける者(当人)に何らかの幸(さち)が齎されなければならないはずだ。

これは過去に何度か書いたことのある、わたしの主要な関心事のひとつでもあるのだが、弱者(と呼ばれる状況にある人)や、障害を持った人、悲しみを抱えた人、傷を負った人、社会という枠組みからドロップアウトしてしまった人・・・そのような人たちの存在が、どれほどわたしのこころを潤し、また慰めになっているかということをしばしば考える。

言い換えれば、わたしは全ての人が幸せで、死を思う人の居ないような世界に住みたいとも、またそんな世界に自分が生きられるとも思わないのだ。
つまりわたしは「不幸な人」「孤独に呻吟している人」のいる世界を望んでいる、という事になる。何故か?それは不幸は幸福よりも高貴だからだ。
苦しみや悲しみには、それに相応しい「美」が備わっているからだ。

裏返せば、誰もがハッピーで、病も、老いも、自殺も、自責も、自己嫌悪も悔恨もない世界は、高貴さも、繊細さも、情緒の襞も、美も存在しない、陰影に欠けたフラットで即物的な世界という事になる。もちろんそんな世界には文学も、哲学も、音楽もアートも存在しないだろう。何故って、それらはみな、幸か不幸か我々が生を享けた憂き世の生に付き物の、激しい雨風をなんとか凌ぐための人間の叡智と工夫の結晶に他ならないのだから。

俗に言う「よりよい社会」とはなんだろう?それは政治屋渡世で喰っている者たちの好む言葉だが、そもそも政治(家)というものが存在する限り、「よりよい社会」などというものは絵に描いた餅。噴飯物でしかない。



不幸な人は幸福な人間よりも高貴である。
深い傷を負った人間は無傷の者より美しい。
全ての(商業的、世俗的)成功・栄達は堕落である。
無名は有名に勝る。

これは最早わたしの信仰と言ってもいい。「信仰」といっても、わたしが拝跪する対象は、あくまでも「美」である。
ただ、勝つことよりも敗れ去ることに、更に言えば不戦敗に、より大きな価値を見出すのだ。


「すぎさったものだけがきれいにおもわれるのは、過去がすでに世界から距離をとっているからだ・・・」

Hの日記にあった言葉だが、弱者、不幸な者、落伍者、孤独な者たちが美しく見えるのは、彼らが現世(=いま・ここ)という穢土から離れているから・・・そう言い換えることもできるだろう・・・


誤解を恐れずにいうなら・・・いや、そういう卑怯な言い方は止めよう。

わたしは世界中の人間が全て、今現在悲しみにひしがれている人の如く不幸であれ、とまでは思わないが、たとえばボロをまとったホームレスと、公園でたまたまであった彼(彼女)に、パンと飲み物を差し出す束の間の(一期一会の)やさしさを秘めた無名の人ばかりであればと思う。

うつむく人、地に横たわる躯にさしのべる手と微笑み、それ以上に貴い芸術や文藝、そして仕事が、この世の中にあるだろうか?

「ノブレス・オブリージュ」(Noblesse Oblige) 持てる者が持たざる者を援ける義務・・・
しかし、これは義務というよりも寧ろ、彼らに与えられた「恩寵」ではないだろうか?













0 件のコメント:

コメントを投稿