2019年7月11日

真空地帯…


フォローしているがあまり更新されないブログを開くと、最近書かれた記事を見つけた。それを読んで、「この投稿に対する反論、というよりも、否定的な立場からの記事を書いても構わないか?」と問い合わせようとしたが、コメント欄も設置されておらず、メールでの連絡も取れない。
ブログを書いているのはわたしと同世代の会社員。

リンクを貼ろうかと迷ったが、彼個人を非難するつもりはなく、今の社会の在り方をありのままに記述しているこの投稿を元に考えてみる。

以下全文引用 ──


◇◇

「もはやCDは買えない。」



あいも変わらず、部屋の中が、ゴミ屋敷状態になっている。
今回、思い切って、CDを全て売却することにした。
大体、20歳くらいのときから買い続けていた。
もはや、収納するスペースも限界に来ている。
かつては、CDしか音楽を保存する媒体がなかった。
パソコンのハードディスクも200メガバイトくらいで、CD1枚分のデータも保存できなかった。
しかし、時代は変わった。
記録メディアの圧倒的な大容量化、高速化。
数百枚のCDの音楽データをハードディスク1つに保存してできるようになった。
音楽のデータをCDという媒体で保持しておく必要はなくなった。

高速のインターネット回線の普及。
最近はストリーミングで幾らでも音楽が聞ける。

音楽を聴くためにCDを買うという行為自体が意味をなさなくなった。

そういうわけで、手持ちのCDを片っ端からヤフオクに出品している。
どれだけ売れるのかは分からない。
買い手がつかないかもしれない。
でも、とりあえずやってみようと思う。
(下線・太字Takeo)


これを読んだ個人的な感想は、まず第一に「彼は音楽に愛情を持っているのだろうか?」という素朴な疑問だった。彼が音楽を愛しているか?もし彼が、「もちろん音楽を愛してる」と答えれば、わたしは反論するつもりはない。「音楽への愛情」の在り方が、彼とわたしとではまるで違うということだ。

彼の投稿を読んでいて、少なくともわたしには、時代の移ろいの速さを嘆いているという思いは読み取れなかった。「もうCDは買えない」というタイトルも、「哀惜」というよりも、単に「事実」を述べているだけのようだ。

極論すれば、わたしにとって、インターネットを経由して取り込まれたものは、すべて「虚」或いは「幻」のようなもの、実体を伴わない幽霊のようなものものだという思いがある。

生きるということは、自分にとって必要なものを、「自分の身体を使って」「捕獲」する、「稼ぐ」ことだと思っている。そしてインターネットとは基本的に「与えてくれる装置」だと。

先月の「断想」に『山田花子自殺直前日記』に載せられた彼女のデザイン学校の友人の言葉を引用した。


● 同世代の人ならわかってもらえると期待するが、高市由美さん(山田花子)のデザイン学校時代の親友はこのようなことを書いている。

「わたしは高市さんからいろいろな影響を受けました。原マスミ、ヒカシュー、筋肉少女帯、たま、あがた森魚など音楽テープをたくさん頂いたり、根本敬、蛭子能収のマンガや、面白い本を見せていただきました。
それらすべては私の知らないものばかりでしたが、すぐに私も好きになり、夢中になりました。高市さんは私にいろいろ大切なものをくださいました。」(1993年の家族宛て手紙より)

高市由美=山田花子に嫉妬と羨望と劣等感を覚えるのは、わたしにはこのような「引出し」「蓄積」が全くないということ。(「スマホ」「パソコン」は「引出し」足り得ない)


わたしにとって、「友だち」の定義の一つが、「本やCDやビデオ(DVD)の貸し借りができる存在」であること。つまり自分の好きなものを、自分の内面を、本やCDを貸したり借りたりすることで共有できる存在こそが友だちだ。それは'You Tube'のビデオをやりとりすることとは比較にならない。

本や音楽、映画への接し方、親しみ方が、これまでと大きく変わるということは、「友人」の概念も、また広く言えば「人間」というものの概念もそれに伴って大きく変化するということだ。そしてわたしはそのような世界で生きられるという自信がない。そのような世界で生きる意味を見出すことは不可能に近い。何故なら、CDも紙の本も、エロ本もビデオもDVDも手紙・葉書さえもない世界に、わたしの「友」は存在しないからだ・・・


このような世界で、息苦しさを感じることもなく、自分の身体に刃物を突き立て血を流すことも、クスリやアルコールに溺れることもなく、つまり「今ここにある世界」にほとんど何の抵抗もなく溶け込み、深呼吸できるという奇妙且滑稽なる人々に対し、わたしは失笑を禁じ得ない。

巷間言われる「イキヅラサ」とは、自分の内面にある「あるべき世界」と自己の外側に容赦なく広がる「現実」「今ある世界」との乖離に依る。

例えば「友情」とか「音楽を聴く」というのは、以下の『ヴァージン・スーサイズ』という映画の場面のようなもの。これがわたしにとっての「あるべき世界」の断面だ。

上の「断想」にも書いたように、わたしが彼ら、彼女らの年頃の時に、これだけの音楽の知識があったか、心もとない。

『牛乳拭いた雑巾臭いブログ』の優介くんに「今でも昔ながらの『エロ本』って売ってるの?」と訊いたところ、「エロ雑誌ならギリギリあるかも。コンビニでも置かなくなるようだし・・・」という返事をもらった。

小松政夫のギャグに、お年寄りがエロ本を買ったら付録が付いてきた。スワ!エロ・ビデオかと喜んで開けてみたら、ブルーレイ・ディスクだったのでしょんぼり・・・というのがある。

わたしもその老人も、最早どこにも行き場所はない。

嘗てサン=テクジュペリが「リトル・プリンス」に言わせた「大切なものは目に見えないんだ」という言葉に嘔気と反感を覚え、「この目で見え、この手で掴める物だけが本物なんだ」と毒づいてやりたい。もう目に言えないもの ──「虚の世界」にはうんざりだと!







「怪物と心を通わせ合う方が、怪物とは全く縁のない人間と理解し合うよりもはるかにまともである」

「何千年、何万年というもの、私たちは「やがて死すべき者」でしかなかった。いまや、私たちは、「瀕死の者」に昇進した」

「どこからどこまで、別人のように変わってしまう。そんなことは不可能だ。しかしそうでもしないかぎり、私たちは、誰も、自分の抱えている矛盾を克服するわけにはゆかない。力を貸してくれるものがあるとすれば、死だけだろう。死がつねに優位に立ち、生に対して圧倒的な勝利を収めるのはそのためである」

「毎日毎日が、私たちに、消滅すべき理由を新しく提供してくれるとは、すてきなことではないか」

ー シオラン (Cioran)『告白と呪詛』出口裕弘訳(1994年)


ー追記ー

「Virgin Suicides」彼女たちは何故「死」を選んだのだったか?このような「美しい時代」のただ中にいながら。もう一度観直してみたい映画だ。








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