2018年7月25日

世を拗ね者の問わず語り「愛」「才能」など


連日の厳しい暑さのせいもあるだろうが、ただそれだけの理由ではなく、既に先月の時点で書いたように、自分の内面が徐々に「狂気」に浸食されつつあることを感じている。
── この場合の「狂気」というのは、ほとんどの生活者が何の疑いもなく「自明」としている事々が、わたしにとっては最早まったく「自明」ではなく、自明なことなどほとんど存在していない、といった意味での「狂気」のことである。

そしてこの「狂気」の淵源なるものは「孤独」「孤立」そして生きる悲しみである。

「「美」はわたしの宗教である」と書いたことがある。
しかし自然の美は措くとして、人間が創造した「美」、音楽でも、絵画でも、詩歌や文学でも、それらに今なお、わたしは拝跪するか、と自らに問うた時、素直には首肯できなくなっている。

バッハを聴くこと、モーツァルトを聴くこと、レンブラントの絵を観ること、放哉や啄木の歌を読むこと、トリュフォーの映画を観賞すること。=文化を享受すること。
そもそもわたしにそんな資格があるのだろうか?
そしてここにひとつのキーワードが浮かび上がる。それは「施し」。

' Beggar'ー「乞食」これはいったいどういう存在だろうか。

「お金を払って本を買った。CD、DVDを買った。入場券を買って美術館に行った。コンサート会場に行った・・・」そういうことではないのだ。

紀伊国屋で、定価で辺見庸の本を買った、エミール・シオランの本を買った・・・としても、なおわたしは彼らに「施しを受けている」という感覚が拭い去れない。

「晴耕雨読」ではなく「晴耕雨眠」・・・本当は、「文化」などといったものと全く無縁に暮らしている方が、より人間らしいのではないか、とも思う。

そもそも「文化」とはなにか?そしてそれを必要とする者とはどのような者たちなのか?



「すべての人間は無条件に生きる権利を有する」
これは一般的には「自明のこと」とされている。(と仮定しよう)
ところで、憲法で保障されている「基本的人権」とか「天賦人権論」といった「教えられ与えられた理由」の他に、人は上記の命題を妥当とする根拠を持っているだろうか?

例えばわたしを殺した者は何故罪に問われるのか?
(その罪は当然ながら「殺ータケオー罪」ではなく「殺ー人ー罪」だ。)
殺人者は「わたしという個人」を殺したことによっては罪に問われない。わたしの中から「わたしくし性」を完全に捨象した、いってみれば(代替可能な)「ヒトの身体」を殺めたことによって罰せられる。いわばブッチャーである。

ところが一般に殺人とは、「誰でもよかった!」という無差別殺人を除いて、その動機は被害者の属性、乃至、その人がその人であるが故の犯行である。

相模原「やまゆり園」の場合は重度障害という属性を標的とし、抹消しようとした点で、単なる大量「殺・人」では括り切れない。これはいわば(広義の)政治的判断に基づく粛清であり、思想犯でもある。植松聖は単なる「実行犯」の一人に過ぎない。使嗾したのはこの国の古層に脈々と流れる異者排除のメンタリティに他ならない。

どのような重度の障害者であろうとも、その名を愛する家族なり友人なりがいれば、それを殺すことは紛う方なき殺生ー「殺○○(=名前)」である。
裏返せば、殺されて悲しむ者がいない時、それは言葉の本質的な意味での「殺人」と言えるのだろうか?被害者は、この世界にどのような形で存在していたのだろうか?

メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』のテーマは「愛」であった。彼は、その出自や姿形以前に、愛されざる者であるが故にモンスターであった。
ブラックジャックとフランケンシュタイン博士のモンスターとの違いがあるとすればそれは何か?
「愛されざる者」=「わたし」はそもそも「人間」だろうか?

全ての命は等価だろうか?少なくともわたしはそうは思わない。
辺見庸が殺されるのとわたしが殺されるのとではまったくその重さは異なる。
(この場合(辺見庸)の部分を任意の愛される者、才能のある者に置き換えてよい)
ブラックジャックとメアリー・シェリーの創造したモンスターの価値は同等だろうか?
人の価値はその人に注がれる愛情の「質の量」によって計られる。
ホームレスに愛される埃まみれの犬に比べてさえ、わたしの命は遥かに軽い。

あらゆる生命は誕生したときから平等ではない。だからこそ、優位のものに下位の者たちがまつろうということに、どうしても抵抗を感じてしまう。
ヒトを含め、動物たちの赤ちゃんが母親の乳を奪い合う、授乳される。それは「施し」ではなく「愛情」に他ならない。



以上思うことをわからないことはわからないなりに、断片的散発的に述べてきた。
主に言いたかったことは、文化を享受することは才能のある者の施しを受けることとは違うのかということ。わたしがルソーを読むとき、それはルソーから施しを受けることとどう違うのか?
パンを乞い、小銭を乞う「乞食」と「知識」や「美」を乞う者の本質的な差異は何か?

「ブレッド・アンド・ローズ」-パンと花(文化・美)これが人間が生きるに最低限必要なものとされているし、現にその通りだ。ならば人はいかなる資格を持って、パンと薔薇を手に入れるのか?働けず「対価」を払うことのできない者は?「施し」?「施しではなく権利だ!」というなら、わたしがその権利を持つ根拠は何か?
その「権利」は無条件に与えられたものであって、わたしがわたしであるがゆえに手に入れたものではない。その「権利」自体が「施し」ではないと言われても納得するのは難しい。



社会に「貢献」し「利益を生まない」者は無価値だと言っているのではまったくない。
ただ悲しいのだ、この世界の何処にも自分の居場所がなく、何もかも与えられるだけの存在であることが。
いや、違う、わたしは何も「与えられて」はいない。パンから文化から人権に到るまで、全て「施されて」いるだけだ。或いは「盗む」ことによって命をつなぐ孤児だ。
誰もそれを咎めはしない。ただ悲しいのだ。

わたしは医学的な意味での「知的障害」ではないかもしれないが、所謂「バカ」には違いない。
わたしには「自明の理(ことわり)」があまりに少ない。

いったい人は何時、あなたがたのような人になったのだろうか。わたしは自分がまったく普通のニンゲンである気がしないのだ。





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