2019年7月23日

自分の目を自分の目で見ることはできない…


「私は議論をして、勝ったためしが無い。必ず負けるのである。相手の確信の強さ、自己肯定のすさまじさに圧倒せられるのである。そうして私は沈黙する…」

— 太宰治 「桜桃」より


上の文章では「自信」と「自己肯定」とは、ほぼ同じ意味で使われているようだ。
「確信の強さ」すなわち「自信」である。

いずれにしてもわたしは「自信」も「自己肯定」も持ってはいない。

確かに自分の好き嫌いは明確に持っている。例えば「スマホ」のように、自分が嫌いだと思えば、世界中の人が「それ」を持っていようと、また持たないことの不便さをも乗り越えて、決して持とうとは思わない。

リクルートルックにこの身を包まなければならないのなら、そうしなくてもいい会社・仕事を選ぶと前に書いた。就職とリクルートルックが切り離せないものであるなら、その時は「良心的兵役拒否」である。人の生き方、ライフスタイルとは、その人の選択した細部の総和ではないだろうか?逆に言えば、限定された選択肢しか提示提供しえない社会は本質的に貧しい社会ではないだろうか。社会の豊かさの規準は、それがもつ(有形無形の)選択肢の多様さに他ならない。


なんだかこんな風に書くと、良かれ悪しかれ(ほとんど悪い意味に取られるが)「自分」というものを持っているじゃないかと思われるかもしれない。
確かにそれは否定しない。おそらく多分に反・社会的な意味で、わたしは強固な自己のスタイルを、テイストを、ポリシーを持っている。

しかし繰り返すがわたしは「自信」も「自己肯定」も持っていない。
どころか、稀に見る劣等感の塊といっていい。


『オズの魔法使い』の「もしも頭脳が(こころが、勇気が)あったなら」という歌
"If I only had a (brain/heart/nerve)" がわたしのテーマ・ソングだと、これも何度か書いてきた。
それだけわたしはいつも、頭の中も胸の内もからっぽだという意識・感覚=劣等感に苛まれている。

いつも思うのは、藁でできた案山子が欲しがった「頭脳」(脳みそ)を、
ブリキ男が求めていた「心」(ハート)を、
臆病ライオンが求めていた「勇気」を持った人間とは、具体的にはどのような人物なのか?

街行く人が藁の案山子でも、ブリキ男でも臆病ライオンでもないのなら、3人は「彼らのようになりたい」と願ったのだろうか?わたしが日々目にしている虚ろな目をした、どう見ても彼ら3人が望むものを持っているとは思えない者たちのように?


自分で考える頭脳を持ち、悲しんだり喜んだり怒ったり、また笑ったり涙を流したりする「感情」-「ハート」をもち、困っている人に手を差し伸べる「勇気」を持つ生き物とされる「人間」・・・

ではわたしは彼らがそうなりたいと思った人間だろうか。
わたしは彼らの仲間(同類)だ。自分が「頭脳」や「ハート」や「勇気」を持っているという実感がない。人一倍考えることが好きで、人の何倍も怒ったり悲しんだり感情表出するけれども、自分が「頭脳」とか「ハート」と呼ばれているものを持っているという「感覚」が、無い・・・

最近繰り返されるテーマだが、世の人は、いつ、どこで、どのようにして「人間」になったのか?オズの国の三人組が、またフランケンシュタイン博士によって創り出された怪物が、そうなりたいと願った「人間」に。また自分が他ならぬ「人間」という生き物であるという自覚 ──「自信」「自己肯定」を、どのようにして手に入れたのか?。


いったいどうすれば、この頭の中には考える脳があり、この胸にはちゃんと感情を持ったハートがあると、そして「我もまた愛され得る存在である」という「実感」を手にすることができるのか?


<もしも鏡がなかったら、人は自分が「眼」を持っているということをどのように知るのだろうか?> 









6 件のコメント:

  1. こんばんは。

    ぼくの考えでは、人間は本当に自分の中にないモノは、それが『ない』とも思わないと思うんですが、どうでしょうか?

