2019年7月28日

それぞれの罪 それぞれの殺人


この先わたしが(家族を含め)誰かを殺すことはないとは決して言えない。

わたしは親にならなかったことで、ひとりの人間を殺すことから免れた。

わたしは母に対し、生まれてきたという大罪を犯した。

わたしの父は、わたしと弟の父親になるという大罪を犯した。

わたしは生まれてきたことで、母を殺した。

父は親となることで、わたしと、弟を殺した。

わたしは生まれてきたことで自らを殺した。


我々には悲劇的な結末しか待っていない。








8 件のコメント:

  1. こんばんは。

    ぼくは、Takeoさんが、人を殺すことは『絶対にない!』とは言えませんが、『ほとんど、無い』と思いますよ。

    だって、Takeoさんは、その前に自分を殺してしまうでしょ?

    Takeoさんは、自殺するときにほかの人を殺してから死ぬ自分を美化できないような気がしますよ。

    これは、「出来ない人」と「出来る人」が居ると思うんですよね。
    Takeoさんは、いくらやりたいと思っても「出来る人」ではないと思います。

    まぁ、要するに「優しすぎる」んだと思いますね。
    Takeoさんは、ご自分では認めないかもしれませんけど、「優しすぎる」んです。
    だから、たぶん、出来ません。

    ちなみに、ぼくも出来ません。
    (あぁ、たぶん)

    それでは、また。

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    1. 唐突ですがふたつさんは、所謂「いいところが何ひとつない」人間って当然いると思いますか?
      わたしたちはいつ、何故?「誰でも何かしら取り柄がある」という「嘘」を刷り込まれたのでしょうか?

      わたしは身を以て、いいところのない人間は存在することを知っています。自分を見ればそんなことはすぐわかります。

      わたしが人を殺すのもまた自殺をするのも、決して計画を立てて行うということはないでしょう。
      わたしはとても衝動的な人間です。自分で自分を完全に・・・というのは誰でも無理でしょうが、7割方は制御できるという人とは違います。
      ほんとうに逆上したら何をするかわからない人間です。

      例えば暑くて暑くてクタクタになって道を歩いている時、スマホバカがぶつかってきて、向こうが「チッ!」などといおうものなら、わたしはその瞬間自分の意識を失うでしょう。地球上に住むすべての不幸な人の怒り憎悪を一身に吸収して、相手が血まみれになってぐったりするまで、地面に叩き付けるかもしれません。

      そのような性格をわたしが持っていると言い言うことは、母にも主治医にも伝えてあります。

      つまりふたつさんの言われるわたしの性格や特徴など全く関係ないのです。
      その時わたしはわたしではないのですから。

      わたしは自分が容易に憎しみの塊になり得るということを感じています。

      そしてわたしが韓国人を評価するのは、受けた屈辱を決して忘れないという点です。

      そのことについては、どこかで、「オバマの広島訪問の茶番」についても書いています。

      有体に言えば、広島の人も沖縄の人も、韓国人に比べるとダメだなあ・・・という思いがあります。

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    2. こんにちは。

      仰ることは、よくわかりますよ。

      そして、もしも、ご気分を害されたのなら、申し訳ないとは思いますが、ぼくから見たときのTakeoさんが、そう見えたということを言っただけなので、Takeoさんがそういう人だと決めつけているわけではありません。

      でも、やっぱり、どうしても、Takeoさんを「冷たい人」だとは思えません。
      ぼくは、人を殺すのは「怒り」や「衝動」ではなく、「冷たさ」だと思っています。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      確かに、「取り柄のない人」がいるか?と聞かれれば、答えに窮することに成りますが、逆に、「取り柄のある人」とは、どんな人なのか?と聞かれても答えられないのは同じですから、その質問の意味は、消えてしまいます。

      けっきょく、「取り柄」と言っているものは、「世間的な評価」にすぎないと思いますよ。
      というか、「世間的に評価されていないもの」を「取り柄」と言ってしまえば、「取り柄」の意味が消えてしまいます。

      たとえば、一般的には「悪事」を「取り柄」とは言いませんが、暴力団に入ればそれも「取り柄」です。
      なぜなら、そこでは、それが評価されますから。


      それから、『いつ人を殺してしまうかわからない』これは、誰にでもいえることかもしれません。
      ほかの人は、そうじゃないということも、また、出来ないと思います。

      もちろん『いつ自分を失って衝動的に行動してしまうかも知れない』これも同じです。
      (というか、こちらは、ほとんどの人がしょっちゅうやってます)

      そうなると、それは、ただ単に、自分が「そういう不完全な人間の中の一人」であると言ったことに成ってしまいませんか?

