2019年7月9日

「想像力の欠如」という誤解


最近知ったあるブログにリストカットやオーバードーズについて書かれていた。

わたしはそのブログの筆者である女性に愚かな質問を投げかけた。

「何故リストカットの「痕」を隠す必要があるのですか?これは何故入れ墨を隠す必要があるのかと同じレベルの質問だと思います。」

と、

彼女はこの愚かしい質問に真面目に、丁寧に答えてくれた。

「なぜリスカ痕を隠すのか」
正直なところ、隠さなくても受け入れられる世の中なら隠したくはないです。自分の生き抜いた証だと思っていますので、、、。
しかし、世間の目はタトゥーを見るのと同じです。痕のせいで仕事にも就けません。
だから隠すのです。

わたし自身が、自傷行為や、薬やアルコールの過剰摂取に何の偏見もないものだから、
世の中にはリストカットやオーバードーズ、それどころか精神科にかかっていること、
生活保護を受給していることにさえあからさまに嫌悪感を示す人がいるという事実をすっかり忘れていた。

そもそも「そんな人(=リストカットを怖がることではなく、それを忌まわしいこと、倫理に悖ることと考える人)がいるということが信じられない」などと考えることが、とりもなおさず「他者への想像力の欠如」「想像力の著しい貧困」に他ならない・・・のだろう。

「道で転ぶ者」がいて、どうしてこんな道で転ぶのかがまったく理解できないものがい、何故自分は転ぶことはないと確信を持てるのかが理解できない者が一方にいる。

所詮両者は常永久に袖すり合う事なき縁なき衆生である。
そこに「想像力」というような妙なことばを持ち出してきても全く無意味ではないのか・・・

そもそも「想像力」という言葉自体、既にして、「神秘学」「オカルト」的領域の語彙ではないのか?
一方で、「想像力」の無効を言うことは、他者を「理解」することは殆ど不可能であるという主張に限りなく近づいてはいないだろうか?何故なら「理解すること」と「想像すること」は、ほぼ同義と言ってもいいものだから。

「わたし」と「あなた」、「わたし」と「彼」・「彼女」は異なる存在だ。
その差異、隔たり、を、ある人たちは「想像力」を架橋することによって、無くせないまでも、可能な限り近づけようとしてきた。けれどもわたし自身を振り返って、そもそも自己と他者との間に架橋が可能か、という疑問がわだかまっていることに気付いた。そして導き出された結論は「限り無く困難」乃至「不可能」であった。


・・・「自己」と「他者=非・自己」、「想像力」と「理解すること」
今のわたしには手に余る難問だ・・・

ただ、人間は、もっともっと人間というものを低く見積もるべきだというのが精一杯だ。

そしてもうひとつ。これは言い切ってもいいと思うが、わたしには、想像力は、無い。



















9 件のコメント:

  1. こんにちは、Blueさん。

    わたしはA型就労支援事業所で働いてゐます。就業者全員が障害者です。常時車椅子を使っている人もいるし、義足の人もいるし、発達障害の人もいるし、メンタル患いの人もいるし、耳の聞こえない人もいるし、英語しか話せない人もいるし、色々な人がいます。
    わたしにとってはどうってことの無い段差も車椅子利用者には不便そうですし、わたしにとってはどうってことの無い雑音も音に敏感な人には耐えられないようです。例えば書類を捲る音だとか貧乏ゆすりの音だとか鼻をかむ音だとかモノを置くときの音だとかPCのキーボードを叩くときの音だとか始業時終業時のチャイムの音だとか休憩中の雑談の声だとかスマホをタップする音だとか。

    わたしと同年齢の男性で、リスカ跡のある同僚がいますが、彼もやはりリスカ跡を隠さなくてはいけないと考えているようで、7月になった今でも暑い中長袖で出勤し長袖で仕事をしています。そんな彼を「可哀想」だとは思わないけれど、社会適応お疲れ様、社会適応無理しすぎないでね、と思います。

    わたしのように想像するのが苦手な発達障害もいます。わたしは想像するのも苦だし空気を読むのも苦手だから、周りの人にはどんどんしゃべってもらうようお願いしてあるし、しゃべってもらった分はしっかり聴くようにしています。わたし注意欠陥だから途中で聴き聴き切れなくなることもありますが、そんなときはまた後日しゃべってくださいとお願いしています。

    耳の聞こえない人や英語でしか話せない人とも同じ職場で一緒に仕事をしている以上、スムーズに交流を図りたいので、ぜひ手話や英語を覚えたいと思う今日この頃です。想像力や思いやりや協調性の乏しいわたしにできることを日々模索している今日この頃です。わたしも常に人のお世話になりっぱなしで感謝しっぱなしだから。