    つまり、『人間(目・頭脳・心)とはこんなものである』というイメージが全くなかったら、それが自分の中に『無いのでは?』とは思わないと思うわけですね。

    おそらく、Takeoさんの中で、「社会に適応した人間」と「人間らしい人間」のイメージがけ離れていて、Takeoさんが『自分ではない』と思うのは「社会に適応した人間」の方で、それが、あまりにも、ちまたに溢れているから、『自分は人間ではない』と言いたくなるんだと思いますよ。
    (目・頭脳・心などについても、社会とTakeoさんの間に「ズレ」があるような気がします)


    ぼくは、「社会に適応した人間」=「ちまたに溢れている人々」を『人間ではない』とは思いません。
    それとは逆に、『人間がその程度の者なんだ』と思っています。
    それを『人間は人間未満』と言っています。

    だから、自分も「その程度の者」だと思っています。
    (ただ、自分のことを「その程度の者」だと思っていない、あるいは、そこに疑問すらも感じていない人、つまり「自分がすでに人間以上」だと思っている人が、あまりにも多いということには、嫌気がさしてきますけど)


    つまり、人間自身が作り出した「人間」という偶像が、やや立派過ぎて人間自身が置いてきぼりに成っていると思うわけです。
    だから、そういう「立派な人間」であろうとすると、いつも背伸びしていないとならないし、常に、人と勝負していないとならないし、負けたくなければ、かなりなところまで卑怯な手段も使わないとならなくなってしまうんでしょう。

    そして、そういう卑劣な手段を使う人は必ず出てきますから、「卑劣な人間」だけが「社会に適応する人間」に成るというわけです。

    結果的に、そういう「卑怯さ」や「姑息さ」や「嘘」を排除していくと、「社会」からは、どんどん隔絶していきますし、どんどん生きにくく成って行きます。
    次の記事の、ホームレスたちのように見栄やプライドを捨てて生きているのが、むしろ「本当の人間の姿」に近いような気がします。

    ただ、そこに本来あるべき「中間」がありません。

    「ホームレス生活」か「卑劣な生き方」か、の二者択一を迫られてしまうのが、現在の社会です。
    ほとんどの人が「卑劣な生き方」を選択するのは、むしろ当然のことだと思います。

    そこで、「卑劣な生き方を選んだ自分」を、いろいろなゴタクを並べて自己正当化すればいいだけですから。
    そのためのゴタクは「親」や「社会」や「学校」でも、たくさん教えられていますから。
    そういうモノを習得してきた人たちにとっては、難しいことではないでしょう。
    そうすれば、文明的で清潔で近代的な生活が出来る仕組みが整っています。
    ただ、残念ながら「幸福」だけは手に入りませんけどね。

    でも、ぼくには、自分に、それを責める権利があるとは思えないんですよね。
    (まぁ、そうは言っても、けっこう責めますけど)

    だから、自分も含めて、『すべての人が人間未満』という考え方をしています。
    (自分も、嘘もつくし、卑怯なことをすることもよくあるので)

    そんな中で、ぼくにできることと言えば、「中間に留まること」ぐらいです。

    たぶん、どっちかに行ってしまうと、少し楽になります。
    (不謹慎な言い方ですが、ホームレスの人が幸せそうに見える時があります)

    もちろん、「卑劣な生き方」は、もっと楽です。
    「幸福」さえあきらめればいいわけですから。

    一見すると、「社会に適応している人達」は幸福に見えることがありますが、それは「物質的な幸福」です。
    しかし、「幸福」自体が精神的なものなので、「物質的な幸福感」がもたらす「精神的な幸福感」は、ごくわずかで、あまりにも少ないので、ほとんど感じられないということですね。

    おそらく、Takeoさんが言っているところの「全き抱擁」というのが「精神的な幸福」の最たるものだと思います。
    ただ、それは、ぼくの考えるところでは、一方的に「与えられるもの」ではなく、「求めあうもの」だと思っています。

    「与える」という行為は、「犠牲」です。
    それは、人間の行いの中で、「もっとも美しい行為」であり、また、「唯一の美しい行為」でもあると思いますが、残念ながら「一方的な行為」でもあります。

