2019年7月18日

混沌の中より・・・


「わたし」とはひとつの「病い」である。

では「わたしとは一つの病いである」という時、はたして「病い」とは如何なるものか?




いつも思うことだが、皆はいつ、どこで「人間とはこれこれこういうものだ」ということを教わったのだろう?

わたしはそもそも自分が「人間」と呼ばれる生き物であるのかすらわからない。

そして人間はどのようにして生きてゆく(ゆくべき?)ものなのかということがわからない。

世に「人間とは何か?」という問いにヒントを与えてくれそうな本や映画は多いが、そんな本の一冊が、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』だろう。



ボーヴォワールは『第二の性』の中で、「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」という有名な言葉を遺した。

同じように、わたしには「人は人間に生まれるのではない。人間になるのだ」という想いがある。
(「こちら」で引用したように)、二階堂奥歯が、人形のピエロちゃんは、わたしの愛情によって人間であることができるが、生まれたばかりの弟は、人間として生まれてきたのだから、誰もが彼を人間として扱うだろう・・・と書いていることに、彼女らしからぬ論理の粗雑さを見た。

仮にわたしの仮説ー「人は人間に生まれるのではない。人間になるのだ」というのが左程見当違いでないとすれば、あなたは、いつ、どこで、「人間になった」のだ?
そしてわたしは何故、どこでどう間違えて「人間になれなかった」のか?



わたしが「エロ・グロ」ブログをやろうと思ったのも、わたしの内面の醜さを、世上悪趣味とか、観るに堪えないといわれているイメージに仮託して、これもまぎれもなくわたしが持っている性質のメタファーだと知らせたかったからだ。
「美こそわたしの信仰である」といい「わたしは美に拝跪する者だ」と言ってからまだ1年も経ってはいない。

わたしは180度回転して、「醜さの信者となり」「醜(しこ)に額づく者」になったのか?
多分そうではなく、わたしが美に焦がれるのは、わたしの本質が醜いからだ。
わたしは、その自己の本質をこそ、もっと表出し、知らしめたかったのだろう。
そして人ははたしてどこまで、「醜悪なもの」ー言葉を換えれば「了解不能なもの」に近づくことができるのか、この日記ーブログを通して確かめたかったのではないだろうか・・・

(ただし、「人は」と一口にいう際に、一抹の躊躇いがあるのは、わたしの中に「日本人」というものが、世界の中で、特殊且異質な、即ち「幼稚」で「民度の低い」民族であるという抜きがたい意識があるからだ・・・)
わたしのもう一つのブログのURLは a shame of. blogspot.com・・・これはプリーモ・レーヴィの言う "A Shame of Being a Man" 「人間であることの恥」でもあり、同時に、より強い気持ちで "a shame of being Japanese" なのだ。 



不悉










3 件のコメント:

  1. Ciao Takeoさん
    一昨日の晩、こちらに戻ってきました。
    ヘロヘロ ヘトヘトです。
    昨日は一日中何もせず、ただ身体がエネルギーを取り戻すのを粛々と行っているに任せました。
    東京では、身体倦怠感が酷くてこのまま死ぬのではないかと思いました。
    病気に違いないと思いました。
    ところが
    乗り換えのミュンヘンの空港に着いた時、それまで肩にべっとりと背負わされていたような妙な倦怠感がスーッと消えるのを感じました。
    東京は疲れます
    自分の年齢による体力の衰えや毎日やる事がある、そう言う事以外に何か目に見えない空気の重さがあって、それが私の呼吸を皮膚呼吸まで妨げる感じで、私はいつも足や頭の重さを感じ、身体を動かすのに通常の何倍ものエネルギーを使わされている気がしていました。多分酸素が足りないのです。

