2019年7月27日

友とわたしー心の病と異形の者…


このブログに時折コメントをくれるネット上の友人が、久し振りにブログの更新をした。

ストップしていた期間の日記がまとめて投稿されたので、目を通してみる。
(尤も、定期的に更新されている時も、彼のブログはいつもまとめて読んでいるのだが)

数日前のカウンセラーとのやり取りが記録されている箇所があり、そこに、恒常的な不安感の根底に、「将来の自分がイメージできないことや, いつまで鬱に苦しめられるのかといった意識」があるのではないかという自分の気持ちを伝えたと記されていた。

この一行を読んで、わたしは「将来」とか「この先」とかいうことを昔から考えたことがないということを改めて思った。
意識的に将来のことを考えないようにしているわけではない。それは例えば「結婚」というようなことと同じで、結婚ができるーできないと言った「条件」のレベルではなく、学生時代から、「将来について」と同じように「結婚」について思いを巡らせた記憶がない。それはわたしにとっては、どこか遠い異国の文化習慣のようなもので、自分に関係のある事柄という気持ちがまるでなかった。当然「子供を持つ」という発想もない。

現在55歳、「条件が整えば」或いは「条件が整わなくても」「結婚できるならしたいですか?」と問われても答えは当然ながら「ノー」だ。女友達を持つことや恋愛はしてみたいと思うけれど、結婚は論外だ。

「あらゆる罪を犯してきた。父親になるという罪をのぞいて」
ー エミール・シオラン『生誕の災厄』

誰でもが親になる資質を備えているわけではない。
わたしは親になる資質を備えてはいない。

今でも結婚しなかったこと、親にならなかったことは正しい選択だったと確信を持って言うことができる。

さて、「将来」のことを考えたことがない代わりに、この世界から去ることは、むかしから、それこそ人が「将来」のことに思いを馳せるのと同じくらい考えてきた。
自分がこの世界の一員であるとは思えず、このおよそ下らない世界から退場することばかり考えるような人間がどうして「将来」のことなど気に掛けるだろう。



今日、一ヵ月ぶりに主治医の元を訪れた。いつもより長く(約30分ほど)話をした。
駅にも、電車内にも、相も変わらずスマホバカがい、街を歩けばアイドリングバカがいる。それでも外に出ることはさほど苦にはならなかった。
このままバカどもを無視できるようになればいいとは思うが、仮にスマホバカを無視できるようになろうと、わたしは「この先」のことは考えない。この世界はわたしの居場所ではないという想い・・・否、事実はいささかも変わることはない。

わたしなど比べ物にならないほどの苦痛を背負いながら、尚その苦しみの中から「将来」に目を向ける「彼」は、やはり「芯」の部分で「真っ当な人間」なのだろう。

最近わたしのキャッチコピーとなった「孤立と独特の認識の化け物」という言い方について、主治医は盛んに気を遣ってくれて、「「孤独」、「孤立」、そして「独特の認識」というのは確かに合ってますけど、「バケモノ」じゃないですよ」と言ってくれた。
けれども、わたしは「化け物」でなければならないし、「化け物」でありたいのだ。
「テスト氏」を評して「孤立と独特の認識の人」と牧師が言っていたならば、わたしはきっとこの言葉に目を止めることはなかっただろう。

わたしはこの「化け物」という言葉を肯定的・・・というよりも、もっと特権的な意味を込めて用いている。
そこには到底凡百の人間に理解できるはずがないという自負があり矜持が秘められている。
彼らは所詮隣の人が理解できることしか理解できないのだから。

ー そう、わたしは 'Boy Next Door'ではない。










3 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    「孤立と独特の認識の化け物」という言葉は非常に強いと感じます. この言葉について, 自分なりに考えることがあったので書いてみます.

    最初に自分のことを書きますが, 私は自分の将来を考えようとしても見えない状態にある, と言えるかと思います.
    それは現在の自分が余りに不安定で, 感情にも乏しく, 自己の存在が消えてしまいそうな不安に支配されていることと繋がっています. それが恐ろしくて自分の何処かに未来への可能性を探すのです.
    けれども何も見つかりません. 自信の無さや自己否定, 自己嫌悪に阻まれて, ほとんど現在のこの瞬間を見ることしかできません.
    自分は余りにも弱く脆く, それが精一杯なのです.

    Takeo さんは私の持つこのような「将来の自分がイメージできないことや, いつまで鬱に苦しめられるのかといった意識」に対して,

    > この一行を読んで、わたしは「将来」とか「この先」とかいうことを昔から考えたことがないということを改めて思った。
    > 意識的に将来のことを考えないようにしているわけではない。それは例えば「結婚」というようなことと同じで、結婚ができるーできないと言った「条件」のレベルではなく、学生時代から、「将来について」と同じように「結婚」について思いを巡らせた記憶がない。それはわたしにとっては、どこか遠い異国の文化習慣のようなもので、自分に関係のある事柄という気持ちがまるでなかった。当然「子供を持つ」という発想もない。

    と書いていますね.