    ___________


    今年は夕方になると涼しい風が吹いてくれますから、まだ一度も冷房を使わずに済んでおり、網戸と団扇と1日2リットルの麦茶で過ごしています。今月末の梅雨明けごろから本格的に暑くなると思うので、どうぞご自愛くださいませ。

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    1. こんばんは、久し振り、瀬里香さん。

      音でも色でも匂いでも、とにかく刺激に過敏な人って大変だなあとつくづく思います。
      わたしは一人暮らしはとういてい出来ません。ふつうの人の立てる生活音やそのほかの音、匂い、声などに過敏だし、自分がそうだから、できるだけ音を立てないような暮らしをしてしまいます。家でも、わたしは足音がしないと言われたりします。
      まあそう四六時中気を遣っているわけではありませんが。

      宅急便やセールスのチャイム、ノックが怖いし、電話も怖いということは以前話しましたね。「〇時~〇時の間に電話します」とか「伺います」などと言われると、もうその時間中脂汗を流して、トイレにも行けません。だから誰か代わりに出てくれる人が不可欠なのです。
      瀬里香さんの言われた、音に過敏な人やわたしのような人って、身近な人でさえ「理解できない」し、そういう立場に立って想像することも出来ません。ただ、そういう人であることを受け入れるか、受け入れられないかのどちらかです。



      現実に一度だけ、リストカットの痕を見せてもらったことがありますが、何故これがまずいの?と思わずにはいられません。ファションで入れるタトゥーも同様です。
      似合ってればいいと思います。まあ個人的にはあまり趣味ではありませんが。
      それは趣味の問題であって、善悪の問題ではないし、モラルのもんだいでもない。

      わたしもテストを受けたことはないけど、ADHDの気はあると思います。落ち着いて人の話を聞くのが苦手。自分のことばかり喋りたがる(苦笑)

      瀬里香さんは何かにつけ建設的に頑張っていますね。わたしも英語を覚えたいですね。記憶力が極端に悪く、運転免許も取れないくらいですから、手話は難しいけど。
      筆談で。

      ところで瀬里香さん自身は社会適応いかがですか?結構慣れましたか?無理していますか?「無理しないでね」ではなくて「無理し過ぎないでね」というのはいい表現ですね。

      瀬里香さんも無理し過ぎないでください。



      今年は今までのところ、梅雨らしい梅雨なので助かっています。駅前くらいなら傘さして行けるし、何よりもかんかん照りに無駄にホームに電灯をつけている駅ばかりなので、薄暗いと多少そのイライラが薄らぎます。
      おかげで先週久しぶりに主治医のところにも行けました。

      久し振りにコメントをもらえてうれしいです。ありがとう^^

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  2. わたしはね、Blueさんは想像力あると思ふよ。
    FBのわたしのウォールに素敵な絵や素敵な曲を投稿してくれてたのどれだけ嬉しかつたか。あれ最高のプレゼントでした。Blueさんと一緒に同じ絵や同じ曲を楽しむことができるというのが楽しくて最高です。アートブログも楽しみにしてゐます。

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    1. わたしに優しく接してくれる人、好意的な関心を寄せてくれる人にはなにかできることはないかと考えます。最近はアートからまたちょっと離れていますね。

      瀬里香君に直接送れないのは残念ですが、アートの方も手探りですが、なんとか少しづつでも続けたいと思います。

      うれしいコメントをありがとう^^

      加藤しゃんはお元気ですか?(笑)

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  3. Takeo さん

    こんにちは、まゆらです。
    コメントを引用した記事を書いてくださったとのことで、早速ですが読ませていただきました。
    リスカやODに偏見がないなんて、同じ病気を抱えている方や、それを格好いいことと勘違いしている若者(失礼な言い方ですが…)だけだと思っていたので、正直とても嬉しかったです。
    わたしのブログのほうでもお返事させていただきましたが、引用、およびリンクにつきましても一切問題ありませんので好きなようにお使いください。
    わざわざ取り上げて下さってありがとうございました。

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    1. こんばんは、まゆらさん。

      わざわざお越しいただき、ありがとうございます。

      わたしも「健常者」ではありません。今日のブログに書かれていた、自立支援を使って精神科医にかかっていますし、障害者手帳も持っています。広い意味では「同じ」だと思っています。