    一方的な行為や一方的な力の流れには、「相乗効果」が生まれることはありません。
    単独の行為としては、もっとも美しいのに、「精神的な幸福感」としては、「並み」に成ってしまう場合が多いと思います。
    「物質的な幸福」よりは、少しいいかもしれませんが、「相互作用」が生まれることで「精神的な幸福感」が、無限大に成ります。

    ぼくは、そういう精神状態のことを「感動」というのだと思っています。
    そして、「感動」とは「求めあうこと」でしか生まれないと思っているんですねぇ。

    「求める」という行為は、それ自体、さほど美しくはありませんが、「求めあう」という「相互作用」に成ることが出来ます。
    「与えあう」だと、どっち側も受け取る側でもありますから、与えたことが相殺されてしまうんですね。

    でも、「求めあう」ことは可能ですし、「求めあう」ことによって「抱擁」も生まれます。
    ただし、双方が、本当に心底から希求していないと、必ずどちらかの流れが徐々に強く成って行って、いつの間にか一方的な流れが出来上がってしまいます。
    つまり、いつの間にか「一方的に与える」に成ってしまうわけです。
    おそらく、そういう時に、「離別」が起きます。

    もう、そこに「幸福感」がなくなってしまいますから。

    長いわりに取り留めない話ですが、
    最後に『O.V.ライト、最高!ニッケル&ネイルも最高!!』
    ですよね。

    ちなみに、ぼくは、この曲のイントロの入りの部分で、いつも『???』と思ってしまうんですが、なんであの音なんでしょうね?
    何百回も何千回も聞いている曲ですが、今でも『?』は消えません。
    でも、いま、あの音が入らなかったらと思うと、『有り得ないだろ!それ』と思うんでしょうね。きっと。

    では、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      今回は嘗てないほどの長文ですね。

      実は上のホームレスの記事も含めて、なんだか自分ではあまり満足のいく投稿ではないと感じています。
      人が読んでどう思うかではなく、自分自身で納得のいく文章が書けてないと思うのです。
      あくまでも規準は自分にとってどうか?ということです。



      わたしは本文中にこう書いています

      「いつも思うのは、藁でできた案山子が欲しがった「頭脳」(脳みそ)を、
      ブリキ男が求めていた「心」(ハート)を、
      臆病ライオンが求めていた「勇気」を持った人間とは、具体的にはどのような人物なのか?」

      これはそもそも、わたしは「あるべき」または自分がこうありたいという人間像を持っているのか?ということです。
      「あのひと(たち)」が持っているものを「わたしは持っていない(と感じている)」というのなら、わかりやすい。
      けれども、「じゃあ、いったいあなたが持っていないと騒いでいるものを持っている人ってどこのだれですか?」と訊かれると、答えることができません。

      映画の中には、ケーリー・グラントやグレゴリー・ペック、あるいはバート・ランカスターやフレッド・アステアなど、「知性とやさしさとユーモアのセンスとエレガンス」を備えたスターたちがいます。
      けれどもわたしのロールモデルは彼らではない。

      ふたつさんも含め、多くの人は、青少年時代、「あんな大人になりたいな」というお手本を身近に持っていたでしょうか?
      そう「身近に」。

      わたしは30代頃から明らかに、日本人を「反面教師」として生きてきました。
      「こんな風になりたい」というような大人とはついに巡り合えず、「ああはなりたくないな」というような大人たちに囲まれて40代、50代を迎えました。



      この投稿で、納得がいかない、失敗だと思うのは、わたしは「世の中の人たち」をいったい、「人間」と見做しているのか?いやいやそうではないと言いたいのかがよくわからないという点です。

      あるところでは

      「3人は「彼らのようになりたい」と願ったのだろうか?わたしが日々目にしている虚ろな目をした、どう見ても彼ら3人が望むものを持っているとは思えない者たちのように?」

      といったかと思うと、別の個所では、

      「世の人は、いつ、どこで、どのようにして「人間」になったのか?オズの国の三人組が、またフランケンシュタイン博士によって創り出された怪物が、そうなりたいと願った「人間」に。また自分が他ならぬ「人間」という生き物であるという自覚 ──「自信」「自己肯定」を、どのようにして手に入れたのか?」

