2018年7月17日

耳を貸す者


私たちがどれほど遠く信仰から離れ去っていようとも、話相手として神しか想定できぬ瞬間というのはあるものだ。そのとき、神以外の誰かに向って話しかけるのは、不可能とも狂気の沙汰とも思われる。孤独は、その極限にまで達すると、ある種の会話形式を、それ自体極限的な対話の形式を求めるのである。
ー エミール・シオラン『生まれたことの不都合について』(出口裕弘訳)


神はわたしを許すだろうか?
神には「嫌いな人間」というものは存在しないのだろうか?
ヨーセフ・メンゲレも、わたしも、同じように許すのだろうか?


3 件のコメント:

  1. これはキリスト教徒の言葉なのでしょうか?
    キリスト教は神は創造主で人間はその創造物あるという。
    だから、極限状態になると神に問うことにならざるを得ぬと。

    神はわたしを許すだろうか?、というのは神を人格神と見ているように思えます。
    そう受け止めると私には理解し易いです。
    母と子の関係に例えられるからです。

    問題は、キリスト教は人間を罪の子と見ていることです。
    だから、神はわたしを許すだろうか?という疑問を呈することになるのでしょう。
    仏教でも罪悪の凡夫、などと言ったりします。

    でも、神の子・仏の子である人のその罪は、創造主である神仏から受け継いだもののはずです。
    また、母の子を思う気持ちは、その子の善悪を基準にしているのでしょうか?
    違いますよね?
    自分の産んだ子ならば、それこそ無条件で受け入れられるというのが親心なので、このことを信じることができれば、許すだろうか?といった疑問は起きないはずです。

    キリスト教は神と人との関係は契約であるらしいので、だからこんな疑問を神に投げかけることになるのではないかと思います。

    ☆ 下手な考えでごめんなさい。

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    1. こんばんは、yy8さん。

      わたしは宗教全般について全く知識がないんですよ。シオランがクリスチャンかどうかも解りません。

      >神はわたしを許すだろうか?、というのは神を人格神と見ているように思えます。

      そう言われるまで気づきませんでした。
      わたしはそもそも人間というものに愛想をつかしています。それを創ったのが神であるというのは、わたしのなかでは矛盾することになります。何故大嫌いなものを創った者にすがるのか、という矛盾です。

      わたしは不可知論者だと思います。ただ、わたしにとっての「神」は、やはり大自然だったり、もっと人智を超えた存在で、それは所謂人間の似姿をしているとは思えないのです。

      「罪」も、どういうことが「罪」なのかがわかりません。
      「人間はもともと罪深い存在である」というようなことなら理解できますけれど。

      yy8さんの説明はとてもわかりやすいのですが、いかんせんわたしに宗教の知識がなさすぎます。

      昔から「哲学」への興味が9だとすると、「宗教」への興味は1といった感じでした。
      哲学は自分で自由に考えられるけど、宗教って「教義」があったり、「信じる」ということがありますよね。わたしの基本姿勢は「全てを疑え」ですから、どうしても「教えを身に付ける」という考え方とは相容れないのです。

      今回の投稿は、人間に相手にされない者に唯一耳を傾けてくれるのが「神」(のような?)存在ではないのか?という気持ちからの引用でした。

      「許し」についても、どこかで自分は「許されざる者」という意識(無意識)が底流にあるように感じているので。

      またお話し聞かせてください。

      毎日暑いですね。

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    2. 追伸

      ひとりでも真剣にわたしの書いたものに向き合ってくれる人がいるということは少なからぬ励みになります。

      どうもありがとうございます。

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