2019年6月13日

断想


● 例えば、このブログに興味を持ってくれている人が仮に5人いるとする。
ではその5人は、このブログに何を求めてそれを読むのか?
しかしこの問い自体、ナンセンスなのかもしれない。

「あなたはこの展覧会に何を求めていますか?」「あなたはこの本に何を求めていますか?」・・・所謂作品は「解熱剤」や「鎮痛剤」ではないのだ。

では「好き」とはなんだろう。「わたしは『たま』の音楽が好き」「筋肉少女帯が好き」
「山田花子の漫画が好き」という場合、そこにはなにか自分の求めているものがあって、それが充たされる快感というものが存在するのではないだろうか?


●「ブログ」というインターネット上のメディアは果たして、「その人の作品」足り得るか?
例えばTumblr、わたしのブログに1万数千人のフォロワーがいたとしても、このタンブラーに「わたし」はどれだけの密度、濃度で存在しているだろう。
絵を選ぶなんていうのは、少しやっていればコツがつかめる。そしてこのインターネットという地球を覆う網の目には、「ウワ!」とか「オオ!」というような絵が、探せばいくらでも捕らえられている。
そんな絵がいくら並んでいたとしても、そんなものはわたしの功績でも何でもない。
それはたぶんわたしに限らず、ドロローサであってもオーファンであっても同じことだ。
ただ、わたしと彼女らの違いは、ふたりは自分で自分の画を描いている、ということ。

つまりわたしがこのブログでもあのブログでも、「いい音楽」や「素敵な絵」をいくら貼りつけたとしても、わたしはそれを「わたしのセンス」で「わたしが獲得した獲物」とは認めない。
この『ぼく自身或いは困難な存在』に「わたし」はいるか?わたしは「居る」と言い切る自信がない。


● 同世代の人ならわかってもらえると期待するが、高市由美さん(山田花子)のデザイン学校時代の親友はこのようなことを書いている。

「わたしは高市さんからいろいろな影響を受けました。原マスミ、ヒカシュー、筋肉少女帯、たま、あがた森魚など音楽テープをたくさん頂いたり、根本敬、蛭子能収のマンガや、面白い本を見せていただきました。
それらすべては私の知らないものばかりでしたが、すぐに私も好きになり、夢中になりました。高市さんは私にいろいろ大切なものをくださいました。」(1993年の家族宛て手紙より)

高市由美=山田花子に嫉妬と羨望と劣等感を覚えるのは、わたしにはこのような「引出し」「蓄積」が全くないということ。(「スマホ」「パソコン」は「引出し」足り得ない)


● わたしには代表的なテーマ・ソングが3つある。
サイモン&ガーファンクルの「アイ・アム・ア・ロック」同じくS&Gの「ア・モスト・ペキュリアー・マン」-「とても変わった人」
そして映画『オズの魔法使い』の中で使われた"If I Only Had a Heart" 「もしも心があったなら」

ご存じのように、藁でできたスケアクロウ(かかし)は「脳みそ」を欲しがりー "If I only had a brain"
ブリキ男は心ーハートを求め ー "If I only had a heart"
臆病ライオンは勇気があればと願うー "If I only had a nerve"

何故これがわたしのテーマ曲なのか?わたしは昔からあたまも胸の中も虚ろな臆病者だからだ。

そして今現在も、わたしの内側は空っぽだ。


● わたしはインターネット上で得た知識はすべて「虚」だと思っている。

「たま」の音楽を知りたければ、少なくとも図書館でCDを借りるくらいして、初めてたまを聴いたといえると思っている。そしてわたしは、たまも、筋肉少女帯も、戸川純も(今のところ)関心がないので、それらのミュージシャンについては全く何も知らない。動かないのだから知らないのは当たり前だ

わたしは個人的に、インターネットで得た物をすべて洗い流した後に残ったものが「わたし」の実体ー「本物の」わたしだと思っている。

スマホは、たぶんかかしの求めた「脳みそ」ではないし、
ブリキ男の望んだ「ハート」でも、ライオンの欲した「強さ」でもない筈だ。

かかしは「知識」を求めたのではなく、自分の頭であれこれ考える快感を求めたのだ。
そしてふたつさんの名言の通り、脳みそをもらうということは、その限界をも引き受けるということに他ならない。
ブリキ男は心(ハート)を欲しがったのであって、魂を抜き取ってほしいとは願わなかった。


