2019年7月2日

想像力というもの


6月29日付け、東京新聞夕刊「土曜訪問」に、新作『つみびと』を刊行した山田詠美のインタヴュー記事が掲載されていた。

そこから抜粋引用する



大阪市で2010年、当時23歳の母親が自宅マンションに3歳と1歳の姉弟を放置し、餓死させた事件。子供たちを置いて遊び歩いていた母親の身勝手さが明らかになるにつれ報道は過熱し、世間の非難が集中した。山田詠美さんの新刊『つみびと』はこの事件から着想を得て書かれた小説だ。

 (中略)

「確かに同情の余地がないほど悲惨な事件でした。どのコメンテーターもキャスターも、勧善懲悪というように母親を糾弾していた。」その報道に違和感を覚えたという。「分かれ道で選択を誤り、転落するように人生がどんどん狂っていくってことって、誰にでもあることだと思ったんです。そうした想像力を働かせて物を言っている人は見当たらなかった」

 (中略)

育児ストレスから夜遊びを繰り返す蓮音が、自らを責め立てる父親や義父のことを〈正論の人たち〉と呼ぶシーンが印象的だ。「こうした事件の裏には、良識を振りかざし、親を虐待へと追い詰めてしまう人々の存在がある。その良識というものが幸せには全くつながらないことに彼らは気づかず、事件の一端を担ったという自覚もないことが多い」
ならばこうした事件に接し、義憤に駆られたように犯人を吊し上げる私たちもまた〈正論の人たち〉なのではないか。その疑問に作家はうなずく。「『この人たちは自分には関係ない』と思うことは簡単です。そうやってたやすく他人を糾弾してしまう人は、自分もそうした立場になる瞬間が来るかもしれないという想像力がまったく働いていないんだと思う」



このインタヴューを読んで、今読んでいる『永山則夫 封印された鑑定記録』堀川惠子(2011年)を思った。
この実際にあった事件の母親同様、永山則夫の母親もまた、むごたらしい虐待の被害者であった。
山田詠美は「どうしてあそこまで行ってしまったのか、それをかくのはノンフィクションよりも小説の仕事だと思った」と語るが、上記の永山則夫に関する著作は読み応えのある「ノンフィクション」である。

「自分もそうした立場になる瞬間が来るかもしれないという想像力がまったく働いていない・・・」云々以前に、われわれはいったい罪を犯した者の現実の何を知っているのか?「自分もそうした立場になるかもしれない」の「そうした立場」とは如何なるものか?

わたしは永山則夫自身の語る言葉と、鑑定医が聞き取ったそのすさまじい成育歴を「事実」=「ノンフィクシン」として読んで、これでは無差別殺人が起きない方が逆に不思議だし不自然だとさえ思った。それは「人が一人も死なない戦場」という魔訶不思議な状況を想起させる。

少なくとも「彼」「彼女」の生きてきた現実 ── 即ちその生い立ちと現在の状況を知らない以上、安易に「そういう立場になるかもしれないという想像力の欠如」とは言えないのではないか。
例えばわたしはどう想像力を働かせても、彼、永山則夫の犯した「罪」以前に、はたしてこのような境遇・環境のもとで人間が生きてゆけるのか?と呆然と自問するのが精一杯だった。

わたしは、永山則夫や、この小説の主人公のモデルになった女性が、「極めて特異な例」「絶対的に異質の他者」であるといっているのではない。人間どのような些細な契機で、「どん底」に落ちるかもしれない。
それは「眞實」ではあるけれども、そこまでの「想像力」を人間に求めることは無い物ねだりではないかと思うのだ。所詮我々は縁日の露店で遊ぶおもちゃの鉄砲か紙飛行機くらいの射程・飛行距離の想像力しか持ち合わせてはいない生き物なのだ。

自分自身を顧みても、例えば、わたしは生きている限り、決して幸せになることはないし、人から愛されることも、こころから関心を寄せられることもないと断言できる。
だとすれば、それをぺらりと裏返して、自分は決して不幸にはならないし、人生で躓くこともないという確信も、矢印の向きが違うだけで、「自分の現状(幸・不幸)は未来永劫変わることはない」という信念(信仰?)を持つという点に於いては何ら変わるところはないのではないか。
だからこそ、わたしは安易に「想像力の欠如した人たち」と一方的に非難することはできない。その言葉は容易に自分に撥ね返ってくる。

「人間に起こりうることで、自分にかんけいのないというものは一つもない」という
先哲の言葉があるが、わたしは人間の幸福とは無縁だし、「彼ら」は人間の不幸や苦しみというものと無縁なのだろう。

想像力の欠如を嘆く前に、もう一度原点に立ち返り、われわれは人間に何を求め得るのか?人間に何を期待し得るのかという根源的な問いを発するべきではないだろうか?

答え ー 「何も」



ー追記ー

この小説がどの程度事実に基づいて書かれたものであるのかはこのインタヴューには明記されていない。しかし、仮に主要な事実をベースにしているとしたら、この事件で、子供を放置し死に至らしめた母親(小説では蓮音)の母親琴音は、実父から暴力を、義父から性的な虐待を受けている。これは上にも書いたように、永山則夫の母親がやはり虐待の被害者だったことと重なる。

言葉尻を捉えるようだが、引用したインタヴューの中で作者は、「分かれ道で選択を誤り、転落するように人生がどんどん狂っていく」と語っている。

「選択を誤った」のは彼女(蓮音)だろうか?永山だろうか?またそれは、「人生の岐路で選択を誤った」と表現され得るものなのだろうか。

『永山則夫 封印された鑑定記録』によれば、当時欧米ではすでに、母子関係がその後の人格形成にいかに大きな影響を与えるかの研究が進んでおり、「母親またはその代理者の愛情喪失による対象関係形成の失敗は、人格のすべてにわたる全体的な発達を停滞させる。」R・A・スピッツ。
「人間は出生直後から親によって豊かな愛情を与えられ、依存欲求が満足され、保護・安定感を得なければ、他の人間を深く愛し尊敬することができず、良心も健全に発達せず、人間全般に対する不信感と攻撃性が発展するのである」K・ローレンツ、W・ハラーマン

つまり「愛されざる者」は、極論すれば、「人間になり切れなかった者」「人間になれなかった者」を意味することを示唆している。

およそ「人間になる機会を奪われた者たち」に、人生の岐路に於いて、「適切な判断」が下せるのか、ということである。そしてそれは「彼」あるいは「彼女」の「責任」なのか?ということだ。

インタヴューで語った言葉というのが、往々にして、実際に語った言葉と異なるということは決して珍しいことではないが、この発言通りであるとすれば、山田詠美の「選択の過ち」という表現は、軽率の誹りを甘んじて受け入れなければならず、「このような意味の発言」ということで、一言一句正確でないとすれば、新聞の質・レベルを疑われても致し方ないだろう。















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