      そうだとすれば、『自分は人間ではない』ということとも矛盾してきます。

      これも、決して、批判とか否定しているんじゃないんですよ。

      ただ、「絶対にないこと」とか「絶対に〇〇であること」というのは、どんな場合でもいえないような気がするわけです。

      少なくとも、人間に関して、そういうことを言おうとすると、必ずどこかには無理が出てきてしまうんじゃないですか?


      もしも、Takeoさんが、あえて、それでも『自分は、絶対にそういう人間ではない』というのならば、それも、否定するつもりは毛頭ありませんが、ぼくは「絶対」という部分だけは違うと思います。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      ぼくは、なんでもそうですが『出来る』と言うときは、『実行してから言う』という考え方なんですよね。
      だから、「実行していないこと」は「自分にはできないこと」ということに成ってしまうんですね。
      これは、ただ単にぼくの考え方の習性みたいなものです。

      また、「衝動的にやること」は、Takeoさん自身も仰っているように、「Takeoさんがやること」とは違うことだと思います。
      あくまで、「意識してやること」こそが、「その人がやること」に成るんだと思います。

      ぼくは、「その人がやること」という前提で言いました。

      「その人の人格」とほとんど関係ない「別の人格」がやったことを、「その人のやったこと」にしてしまえば、こういう話はほとんど成り立たなくなってしまうんじゃないでしょうか?


      少なくとも、ぼくは、ぼくから見て、もっとわかりやすいくらいに衝動的で暴力的な人たちを、身近に知っていると思います。
      だから、そちらとの比較で、言ってしまっただけだと思います。


      ご気分害されましたなら、ごめんなさい。
      (なんか、いつも誤ってますね)

      では、また。


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    3. こんばんは、ふたつさん。

      世の中を見ていると、例えば、先日の川崎の、子供と大人を殺して本人も自殺した事件に対して、少数ではあっても「気の毒」という見方をする人がいます。
      しかし、10年前の秋葉原事件の時に比べて、「自分もいつ人を殺す側になるかわからない」という言葉=「怖れ」は今回は完全に影を潜めた様子です。

      これも繰り返し書いていますが、世の人たちは、何故、「自分は決して人を殺さない」と言えるのか、わたしには理解できません。
      それは単にわたしが狂人で、自分で自分をコントロールできず、善悪の判断を下す理性も持ち合わせていない特殊な人間だからなのでしょうか?



      >それは、ただ単に、自分が「そういう不完全な人間の中の一人」であると言ったことに成ってしまいませんか?

      いや、わたしにすれば、そもそも自分だけが極端に不完全というか、ほぼ完全にいかれている=壊れているとしか考えることができないのです。
      無論誰も完璧ではないにせよ、ほぼまともだし、正常だし、壊れてはいない。

      だとすれば、「わたしもその中の一員である」ということはできないのです。
      つまり
      >『自分は人間ではない』
      というわたしの言い分は必ずしも矛盾してはいないのではないか。

      ふたつさんも底彦さんも「不完全」です。しかしわたしをふたつさん、底彦さんと同列に扱うことはできないと思います。
      「不完全」であることと、「いかれている」こと「狂っていること」「化け物」であることとはやはり同じではないと思います。

      追伸

      今回のコメントでも気分を害したということはありません。
      いつもお気遣いをありがとうございます。

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    4. 追伸

      わたしは案外「凶悪殺人犯」になる資質というか素質を持っていると思います。
      わたしの文章をちゃんと読んで、反論する分には問題はありませんが、
      わたしは人から小馬鹿にされることには我慢がなりません。
      そういう輩には死を以て贖ってもらいたいと思います。

      母が、主治医が、誰だって他人を理解するのは容易ではないけれど、Takeoさんを理解するということは普通の人には不可能、という意味がお分かりかと思います。
      そしてそれは母や主治医はわたしを理解できているということではなく、障害者の親として、また主治医として、理解できないまま付き合っているということです。

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    5. こんにちは。

      まず、ご気分を害してはいないということを聞いて、少し気が楽になりました。

      まず、Takeoさんは、『自分は決して人を殺さない』と言える人は居ないとおっしゃっていますが、それなのに、ぼくや底彦さんを「人を殺さない人」だと言っているという気がします。
      「人を殺す可能性が低い」ならわかりますが、それは、ぼくや底彦さんが、死ぬまでに『きっと人を殺さないだろう』と言っているのと同じで、さらには、多くの人たちが、『きっと、自分は人を殺さないだろう』と思っているのとも同じです。

      Takeoさんの中にある「殺意」とほかの人の中にある「殺意」はどう違うと思いますか?