● わたしが自分を「廃人」と見做しているのは、最早自分自身で、新宿や渋谷のTSUTAYAにビデオやDVD,CDを借りに行ったり、神保町で古書を漁ったり、中古レコード店で、ジャズやR&Bのレコードを物色することができなくなったからだ。獲物を捕獲できなくなった獣は死ぬ。それが自然界の常識だ。「アマゾン・プレミアム」を使ってまで延命したいとは思わない。


ー補足ー

「わたしはインターネット上で得た知識はすべて「虚」だと思っている。」

と書いた。けれども、例えば、ふたつさんが、誰それの〇〇というアルバム、いいですよ。といい、底彦さんが、ご自分で読んだ本の感想を聞かせてくれる。
これは「元」がふたつさんなり底彦さんが実地に獲得し、稼いだ知識なので、これを「虚」とは呼ばない。要は、このブログの読者が、本や、レコード(CD)、ビデオ(DVD)映画館など、とにかく、ネット以外で稼いだ知識を「わたしに向かって」教えてくれる場合は別ということ。

何故かわたしは「知識」「情報」には「稼ぐ」という言葉が似合う気がする。つまり「稼ぐ」という言葉、その語感に「労力」と「身体性」が伴っている気がするのだ。
逆にスマホやこのパソコンで得た知識や情報は「労せずして」というイメージが付きまとう。すなわち「虚」である。

ある知識・情報の真実性・重要性は、それを得るまでに要した労力(手間ひま)に正比例する。
















2 件のコメント:

  1. こんにちは。

    『ある知識・情報の真実性・重要性は、それを得るまでに要した労力(手間ひま)に正比例する。』

    これには、心底から同意しますね。

    実を言えば、ぼくが音楽の話などで、「YOU TUBE」のリンクを貼らないのは、そのためなんですよね。
    「YOU TUBE」に限らず、リンクが貼ってあると、ついつい見てしまう人が多くなるでしょうが、リンクがなければ、よほど興味を持った人以外は探したりしてまで見ないし、ましてそこから掘り下げていく人はかなり少なくなるわけです。

    これ、ある意味では「不親切」なのかもしれませんけど、ある意味では「親切」でもあって、『ちょっと見たかっただけ』とか、『貼ってあったから一応見てみた』と言うようなものは、ほとんどの場合『見なくてもよかった』ということが多いわけで、要するに「時間の無駄」であることがとても多いですよね。

    もちろん、わざわざ探してみたけれど、やっぱり「時間の無駄」だったと言う時には、むしろ、「時間の無駄」が増えているのは事実なんですが、同じ「無駄」であっても、「その無駄」には「意味」が発生するような気がするわけです。
    (もちろん、興味のあるものに行き当たれば、なおいいんでしょうが)

    その「意味」こそが、まさに、ここでTakeoさんが言われているところの「労力」から生み出されるんだと思います。

    と言うより、どちらかと言えば、そういう「意味」は「労力」以外のものからは生まれないような気がします。
    いや、もっと言えば、「そこに注ぎ込まれた労力」こそが、そのものの「意味」であると言ってもいいほどだと思います。

    そして、ぼくは、このブログにも、アートのブログにも、「そこに注ぎ込まれた労力」を感じますよ。


    それから、ぼくは、「芸術家」という言葉の代わりに「芸術者」という言葉を使っているんですが、それは「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」と言う三者(=芸術者)が対等に対峙する関係を以て「芸術表現」が結実するものだと思っているからなんです。

    そこで、対等に対峙するためには、三者ともに、そこに「労力」を注ぎ込む必要が生じるわけで、「鑑賞」と言っても、ただ単に「受け身」であることでは、それはテレビを見たりすること、つまり、ネットやマスコミから垂れ流されているだけの、限界的に薄められた情報を受信したというのと同じことに成ってしまうような気がするわけです。


    「何を見るのか?』ということも「鑑賞」ではありますが、『どのような態度でそれを見るのか?』ということこそが「鑑賞」の「本当の意味」だと思います。

    つまり、そこに「意味」を見つけ出したり、「意味」を発生させたりするような、最低限の「労力」を使うことで、対等に対峙する関係が出来上がるわけです。

    「創作」だけでも、「鑑賞」だけでも、「批評」だけでも、また、その中のどの二つを組み合わせたとしても、ぼくの考えるところの「芸術」とは成り得ません。
    三者が対峙したときに、初めて「芸術表現」と言えるのだと思います。