      と書いている。明らかに矛盾している。
      「彼ら」はあなたにとって、「人間」なのか?それとも、そうではないと言いたいのか?と読者は戸惑うでしょう。



      「自分自身が作り上げた「人間」という偶像」というのは上手い表現ですね。
      「人間は人間未満」というのも同感です。

      これは自分でもはっきりしないのですが、世の中に自分とは異質の人間ばかりがあふれているから、「自分は人間ではない」と思っているのか?
      ちょっと違う気がします。
      他の99人或いは999人と、ひとりだけ違っているから、わたしは人間ではないという「比較の結果」ではなく、わたしの空洞感または劣等感は、比較対象の存在しない、「誰に比べて」「誰それと違って」・・・というものが存在しない、全く「自己完結している劣等感であり、空洞感」のような気がするのです。

      仮に比較対象があるとすれば、それはふたつさんの言われた「人間」という「イデア」なのでしょうか?(これもはっきりわかりません)



      >「ホームレス生活」か「卑劣な生き方」か、の二者択一を迫られてしまうのが、現在の社会です。
      ほとんどの人が「卑劣な生き方」を選択するのは、むしろ当然のことだと思います。

      ええ、そうでしょうね。「一億総中流」と言われて、国民総生産(GDP)と各世帯当たりの所得の格差がそれほど開いていなかった時代が嘗てありました。

      その後バブル崩壊以降、日本は物心共に貧しさの坂道を転がり落ちて行きます。
      今は、働いて体を壊すか、うつ病になるか?それとも仕事を辞めてホームレスになるか?というのが、格別大袈裟でも誇張でもなく、現実のこととして、ひたひたと波のように足元に打ち寄せている時代だと思います。

      「幸福」については、ふたつさんとは意見が分かれるようです。
      わたしは「馬鹿は幸せ」だと思っています。それはわたし特有の偏った見方だと思われるかもしれません。馬鹿にも馬鹿なりに悩みがあるのかも?
      でもわたしにはそうは思えないというのが本音です。

      (言うまでもないことですが、「馬鹿」とわたしが言っているのが、所謂「社会的弱者の対極にいる人たち」を意味することは既にお分りだと思います)

      「馬鹿」は「強い確信」と「すさまじい自己肯定感」を持っている人たちです。故に「自分を疑う」ことは不可能です。
      その自信と、すさまじい自己肯定が、自己懐疑を、内省を阻害するからです。



      わたしの思い描く「全き抱擁」は、言葉を換えれば「無条件の愛」「無償の愛」です。
      つまり空の器に水を注ぐ行為に似ています。
      一方で「求めあう」というのは極めて人間的な行為のように見えます。

      「全き抱擁」は時空を超えた抱擁であって、「破綻」を予感させるものはわたしにとっては「全き」にはならないのです。
      それは永遠不変でなければならない。

      ところが人間同士でそのような永遠に不変な抱擁を求めることはできない。
      それは信仰であり宗教ー神の領域です。

      ふたつさんの言われる「至上の愛」は、「人間の愛」で、わたしのいうそれは「神の愛」なのでしょう。

      わたしは決して、人間の愛が神の愛に劣ると言っているのではありません。
      ただ、「全き」とは「完璧な」という意味ですから、人間に「全き抱擁」を求めることはできません。すべての人間は不完全であり、またそれゆえに人間なのです。

      わたしは決して「人間存在」の上に「神」を置いているのではありません。
      寧ろ人間は不完全で弱く、汚れっぽい存在であるがゆえに、屡々完全な神よりも崇高に思えるのです。

      人間を器に譬えるなら、疵のない器も、漏れない器も存在しません。
      そしてその「疵」こそが人間の尊厳であり、人間を人間たらしめているものだと思います。

      わたしが「全き抱擁」という言葉に、そのような状態に、何を見ているのか?何を渇望しているのか?それは自分でも不明です。

      最後に上のニッケル&ネイルの記事ですが、なんだか、ホームレスや破産者を、その苦しみも知らずに、軽薄に美化しているようでうすっぱらな記事だという気持ちが拭えません。

