母が借りている武田泰淳の評論集『滅亡について』をパラパラめくっていたら面白い箇所に出会った。
小林秀雄氏の訳によると、『テスト氏』の中には、悪の問題についてわかりやすくふれている部分が少なくとも一箇所あります。テスト氏の夫人に向かって、夫人の敬愛する牧師が、テスト氏のひととなりを批評するくだりです。彼はテスト氏にくらべては鈍くても、なかなか頭の良い牧師であり、かつ牧師であることによって、我々知的弱者に親しい言葉を口走ります。
牧師の考えでは、テスト氏はまず「孤立と独特の認識の化け物」であります。そしてテスト氏の所有している倨傲が、彼をそんな不可解な物にしてしまったというのです。その倨傲は、実際の生きたもの、ただ現在生きているものばかりでなく、永遠に生きているものを悉く除き去ろうとするような倨傲だそうです。・・・・云々
これはフランスの文学者ポール・ヴァレリーの『テスト氏』について書かれたものだが、
わたしも大田区にいたころ、近くの馬込図書館からせっせとヴァレリー全集を借り出していた時期があった。同じような断章形式で書かれていても、わたしはシオランやニーチェよりも、ヴァレリーの方が好きかもしれない。
いずれにしてもこの「孤立と独特の認識の化物」という表現を見た瞬間、「あ、わたしのことだ」と思った。
無論この箇所が納められている「勧善懲悪について」という文章全体を読めば、泰淳の思い描くテスト氏と、単なる「孤立と認識の化物」であるわたしとの違いは一目瞭然だが、それにしてもこの形容は、まさにわたしだといって差し支えないだろう。
これは「事実」であって、わたしがこれを自分だという時、そこには一片の否定的なニュアンスも含まれてはいない。
『評論集 滅亡について 他三十篇』武田泰淳 岩波文庫(1992年)より
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