      ぼくは、そこに「冷たさがある殺意」と、「冷たさがない殺意」の違い位しか、その決定的な違いが思いつきません。

      ぼくの意見を言わせてもらえば、「冷たい殺意」を持てる人は、必ず、まず真っ先に「最も弱い奴」をもてあそぶように殺します。

      Takeoさんが、そういう人だとは思えませんよ。

      もちろん、法的な意味での「凶悪犯」や「大量殺人犯」が、そのまま「冷たい殺意」を持っているとは言い切れませんが、まぁ、ほとんどの場合はそうだと思います。

      少なくとも、ぼくが考えるところの「凶悪犯」とは「冷たい奴」ですね。
      だから、犯罪者でなくても「凶悪犯」はたくさんいらっしゃいます。
      むしろ、犯罪者はどこかに必ず正直なところがあるのかもしれません。
      だから、たいてい、捕まります。


      それから、前のコメントにも書きましたが、ぼくは、「やったことがないこと」を基本的に「自分にはできないこと」だと考える習性があります。
      だから、『今の時点まで、自分には人を殺せなかった』これだけがぼくにとっての事実なんですね。

      それから、ぼくは、インターネット上の文章をほとんど信用しない習性もあります。

      だから、もしかしたら、Takeoさんが、すでに人を殺したことがあるかもしれないとすら疑いますし、その逆に、まったくそんな気がないのに言っている可能性もあるとも疑います。
      それはどんな人でも同じで、たとえ、どんなにいい人ぶっている人(例えば、ぼく)が居ても、『この人ホントは嫌な奴だったりするんじゃないのか?』と、かなりのところまでは疑ってしまいます。


      まぁ、そんな感じですよ。

      でも、こういう話は楽しい(のかな?)と思います。

      では、また。


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    6. こんばんは。

      ここのところめっきり頭の働きが鈍くなっています。昨日の底彦さんのコメントへの返信も、なんだか全くピント外れのことばかり書いているように思えます。

      母に「馬鹿だから」といったら「馬鹿だからじゃなくて、馬鹿になったんでしょう」と言われました。

      そんなわけで、このコメントへの返事も、同様に大幅にピントのずれたものになると思いますが、「馬鹿になっちゃったんだから」と、大目に見て頂ければ幸いです。

      >Takeoさんは、『自分は決して人を殺さない』と言える人は居ないとおっしゃっていますが、

      いえ、そうはいっていないつもりです。何故世の人は、「自分は決して人を殺さない」と言ったり確信を持ったりできるのか?

      でもほんとうはそんなこと当たり前のことで、わたしの疑問自体がそもそも摩訶不思議な発想なのかもしれません。
      つまりわたしが「人間ではない」とすれば、おかしいのはわたしの方ということになります。
      本当は、「俺は、わたしは、絶対に人を殺さない」という発言は、人間界では全く当たり前の、何らおかしなところのないものなのかもしれません。

      そもそもわたしという「人間という生き物をよく知りもしない」「化け物」が、「あれが不思議」、「なぜこんな風に感じるのか?」「何故そんな風に言えるのか?」などと、疑問を連発すること自体が、そもそも成り立ちえないことなのかもしれません。

      だって、火星人が金星に来て、金星人の生活・文化・習慣・社会の仕組みに文句をつけても金星人としてはどうしようもありません。

      わたしの存在、わたしがこのブログに書いてきた一切のことは、この「火星人のイチャモン」に他ならないのではないか、そんな風に感じ始めています。

      わたしがふたつさんや底彦さんと同じ「人間」であるともないとも、誰も証明することはできません。つまり50%の確率で、わたしはみなさんとは本質的に根本的に根源的に違った存在であり得るのです。

      >ぼくは、インターネット上の文章をほとんど信用しない習性もあります。

      これはいいことだと思います。
      全くその通りで、現実にTakeoという人物が実在するという保証はどこにもないのですから。或いは、極めてスマートでクレバーな世渡り上手が、架空の精神障害者&引きこもりのTakeoという人物を創作して、その人物があたかも現実にいるかのようにブログをデッチ上げているのかもしれません。無論「彼」はこのブログをスマホで書いています。



      いまのわたしは、ふたつさんや底彦さんと、「同じ人間同士」という前提の下に話すことができません。

      ふたつさんも底彦さんも、わたしを変わってはいるけれども、とりあえず同じ人間と見做し、わたしも自分がお二人と同じ人間だという前提で話してきましたが、今、その前提自体を疑ってみなければならない時なのかもしれません。

      満足な返事ができず申し訳ありません。

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    7. 追伸

      Takeoさんが、「わたしや底彦さんは人間だけど」と仰るその根拠はなんですか?と反問されれば答えることができません。
      じつはふたつさんは水星人かもしれないし、底彦さんは他の銀河から来たのかもしれない。

      では、AとBが繋がるー話が通じる、気持ちが通い合うとはどういうことなのでしょう?何故そのようなことが起こり得るのでしょうか・・・

      この世界はわたしにはわからないことばかりです。


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