    おそらく、Takeoさんは「芸術」という言葉をあまり好んでいないのかな?と思っています。
    でも、ぼくは、「創作者」が、こういうことを言葉で言っていくことは、必要なことだと考えていますし、そういう話をするときに「アート」という言葉を使ってスマートなことを言ってはいけないような気がしているので、どうしても、こういう「カチンコチン」な言い回しに成ってしまいます。

    まぁ、その辺のところは、適当に間引いて、聞き流していただければ幸いです。

    それでは、また。

    返信削除
    返信
    1. こんばんは、ふたつさん。

      ある知識・情報の真実性・重要性は、それを得るまでに要した労力(手間ひま)に正比例する。

      最後にとってつけたような言葉ですが、わたしの実感なんです。誰もが言いそうな言葉ではあります、でもきょうびこんなことを言ってたら笑われるでしょう。

      >「YOU TUBE」に限らず、リンクが貼ってあると、ついつい見てしまう人が多くなるでしょうが、

      そうですか?(笑)わたしは誰のブログでも、またSNSのページに貼られているものでもYou Tubeは観ません。とにかく自分の関心のあること以外は指一本動かそうとしない人間なので(苦笑)
      だから以前わたしがフェイスブックのページに貼っていたビデオを瀬里香さんが観て、詳しい感想を聞かせてくれた時には、うれしかったし、驚きました。自分は決してそういうことをしないので。

      You Tubeはわたしにとっては、ラジオの代わりであって、それ以上でもそれ以下でもありません。ラジオ=つまり聴くものであって、観るものではありません。
      まぁたまに画質のいいライブなどがあると見ますけど。

      ブログにリンクを貼るのは基本的に「失礼」と思っています。
      わたしが自分の過去の記事のリンクを貼るのは、「こんなことも書いていますので、興味があれば・・・」という感じで、それを見なければ、本文の内容がわからないというようなものは貼っていないつもりです。あくまでも補足です。
      必要な文章であれば、記事の中に引用します。

      >もちろん、わざわざ探してみたけれど、やっぱり「時間の無駄」だったと言う時には、むしろ、「時間の無駄」が増えているのは事実なんですが、

      いえいえ、そういうのを時間の無駄とは言いません。肝心なのは、自分の興味に対して時間を割いたことであって、極端に言えば、それが自分の気に入るものであったのはラッキーだっただけです。

      「どれだけ自分の興味のために時間を割けるか」それが生きている重みであると思います。
      逆に言えば、ある情報、あるものを得るのに時間を惜しみ、すべてをファスト・フード化、ジャンク・フード化してしまう=手間ひまをかけないでお手軽に入手するということは、それについて格別の愛情があるわけでも、深い興味を持っているわけでもないのでしょう。

      >ぼくは、このブログにも、アートのブログにも、「そこに注ぎ込まれた労力」を感じますよ。

      ありがとうございます。とてもうれしく思います。



      >「何を見るのか?』ということも「鑑賞」ではありますが、『どのような態度でそれを見るのか?』ということこそが「鑑賞」の「本当の意味」だと思います。

      その通りですね。「観る」ということは、本来能動的な行為ですから。

      わたしは基本的にカタカナ語を嫌いますが、『芸術』という言葉はわたしには厳めしすぎます。わたしは、アートはもっともっとカジュアルなものであるべき、というスタンスです。絵についても、ジャズでも、クラシックでも、映画でも、濃いい蘊蓄を熱く語る人間は正直苦手です。(人にもよりますし、それが本当に好きだから語っているのはいいのですが、自慢なのか知識を披露したいのか、という人は御免です)

      わたしは何についても素人です。日本人て、アートをなにか学問のように押し頂いているようなところがあって、そのあたりが苦手です。
      もっと誰にとっても身近であっていいと思います。

      そうすると、始めに言っていた意見と矛盾するじゃないかという指摘がなされるかもしれませんが、現在日本人にとって、アートが格段に身近になったかと言われるとそうは思えないのです。どんなにSNSが普及しても、日本人はあちこちで日本人同士で群れているように見えます。わたしがアートが好きな理由、ネットとアートの関係については、アートは言葉の壁を超えるということを、実感しているからです。

      アートはわたしがインターネットの世界で認め得る数少ない「言語」であり、言葉以上のコミュニケーションの道具です。










      削除