      ただ、仮にわたしがそうでなかったとしても、わたしは世間がどう思うかを自分の価値観の規準にはしませんので、おそらく、そういうことに対しての嫌悪感はないと思います。また、みなと同じように、同じものに嫌悪感を示すような人間ではありたくないと願います。

      リンクは早速冒頭に使わせていただきました。

      失礼な言い方ですが、わたしは本文よりも、わたしに下さったお返事の方により魅力を感じました。

      後半の文章には、二階堂奥歯を思いました・・・

      こちらこそ、改めてどうもありがとうございました。



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    2. Takeo さん

      お返事と当ブログへのコメント、ありがとうございます。

      そうだったのですね。手帳はまだ申請中ですが、自立支援はわたしも利用しています。

      『そうでなかったとしても…嫌悪感はない』というお言葉、本当に嬉しいです。健常者の方ですと、そういう方にはほぼ出会えませんので…。

      リンクを確認いたしました。ありがとうございます。
      本文じゃなくとも、わたしの紡ぎ出す言葉に魅力を感じていただけたのなら嬉しい限りです。二階堂氏を感じていただけただなんて光栄です。

      こちらこそ本当にありがとうございました。

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  4. Blueさん🎶
    ご返事ありがとう。


    今の職場は耳栓やイヤフォンの使用OKなので、非常に助かってゐます。よって業務上のホウレンソウ(報連相)は、筆談がメインですし、休憩時間もやたらテンションの高い人たちに無駄に話しかけられることなく(?)のんびり過ごせてをり、わたしが無理し過ぎて過剰適応し過ぎている感じはありません。何とか毎朝6時半に起きてロードバイクで出勤し、14時までの短い時間就労することができています。わたしさへ受け入れてくれるA型継続支援事務所のお陰だし、少しでも勤労するわたしを応援してくれる両親のお陰だし、存在ごと喜ばしい娘息子のお陰です。

    わたし30年前から精神障害とお付き合いしてて、二十歳ぐらいのときから薬もたくさん飲んでるけど、完治したことは一度も無く、完治させようという気もとっくに失せ、これからも完治しないだろうなあと思ってます。そんなわたしの特徴を、わたしの一部として受け入れてくれる人には感謝するばかりです。一方そんなわたしを突っぱねる人の方がはるかに多く、さういう人たちはご縁が無かったものとしてスルッとスルーするしかないのが現状で、だからわたしの味方はものすごく少ないのだけど、その人たちをわたしは大切にして生きています。

    しばらく雨が続きそうですね。わたしも雨の日は眩し過ぎなくて、目が疲れ過ぎなくて好きです。今ロータスの花が満開です。グレーの空にピンクのロータスは良く合います。

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    1. こんばんは、瀬里香さん。

      先日底彦さんについても書いたことだけど、底彦さんは「この世界でどうあるべきか?」を模索中だと言っていたと思います。

      わたしは瀬里香さんや底彦さんよりもはるか手前の地点でただ呆然自失して立ち尽くしています。
      つまりわたしにはお二人のように、「この世界で生きること」(生きなければならないこと)が自明の前提ではないのです。
      「生きたくない」のは「生きられない」と思うからです。

      一昨日、3か月ぶりのデイケアの「認知行動療法」のプログラムで(といっても底彦さんがやっているような本格的なものではありませんが)「拒絶体験」というテーマで話し合いました。わたしは例によって、「あの時にあの人から・・・」「この人からこんな風に・・・」といった具体的に完結した「拒絶体験」ではなく、「わたしという存在がわたしを包む全宇宙から拒絶され否定されている感覚」を語りました。
      いつも言っている「世界にたったひとり遺棄された者」の感覚です。

      わたしは参加者に、「何故皆(世の中の人たち)は、自分にはどんなに敵が多くても味方だっていると思えるのか?」と訊きました。

      わたしは「母はわたしの味方だ」と言い切る自信はありません。
      そして現にわたしは母を大事にできてはいません。
      それを味方だなどということができるでしょうか。こちらが味方らしいことを何にもしていないのに、寧ろ彼女の人生の妨害者とさえ言えるのに。

      瀬里香さんは日々、仕事に、生きることに没頭し、このように、文字通り時間の無駄のような人生を送っていないことを喜ばしく思います。

      これは皮肉でも何でもなく生き続ける意味を追い求め続けて疲れ果てているわたしの本心です。

      といって生きる意味を持たずに生きることはできないのです。
      そしてそれを見つけることはほぼ不可能であることも承知しています。

      「死」って本当に「救い」ですね。

      瀕死の化け物より。

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