    「将来」も「この先」も考えたことが無いのですね. これは私自身の中には思い当たらない現象です.
    Takeo さんが抱えているであろう, 時計の針の進むことが無い膨大な「過去」の堆積は, Takeo さんを深い苦しみに陥らせ, そしてまたしても世界に対する烈しい否定の意思を生じさせているように感じます.

    上の箇所に続けて Takeo さんは「結婚」を例に挙げて

    > 誰でもが親になる資質を備えているわけではない。
    > わたしは親になる資質を備えてはいない。
    >
    > 今でも結婚しなかったこと、親にならなかったことは正しい選択だったと確信を持って言うことができる。

    と述べています. 全く別の方向からではあるのですが, 私にはこの部分に一部共感するところがあるのです.

    私は, 自分が家庭や家族を持つことへの不信と恐怖を持っています. コミュニケーションへの恐怖と人への恐怖から生じているものだと思います.
    また血縁・家族による社会というものが非常に重荷です. なぜそこに価値や真実を見出ださなければならないのかがわかりません. パートナーや肉親や兄弟との表層的なやり取りが受け入れられません.
    Takeo さんとの内実の相違はありますが, 私にも親になる資質は無いと言えます. このような意味での共感です.

    ただ, Takeo さんの思考はその場所において, さらに「このおよそ下らない世界」からの退場へと向かっています.

    一方で私はその場所から「将来」を見ようとしています.

    これは別に自分のほうが前向きだとか, 生への希望を持っているとかいうことではありません. 寧ろ将来を見ようとする姿勢を殊更に見せているという点で, ある種の偽善性に満ちているとも言えるでしょう.

    ですから私は, Takeo さんに共感を通じた憧憬を抱くのです. 私には Takeo さんのような思考を持つことはできない.

    外界および自己すらも拒絶するという意識の中において, 私は家族という小社会への態度に関して Takeo さんと一部共通する思いを持ちましたが, そこから先は正反対の方を向いています. 私には決して見ることのできない方を向いている Takeo さんの思考に強さを感じ, 同時にそれへの羨望のような思いを持ちます.

    そして実際に, Takeo さんは「孤立と独特の認識の化け物」という言葉に辿り着いていますね.
    苦しみと否定の意思が行き着いた先であったとしても, 其処には同時にある種の強靭さ・余計なものを削ぎ落とした硬質な美しさを感じるのです. 私が持つ感情とは, その強さと純粋さへの憧れではないかと思うのです.

    ところがその憧れと相反して, 私は恐怖を抱いてもいます.

    Takeo さんは自らを「化け物」と呼ぶことについてこだわっていますね. 特権的な意味を持たせ, 自負と矜持すら抱いている.
    しかしこの言葉の強さはどうでしょうか. Takeo さんが選んだ化け物という言葉, そして Takeo さんの持つ世界に対する深い絶望と強烈な否定から, 私は異形の意識 ── 破滅・破壊・狂気 ── を見ます.

    「化け物」という Takeo さん自身が内包する狂気は, Takeo さんの肉体と精神を何れ喰い尽くして破壊してしまうのではないかとも感じるのです.

    このようなことを考えたのですが, これが私の限界でもあります. このような考えを抱いたというだけであって, 私にはそれ以上何もできませんし, おそらくそのような術も持ちません.

    ただ, これは何度も書いたことですが, 私は Takeo さんの書く文章や紹介するアートに惹かれています. それが一部「化け物」が生み出したものであったとしても, です. このことは私自身, あらためて確かめることができたのです.

    散漫な上に傲慢に取られるかも知れないコメントを書いてごめんなさい. 私の文章はここまでとなります.

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    1. お返事を書く前に、

      底彦さん、こんばんは。

      「存在論的視点を欠いた脱・引きこもり論」という投稿での、わたしとふたつさんのやり取りを読んでくださったでしょうか。

      また『異常の構造』木村敏ー永遠のアポリア
      http://pobohpeculi.blogspot.com/2019/01/blog-post_2.html