      例えば底彦さんが上の投稿を読んでどんな気持ちがするだろうと思うと恥ずかしくてなりません。O.V.ライトを投稿したいがために、軽薄極まりない記事を書いてしまいました。

      不快な思いをされた方に、この場を借りて、深くお詫びします。

      ふたつさん、コメントをどうもありがとうございました。
      (「全き抱擁」については非常に考えさせられる契機になりました)









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    2. 追伸

      >でも、ぼくには、自分に、それを責める権利があるとは思えないんですよね。
      (まぁ、そうは言っても、けっこう責めますけど)

      >自分も含めて、『すべての人が人間未満』という考え方をしています。
      (自分も、嘘もつくし、卑怯なことをすることもよくあるので)

      ここはわたしとふたつさんの考え方、というよりも性質の違いをよく表していますね。ふたつさんは自分だって、人のことをとやかく言える人間じゃないんだよと、極めてソフトで謙虚です。

      しかしわたしには明らかな「敵」がいます。自分とは完全に異質の「敵」が。
      だからとてもふたつさんのように寛容に、鷹揚にはなれないのです。

      前から言っているように、わたしはテロル=「暗殺」を肯定する者です。
      つまり殺してもいい人間が存在すると思っています。

      全ての革命はその延長線上にあります。

      このことは断言できますが、わたしのこのような考えを、危険分子だ、歪んだ思想だと言える人間は決して多くはないはずです。

      ただ刃が強者に向かっているか、弱者に向かっているかの違いです。

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    3. こんにちは。

      まず、底彦さんに対してですが、実はぼくも底彦さんに悪いことをしたような気がしていて、2~3週間前に書いたコメントで、きっと底彦さんに余計なプレッシャーを与えてしまったと思っているので、ここでお詫びしておきます。
      もう少し、配慮して言葉を選べばよかったと思っています。
      ごめんなさい。
      (もし、違ったら、無視してください)
      (もし、そうだった場合も、無視してください)

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      つぎに、『馬鹿は幸せか?』ということですが、ぼくは『馬鹿が幸せかどうか?』というよりも、「幸せの種類」があると思っているんです。
      そして、「馬鹿の幸せ」を「幸せ」の中では、かなり「小さい幸せ」だと思っているということですね。
      (どちらかといえば、「量」より「質」の問題だとは思いますが)

      だから、馬鹿をうらやましいとも思いませんし、馬鹿に成りたいとも思いませんし、それと同じように、馬鹿に対して怒りもそれほど沸いては来ません。
      たぶん、自分が「馬鹿」に成ったら、「その幸せ」に満足しないと思いますから。

      反面、Takeoさんは、『自分に幸せはない』というかも知れませんが、ぼくは、もしかしたら、Takeoさんの人生の中にも満足できる幸せを見つけ出してしまうかも知れません。

      というよりも、「馬鹿の幸せ」と「Takeoさんの不幸」のどちらを選ぶか?と言われたら、「Takeoさんの不幸」を選ぶだろうということですね。
      (まぁ、架空の話ですけど)

      それから、人間の場合、「知能(単純にいうところの頭脳の能力です)」は、余っていると思っています。
      だから、「馬鹿。(Takeoさんの言うところの)」でも十分に「知能」は足りていると思います。

      むしろ、「自分で思考する」という態度を持っている人と、そうでない人が居るという捉え方をしていますね。

      たとえば、「重度の知的障害」や「重度の脳障害」などがある人は別かも知れませんが、それ以外のケースでは、人間の場合「知能」は、常に余っていると思います。
      つまり、「知能」が多すぎるくらいだと思うんですね。

      どりらかというと、「知能」を捨てられる人が、賢い人なのかもしれません。

      これは、「知識」についても、言えることですが、「思考」についても言えていて、「思考する」ということと、「思考をため込んでいくこと」は違うと思います。
      この「ため込まれた思考」が「思考の迷宮」を創り出します。

