2018年7月13日

考える義務 Ⅲ  死刑制度維持論者への質問


わたしは死刑制度に反対である。そこで、人はどのような理由で死刑を支持しているのか知りたいと思った。多分2002年の朝日新聞に載った記事だが、元筑波大学教授という人が、死刑制度存続の立場から意見を述べているので、この記事に沿って考えてみたい。なおこの元教授は「自分は法律の専門家ではないが」と断っている。

見出しは「命でしか償えない罪も」である。


「私は法律の専門家ではないが、死刑制度の存続を願う一市民の立場から、考えるところを述べたい。
第一に、国家は正義の遂行者でなければならない。
 ここでいう正義とは、不条理な人権の侵害に対して復讐する権利の旗印を意味する。国家の構成員である個人は公権力に警察権、裁判権、刑の執行権を移譲し、納税などの義務を果たす代償として、国家により生存と生活の権利を保障されている。」

ここで疑問に思うのは、では「国家」は「不条理な人権侵害を行わない」という大前提が無ければならないのではないかという事だ。ここで彼は、国家は無条件に「善」の立場にあるという「誤った」前提に立っているのではないだろうか?

またすべての国民は「納税などの義務」を果たす「代償」として生存を保証されているわけではない。ホームレスにも基本的人権はある。更に言えば、ホームレスが存在すること自体がおかしいのだ。

「第二に、個人の人権は無条件で保障されているのではない。他人の人権を侵害した者は、その侵害の程度に応じて自己の権利に制限を受ける。侵害が重大な場合は「生存権」とてその例外ではあり得ない。」

「侵害の程度に応じて」とあるが、「罪」と「罰」のバランスは、一体だれが、どのような資格で決めるのか?

スマホを見ながらわき見運転して子供をひき殺した場合の罰が、懲役5年や6年というのを、軽すぎると見るか、妥当とみるかは、当然裁判官の判断だが、量刑=「罪」と「罰」の軽重の客観的なバランスはどのようにして保証されるのだろう?
「生存権とて例外ではない」ーその根拠は?いかなる法哲学に因るのか?

「第三に、人命は限りなく尊いが、それ故にこそ、自己責任能力をもつ者が、不条理で身勝手な理由により何ら落ち度のない他人を殺害した場合は、その命をもってしか罪を償う方法がないのである。」

これにはなんら論理的な説得力はない。つまりどのような罪は命をもって償わなければならず、どのような罪は、実刑4年で済まされるのかという基準が示されていない。
そして奪われた命はそれを奪った者の命をもって償うしかないと言いながら、すべての殺人者が死刑にならないという一貫性の無さも納得できない。つまり死刑制度は、裏を返せば奪われた命に軽重があるという事を表明してはいないか。
「過失致死」の場合は、”自己責任能力をもつ者が、不条理で身勝手な理由により何ら落ち度のない他人を殺害した場合”には当たらないというのも、身勝手な理屈ではないか。

そもそも日本のように人権意識の極めて低い国にあって、遺族感情を考慮してなどという取って付けたような口上は、いかにもあざとい。
仮に不条理な形で、肉親を殺されたものが、殺人者を「死刑にして下さい!」と言ったとしたら、遺族感情を鑑みて、裁判官は遺族の希望を容れてくれるのだろうか?
もし「これは死刑には値しない」という判断が下された時には、裁判官は遺族の感情を踏み躙ってはいないか?

あまりにもスカスカの「国家性善説」に立った死刑制度維持論であった。



「悪を退治る!」未だそんな前近代的な大見栄切って人気取りを演じているのか。
つくづくこの国は「反省」と「検証」に欠けた国だと感じる。

死刑制度があるために、「処刑」=「殺す」ことが最終的なゴール(目的)になってはいないか?「木を見て森を見ず」になってはいないか?
第二第三の麻原(=オウム)を、加藤智大を、永山則夫を生み出さないために、彼らを飽くまで人間として遇し、彼らの人生観・殺人観を徹底的に究明・検証し、それを社会のシステムに還元すること、それが司法の役目ではないのか?
「殺人者」を人間として遇しない限り、人間としての彼らの心の内は語られることはないだろう。
彼らから学ぶべきところは大きいはずだ。単純に凶悪犯=非・人間として、隔離ー処刑。
それでは犯罪の背景になったもの、その動機が不明のまま彼らはこの世から消されてしまう。彼らが「闇」(病み)なら「闇」を忌避して葬り去るのではなく、寧ろその闇を解明することに力を注ぐべきではないのか?何故なら彼らは「悪魔」ではなくわたしたちと同じ社会に生まれた「人間」なのだから。
彼らがレクターでなくても、学ぶところは大きいのだ。
それともあなたは、生涯殺人者になることはないと、こっそり神に耳打ちされたとでも?

最後に、ある狂った集団に命を奪われかけた人の言葉を紹介しよう。

ユダヤ人の哲学者であり、アウシュヴィッツの生存者、プリーモ・レーヴィの言葉である。

「人間がアウシュヴィッツを建てたのだから、人間であることは罪である。
 アウシュヴィッツを建てたドイツ人が有罪であるならば、ドイツ人と同じく人間である
 自分も有罪である」

プリーモはわたしたち自身に、執拗な反省と地道な検証を・・・「考えること」を促してはいないか・・・














4 件のコメント:

  1. 「ここでいう正義とは不条理な人権の侵害に対して復讐する権利の旗印を意味する」

    不条理な人権の侵害を受けたら仕返し(復讐)する権利がある、と云っていますね。
    それを、一市民に代わって国がやるのだ、という意見なのかなと思いました。

    この教授は「国家」は「不条理な人権侵害は行わない」と云う事を大前提にして、云っていますね。

    また、すべての殺人者が死刑にならないというのは、その理由に奪われた命に軽重があるから、ではないはずです。
     
    ただ、一国の「首長」が、ともなればその軽重も視野に入ってくるかとは思います。

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    1. そうですね。しかしわたしはそもそも国家権力というものを好みませんので、その権利を譲るということをしたくありません。

      この辺りは難しいところですが、ただ「死刑は国家による殺人だ!」の掛け声だけで反対の理由にしたくはないのです。

      わたしは「死刑による損失」ということを考えています。

      量刑の公平・公正さは何に因って保たれているのかも腑に落ちません。

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  2. 暴力と所得の再分配、
    それが国だと思っています。
    国ってのは、なんだかヤクザな仕事をしています。
    僕の国についてのスタート位置はそこなので、
    あまりきれいな話にはなりませんw。

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    1. そうですね。国はある見方をすればヤクザ集団と変わりませんね。

      ただ、富や力の分配は、国が一方的に差配していいものか、可能な限り、国民の利益に近づける必要があって、国民はそれを要求しなければならない。
      国民=被支配者ではないのですから。

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