      という今年1月の投稿を読んで底彦さんがどう感じるか、ちょっと興味があります。
      これは「狂気」と「異常性」についての記事です。

      決して、読んで感想を聞かせろというのではありません。

      お返事はまた後程書かさせていただきます。

      取り急ぎ、お礼と蛇足まで。

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    2. こんばんは、底彦さん。

      こう暑いと、(といっても、夏は始まったばかりですが)どうしても文章が散漫になりがちです。それはお互いさまという言うことで。

      忌憚のないご意見を聞かせて頂きありがとうございました。

      なかなか難しい問題で、切れ味鋭いお返事はできませんが、わたしも現在自分が書けるギリギリのところまで、このことについて考えてみたいと思います。
      始めから反論の意図がないので、敢えて、迂回するような表現をせず、感じたことをそのまま言葉にしようと思いますので、あらかじめご理解ください。



      いかならむ 明日にこころをなぐさめて
      昨日も今日も過ごす頃かな

      底彦さんの冒頭の文章を読んで、この順徳帝の歌を思い出しました。
      仮名遣いなど、間違っているところもあるでしょうが、配流された帝が、不遇をかこつ中、「明日という日」だけに希望をつないでいる、という意味です。
      ただ、わたしは昔から「希望」とか「未来」とか、政治家が好きそうな言葉が苦手です。「いかならむ あすにこころをなぐさめて」だからいいのです。
      「明日にこころを慰めて」というのが、「希望」を意味するのか、それともそれは「希望」というものではなく、あくまでも「なぐさめ」であるのか。

      大学生の頃から「将来」とか「未来」「希望」「夢」という言葉を生理的に受け付けませんでした。
      わたしのテーマソングがもうひとつありました。『傷だらけの人生』鶴田浩二

      真っ平ごめんと 大手を振って
      歩きたいけど 歩けない
      いやだ いやです お天道様よ
      日蔭育ちの 泣き所
      まぶしすぎます おいらには

      そう、「将来」「未来」「希望」「夢」という言葉はみな、負の走光性を持つわたしにとってはまぶしすぎるのです。

      成程、わたしの大学時代はバブル景気の真っ最中でした。だれもそれを「うたかた」とは思っていなかったでしょう。わたしもそんなこと思っていませんでしたし、浮かれる世の中を鬱陶しいと感じていただけでした。

      わたしは別に「大志」を抱いているわけでもないのに、「結婚」とか「家庭を築き子供を持つ」という小市民的な生活への、これもまた生理的な反発がありました。
      だったら「自殺」とか、「ホームレス」の方が、ずっと「非・小市民的生き方」だと、(そのように明確に意識していたわけではありませんが)無意識に感じていたのかもしれません。

      そこそこの企業で、課長になって、(あわよくば重役になって)それなりに綺麗な伴侶を得て、出来のいい子供を持つ、運転手付きの車、別荘、ゴルフ、高級料亭、浮気・・・それのどこが魅力的なのか、まるでわかりませんでした。

      一方で、わたしはこれも何度か書きましたが、19歳の時に、初めて女性とベッドを共にしたときに、おかしな言い方に聞こえるでしょうが、「わたしの生涯は暗澹たるものになるだろう」という一種の「天啓」を得ました。
      わたしはベッドの中でのそのひらめきを何の抵抗もなく認めたー受け容れた記憶があります。「何だこの感覚は」と苦笑するでもなく、「冗談じゃない」と否定するでもなく、「ああそうなんだな」と。

      底彦さんとわたしの根本的な違いは、わたしは自己も否定するし、同じように世界ー外界、現代社会をも否定します。しかし底彦さんは決して自分以外を否定しません。

      わたしは否定されたら、否定します。拒否されれば拒否します。
      また醜いもの、嫌いなものと妥協は出来ません。

      >Takeo さんが選んだ化け物という言葉, そして Takeo さんの持つ世界に対する深い絶望と強烈な否定から, 私は異形の意識 ── 破滅・破壊・狂気 ── を見ます.

      底彦さんがそのように感じられるのは全く当たり前のことです。(普通の人が)「化け物」という言葉にそれ以外の何を見ることができるでしょうか。

      >「化け物」という Takeo さん自身が内包する狂気は, Takeo さんの肉体と精神を何れ喰い尽くして破壊してしまうのではないかとも感じるのです.

      そうですね。それはわたしも薄々感じています。けれども、この世界で「わたし」が「わたし」であるためには、最早「化け物」であること以外にないと感じています。

      わたしはどうやってもこの世界に馴染むようには出来ていません。遅かれ早かれ滅ぶしかないのです。逆にもしわたしが、自分が異形の者「化け物」であるということを認めたくないとしたら、それは今を上回る悲劇ではないかと思います。

      「世界は醜い」のか「世界は醜いとわたしは感じている」のか?そのような詮議は無用のことです。唯一の真実は、「わたしにとって世界は醜く下らない」ということだけです。

      そんな気持ちを抱きながら、来週にはまたひとつ齢(よわい)を重ねるという皮肉。
      わたしが生きているということ自体が悪い冗談です。ついでにこの世界も・・・

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