      たとえば、近代以降の哲学などは、ほとんど「思考の迷宮」だと思います。
      そして、いったん「思考の迷宮」が形成されると、必ずだれからも見えない「隠し部屋」のような部分が、その「迷宮」の中に組み込まれてしまうので、その「隠し部屋」については、だれにも理解できませんし、それどころか、その哲学思想の探究者本人にも、そこだけは見えなくなってしまうので、ほとんど「迷宮」から逃れることはできなくなってしまうんだと思います。

      この「思考の迷宮」を、うまく作り上げた人が、偉大な哲学者と言われています。

      その結果、「最も単純なことを最も複雑に説明するための学問」となってしまったのが、近代以降の哲学の実体だと思うわけです。

      そして、それを盲目的に「学習」させられて、それを盲目的に「覚えたこと」を哲学と思っている人が、とても多いような気がしますね。

      ぼくは、「記憶」と「思考」は、かなり違う作業だと思っています。
      だから、「覚えること」と「考えること」は、ほぼ無関係だと思います。
      これを、『記憶とは、頭脳による肉体労働である』と言っています。

      実際には、哲学はギリシャ哲学までで十分だし、それ以降の哲学が何かの役に立つことはないし、それ以降の哲学は、その思想を創り出した人にとってだけ意味のあるものであって、ほかの人がそれを研究したり学んだりすることには、大きな意味がなくなってしまったんだと思いますよ。

      だから、もしも、今、哲学をやりたいなら、どんなに単純な思想でもいいから、自分の実体験に基づいた思想を創り出して、それを信念をもって厳として実行し続けることしかないと思いますね。
      (これ、Takeoさんじゃないですか?)

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      次に、「全き抱擁」ですが、ぼくが言った「一方的に与えること=犠牲」こそが、まさに、「神の愛」と言えるものです。

      しかし、現在「神」は、もはや、その「神聖」を失ってしまっています。

      これは、必ずしも「宗教」や「神」を否定しようという話ではありません。
      しかし、大昔の時代に、「神」に「絶対的な神聖」があったころまでは、「神への生贄」が成り立っていました。
      現在、その「絶対的な神聖」は失われたというのは、確かなことだと思います。
      カルト的な盲信において、「生贄」が行われたとしても、もうそこには「神の威厳」は存在しません。
      そこにあるのは、「教祖の俗性」のみですから。

      そして、実は、現在明らかになってきた「神の本質」とは、それこそが、まさに「人間自身が作り上げた人間という偶像」、つまり、「理想化された人間像の代替物」としての「神」ということなんだと思います。

      だから、結果的に「神の愛」も、また、「人間の愛」に他ならないわけで、もしも、「それを超える愛」を求めるのならば、スピリチュアルの人たちが言っているところの、非二元論(世の中のすべてが、ただ一つの絶対的な原理に基づいて動いているというような理論)的な「絶対性」や「普遍性」に行きつくことに成ると思いますが、
      それは、すでに完璧に与えられているということに成っているという前提に成りますから、求める必要も、改めて受け取る必要もないということに成ってしまうわけです。
      非二元論においては、おそらく、世界のすべての時間と空間が、すでに、そして、常に、完全な愛に満たされている状態であるという考え方だと思います。
      これは、間違ってはいないのかもしれませんが、人間にとっては、あまり役に立ちません。
      なぜなら、今のままで十分でしょ?という話ですから。
      サルから進化したわれわれは『その通りでございます』というしかないので。

      そんなわけで、ぼくとしては、「人間の愛」で十分じゃないか?と思っています。

      ただ、そこに「相互作用」から生まれる「相乗効果」があれば、「その愛」は『もしかしたら、無限になるかな?』と思っているということですね。

      「テロ」については、ぼくも「テロリスト・オブ・アート」を名乗っていますので、一家言あるので、また、次に書きますね。

      それでは、また。

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    4. こんばんは。

      そうですか。わたしはお二人のやり取りを読んでいましたが、特にふたつさんの発言でひっかかるところはありませんでした。(底彦さんの状態は)おそらくこの天候の影響だと思います。
      わたしも1993年、「夏が無かった年」には本当に気が滅入って仕方ありませんでした。