    銀座に用事があって行きました。
    観光客の多さに吐き気を催し、彼らのウロウロ歩きで生じる混乱に頭が痛くなりました。
    今でこうならオリンピック開催時はどうなるのだろうと、、。
    朝の浅草線新橋駅ではホームに入るのに長蛇の行列で、思わず閉所恐怖症の発作が起きそうになりました。そうでなくても、ここでだれか心無い人が大きな声でも上げて人々が無用なパニックに陥ったらとても危険だろうと思いました。
    東京は人の住むところではないと思いました。
    そして、
    イタリアに帰る日の前日、ついに私の堪忍袋の尾が切れ、吉祥寺の駅で自らが混雑を増長させているのに気づかない、ぼんやりとした、顔のない顔で歩きスマホをしている男性に「あの、歩きスマホやめませんか?!」と言いました。
    その人はびっくりした感じで顔を上げ、私はそのまま彼の横を通り過ぎました。
    家に帰って弟家族に話したら、そんなことしたら危ないよと言われました。
    私は私に苦情を言われたから私を刺したり、暴力を振るったりするのなら、すればいいと言いました。
    そうしてこのおぞましいアホな人々の慣習が問題にされたら、願ってもない事です。
    (この国は事件が起きないと何も気づきません。まあ、事件が起こってもまた次のもっとおぞましい事件が起こりますから、人々はほんの3〜4日で忘れるでしょうが、、。)
    私が日本にいたら、東京のあちらこちらに出没して歩きスマホやめろと誰彼構わず、説教かます「変なおばさん」になっていた事でしょう。苦笑

    この街ではもはや心の平安など望むべくもなく、この街で精神を病むのはごく当たり前のことではないかと思いました。「普通」の精神の持ち主であれば、この耐え難い混沌さ、混乱、騒音が織りなす無残で醜い光景に耐えられないであろうと思います。
    毎日毎日疲弊していく私を見て、弟がこう言いました。
    ジュンちゃん、ここでは君のように気持ちや注意を広く拡げていては行きていけない、だから皆小さく小さく固まっているのだと。

    私は、絶えず目にする人間たちの傲慢で残酷な行為に、まさに「人間である事の恥」を感じていますが、日本にいるとさらにその恥を感じない訳には行きません。
    テレビを見ても、意味のない、まさに大人を子供扱いしてるようなCMや番組があまりに多くて目を見張ります。これでだれもバカにするなと怒らないのか?と
    こんなに低俗でいいのだろうか?と不思議に思うのです。

    日本に3週間いて、私はTakeoさんが日々抱いている嫌悪感をさらに理解した気がします。
    東京はこの1年でまた変わりました。つまりさらに酷くなりました。
    それに気づかず、のうのうとスマホを眺めてそれを世界と信じて生きている、この全く生きていない国民に、私もまた日本人である事の恥を改めて感じています。
    どうしたらここまで無知で無神経で無関心、低俗かつ凡庸でいられるのだろうか?と


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    1. こんばんは、Junkoさん。

      また了解を得ないまま、コメントを使わせていただきました。
      もうわたしは、この4人のコメントだけで十分だと思っています。

      Junkoさんのコメントを元に記事を書きましたが、今先日ふたつさんが仰っていた、「思考の迷宮」というコメントを考えています。仏教の言葉に「掴んだものが掴まれる」というのがあります。あの時のわたしのふたつさんへの返事はさほど的外れではないと思いますが、何も掴まない=無関心と「掴むことは掴まれること」という言葉の狭間で蹲っています。

      コメントをありがとうございました。

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    2. 追伸

      東京の(日本の息苦しさ・窮屈さ)が、ミュンヘンに降り立った途端に嘘のように無くなったという気持ちはわかります。

      わたしはネットで日本のサイトばかり見ていると内容に関わらず、なんとなく肩が凝ってきます(苦笑)
      それが海外の主にアート系のサイト、ブログに行くと途端に新鮮な空気に触れたようになります。

      今はこのブログにリンクされているブログ以外は殆ど日本のサイトを覗くことはありません。残念ながらわたしが観ているようなブログを日本人がやっているのを見たことがないので。

      わたしも日本の日本的ブログのOne of Them にならないように気を付けないと(苦笑)

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