2019年7月17日

ペシミストの公式



あるいは多くのひとはこう考えるかもしれない・・・

😩+?=😃

わたしがいつも考えているのは


😃-?=😩

或いは

😃+?=😩

一見どれも同じに見えるかもしれない。でも一番上の式では、
どうすれば笑顔になれるか?が問われている。
それに対してわたしは、何が欠けているから、或いはなにが在るから笑顔になれないのか?と考えている。決定的な違いは、笑顔という結果を求めるのではなく、
なにが悲しさの、厭世観の源であるかを追求しているということだ。







4 件のコメント:

  1. こんばんは。

    この文章によると、Takeoさんは、悲しさや厭世観の源を突き止めようとしているということに成りますが、もしも、万が一それが突き止められたら、Takeoさんはどうすると思いますか?

    それを突き止めて、その源になっていることを排除すれば、「笑顔」に成れるでしょうし、あえて、排除しなければ、今までどうりということに成ります。

    もしかしたら、Takeoさんは、今まで以上にその「源」を、増幅するかもしれません。


    そこで、自らが望んで排除しない、あるいは、増幅しているものを「悲しみ」というのだろうか?という疑問が出てきます。

    もしかしたら、それ以前に、排除したり増幅したりできないような問題なのかもしれませんが(こういう場合、たいてい出来ないですよね)、もしも、それが出来ないということがすでにわかっているとしたら、その「源」がすでに突き止められているということに成ってしまします。

    もしも、望んでやっているとすれば、それは「好き」か「嫌い」か、ということで言えば、どうしても「好き」に分類せざるを得なくなってしまいます。

    いや、もちろん、そういうことを批判しているわけではないですよ。
    そういう判断を悪いとは思いません。

    ただ、そういう精神の流れの中では、「笑顔」と「悲しみ」という二極的な公式は、当てはまらないような気がします。

    おそらく、Takeoさんの心の中は、もっと混沌としているんじゃないでしょうか?

    それでは、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      顔文字であっても、もう「式」になると苦手です(苦笑)
      一番上の顔文字の式はオーファンがフォローしているセクシャルマイノリティーのページに投稿されていました。その下に解説が書かれていましたが、フランス語なので当然読めません。

      ただ、一般的に人は、「幸せになるためには何が必要なのだろう?」と考えるような気がします。それは物質的なものかもしれないし、「愛」や「友情」といった人間関係かもしれない。

      一方で、わたしは、「何がないから」幸せを感じられないのか?
      或いは「何があるから」笑顔になれないのか?という考え方(思考方法)をしているように感じました。

      そして、その「何があるから」は、例えば「スマホ」だったり、「デジタル社会」であったり。それは個人の力ではどうしようもないことです。
      同じように「無い物」とは、喪われた風景であったり、「過去」といわれるものかもしれない。

      この「欠けているもの」「過剰なもの」はわたしのブログの読者であれば容易に察しが付くものです。そしてそれは誰も変えることはできないことも。



      わたしにはそもそも一番上の式は、どうやっても当てはまることはないのではないかと思うのです。ただ、案外多くの人はこの最初の式に囚われている・・・というか、この式自体を疑うということはないのではないかと思うのです。

      もちろん世界が、或いは時間が可逆的なものであれば、「?」の部分に「過去」と入れればわたしはハッピーになれるかもしれない。仮に幸せではなくとも、不幸の質が現代のそれとは異なります。

      また一方で、不幸の源は一にも二にも現代の文明であるということではなく、
      もっと個人的なレベルで、何故わたしは「愛されざる者」であるのか?
      何が欠けているがゆえに、或いは何を持つが故に「愛されざる者」であるのか?と考えます。

      それはもうノヴァリスの言葉のように「運命」以外のなにものでもないのか?
      「独特の認識の化け物」であることは甘んじて、いや、むしろ誇りを持って受け入れますが、それはやはり「孤立」とは不可分なのか?

      >おそらく、Takeoさんの心の中は、もっと混沌としているんじゃないでしょうか?

      仰る通りです。「性格とは運命である」と嘆く以前に、じゃあ、変えられるものなら変えたいのか?と問われた時にわたしは何と答えればいいのかわかりません。

      何も足さず、何も引くことなく「わたし」がありのままの「わたし」であることで幸せになるということはそもそも不可能なことなのか?言い換えれば、「幸せになるための努力」なしに幸福になるということは、あってはならないことなのか?

      確かに「混沌としている」としか表現のしようがありません。

      自分でも気分で書いたところがあって、言いたいことが絞り切れていない嫌いがあると思います。




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  2. こんにちは、Blueさん。
    おもしろい考察だと思います。


    「これが足りないから↓↓」というのであれば、まだ多少「解決」が近いと思います。わたしの場合、○○が足りなくて?淋しくて?夜眠れないときは抱き枕や赤ん坊のおしゃぶりやアイマスクや耳栓を使う(足す)ことで何とかなってますし、○○が足りなくて退屈してしまうときは本を読んだり映画を観たり自転車で遠出したりして、何とか足りない○○を埋めることができています。

    一方「これが過剰に溢れているから↓↓」というのは難しいですね。目をつぶっても耳を塞いでもそれは入ってくるのだし、とにかくそれを避けることに疲れてしまうのだから。そうしてエネルギーを使い果たしてしまい、ハッピーになるための○○を手に入れようとする積極性や能動性や体力や気力が残っていないのが現状です。でもわたしはハッピーになりたいという淡くて儚い希望だけはまだ少しだけ残っていて、せめて早寝早起きして適度に運動して決まった時間に仕事に行くようにしています。今のところそれでいっぱいいっぱいですが。

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    1. こんばんは、瀬里香さん。

      へえ、おしゃぶりか。それもいいアイデアだけど、ぼくはやっぱり本物の方が(笑)

      >○○が足りなくて退屈してしまうときは本を読んだり映画を観たり自転車で遠出したりして、

      こういう言い方が適切かどうかわからないけど、わたしは、或いは底彦さんなどには、その本を読んだり映画を観ると言うこと自体が重労働なのです。しんどいのです。めんどくさいのです。億劫なんです。集中できないのです。すぐ疲れてしまうのです。

      わたしは到底ハッピーにはなれないと思っています。
      わたしには家族がいます。
      わたしは家族に不幸にされ、
      家族を不幸にしながら生きています。
      不幸にされることは不幸です。
      不幸にすることもまた不幸です。
      そしてわたしは家族から離れて、瀬里香さんのように生きてゆくことはできません。

      瀬里香さんが少しでも幸せだと思える時間を多く持てるように。


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