2019年7月15日

抽象と文脈


友人から借りたDead Can Dance の" Within The Realm Of A Dying Sun" をぼんやりとした薄明の意識の中で聴いている。
心地よい倦怠感が身を包む。「倦怠感」といっても身体的な不快感はなく、寧ろ浮遊感といった感じ。まどろんでいるのはわたしの意識なのか?それとも音楽の方なのか?共々にまどろみの中に漂っている。

"Dead can Dance"の音楽は初めて聴くが、二階堂奥歯やOrphane、それに旧SNSの友人たちの間でも時折目にしていた名前なので、うっすらとだが興味はあった。


アルバムを聴きながら、アーウィン・ブルーメンフェルドの撮影した1955年のNYタイムズ・スクエアの写真をぼんやりと眺めている。

Times Square, 1955, Erwin Blumenfeld

最近は何故かモノクロームよりも、50~70年代(半世紀以上前)のカラー写真に惹かれる。
この写真が、Dead can Dance のアルバムの醸し出す雰囲気に合っているのか、よくわからない。
ただ少なくとも、モノクロームの世界ではないと感じる。
薄暮のヒースの丘などでもいいかもしれない。ミニマルな中に、寂寞とも荒涼とも言い切れないが、それに親しい世界の広がりを感じる。

わたしが日ごろ親しんでいるシナトラや、ビリー・ホリデー、或いはS&Gやトム・ウェイツ等と違うところは、それが口ずさめる音楽ではないということ。といって、モダン・ジャズのバラードとも違う。なにかとても「心地よい抽象画」に近いのだ。

二階堂奥歯の一番好きなバンドがこのDead can Danceだと『八本脚の蝶』に書かれていたと思う。


出自のない裸体、絡め取ろうにも手がかりのない抽象的物体、自らの存立を問い直すような性の深淵、そんなのを見るつもりはないわけね。
[2002年5月19日(日)その2]

これは二階堂奥歯が、AV制作会社の企画した全裸の美女たちによるオーケストラ演奏会に出かけて行った時のことを書いた日記の一部だ。

前後の文脈は省くが、わたしは何故世の男性たちが、(いまでもあるのか知らないが)
「ストリップ」というものに興味を示すのかがわからなかった。
目の前で美女が着衣を一枚また一枚と取り外していって、最後に全裸で、男たちの前に立ち現れたとしても、それは二階堂の言葉を借りれば、 「出自のない裸体」であり、「絡め取ろうにも手がかりのない抽象的物体」であり、「自らの存立を問い直すような性の深淵」でもない。

内面あっての外面だ。そして「エロティシズム」は、文脈の外側、文脈抜きには存在しないと、「個人的には」思っている。

置かれた文脈の如何で、美女が醜女(しこめ)になることも、またその逆も当然起こりうることだ。

「文脈」(=物語・ストーリー)から切り離された「抽象画」や「捉えどころのない音楽」の快感。心地よさ。そして、文脈=(その人物の個別性)を捨象されて抽象的な「モノ」となった美女の裸体の味気無さ、無味乾燥、そんなことを考えている。

さあ、もう一度聴こう。












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