      現時点での底彦さんの最後の投稿「引きこもりたい」。数行の書きこみですが、その気持ち本当によくわかります。「生きてゆくことがあまりにも難しすぎる」というようなことだったと記憶していますが、わたしもまったく同じことを感じます。

      底彦さんの苦しみや悩みとわたしのそれとは、質的にも量的にもだいぶ異なりますが、「この世界で生きてゆくことの困難さ」という点に於いては、わたしは彼の呻きに完全に同調します。



      「幸福」ということに関しては、わたしは何もいう言葉を持っていないような気がしています。つまり「幸福とは何か?」がわからないのです。

      例えば、一流企業に勤めて、綺麗な女性と結婚して、優秀な子供たちを持って、孫が生まれて・・・こういうのを「幸福」と呼ぶのか?だとしたらわたしはこういう幸福にはなんの魅力も感じません。

      もちろん「幸福」という決まったかたち、在り方があるわけではなく、何を幸福と呼ぶかは人それぞれですが、わたしにとっての「幸福」ってなにか?と訊かれても、「わからない・・・」としか答えようがありません。ただ、クリエイティヴな才能があればいいと思いますけどね。
      「才能」と呼べなくても、なにか夢中になれるものがあればそれも幸福かもしれません。



      わたしは人間の価値を、その人の抱えた悲しみや苦しみ、苦悩の重さで量るところがあるので、「思考の迷宮」を必ずしも否定はしません。わたしにとって「考えること」と「悩むこと」は、多分、同じです。ですから、思考の迷宮で迷っている人、出口を求めて彷徨っている人は「考える人」という点で価値があり、逆に、言葉や概念を機械的に、器用に取り捌いて、決して迷宮なんぞとは縁がないような人を「考える人」とは思わないのです。

      カントがイエナ大学で学生たちに向かって言った有名な言葉、
      「諸君はここで「哲学を学ぶ」のではなく「哲学すること」を学ばなければならない」
      その通りだと思います。人間誰にも哲学は必要です。哲学を持つから人間だともいえるのです。そしてたとえ文字が読めなくても「哲学」を持っている人はいるし、
      東大卒の馬鹿も山ほどいます。
      そしてそれはいつも言っているように、持って生まれたセンスに還元されると思っています。

      「哲学」って基本的に「その人のもの」だと思います。わたしの哲学があり、ふたつさんの哲学があり、底彦さんの人生観がある。言い換えれば、わたしは学問としての哲学には興味はないということです。

      >『記憶とは、頭脳による肉体労働である』

      これは笑いました!



      他ならぬこの「わたし」の欠乏を充たしうるのは人間の愛なのか神の愛なのか。
      「全き抱擁」というのは、一種の神秘的体験であって、現実の人間にはほぼ起こり得ないことです。ですから人間は人間の愛によって充たされるしかない。しかし人間存在そのものが不完全である以上「完全なる抱擁」は永遠ではありません。
      そこに亀裂が入った時に、じゃあどうするのか?という極めて卑俗な問題です。

      わたしが女から女へと渡り歩けるようなプレイボーイなら問題はありませんが(笑)
      つまり「エロス」は「束の間の全き抱擁」足り得る可能性を持っているからです。


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    5. 追伸

      「哲学」とはわたしにとっては「否定的思惟」なのです。「思惟」ではなく、「否定的思惟」つまり「きれいは汚い 汚いはきれい」的思考です。

      世の大多数が(内面化された社会通念に従って)否定的に捉えることを、如何にして本質論的に捉え直すことができるか?
      ということです。わたしが尚「エロ・グロ」に拘るのもそれに通じています。
      醜いとされているモノにどこまで「美」を見出すことができるか?
      それは「悪」「とされている」事柄の本質にどこまで近づくことができるかと同じです。100人中99人が認めないというものには、とりあえず「何故?」と問いたい。
      何故ならわたしにとって(「戦争」と「自然破壊」を除いて)「自明の悪」というものは存在しないから。

      少なくとも体制を補強したり、追認したりする位置には立ちたくはないし、そもそもそれは単なる曲学阿世の徒であって、お世辞にも考える者とは呼べません。



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