2019年6月18日

わたしにとっての精神医療とはなにか?(底彦さんのコメントに触れて)


切れ切れに思うことなど、ノート (その1)」で、底彦さんに、あなたにとって「精神科医」「精神医療」とはなんですか?と質問したことについて、お返事を頂いた。

これについて、コメント欄で底彦さん宛てに返信するか、或いは、別に記事を書くかで迷った。その結果、底彦さんの言葉が媒介となってわたしの思ったこと、ということで、このような形で書こうと思った。尚、この点だけは幾重にも強調しておかなければならないが、以下の記事は決して、底彦さんの意見への反論ではないということ。
わたしは「底彦さんにとっての精神医療とはどのようなものですか?」と問うた。
そして彼は、「彼にとっての」精神科、乃至精神医療とはこういうものだと答えてくれた。その考えがわたしのそれと異なることに何の不思議もない。
だからわたしは、いつものように、底彦さんの言葉に刺激されて考えたことを、「あくまでも自分のこと」として記そうと思う。

或いは底彦さんもそうかもしれないが、今のわたしは、何につけ、それこそ、「切れ切れに」しか考えることも書くこともできない。

以前底彦さんから、わたしのブログに「誤字がない」ことに驚くと言われたが、最近では、読み直しているつもりでも、どこかで漏れている。本文はまだしも、コメントでの誤字=変換ミスが目立つ。そのほころびは次第に広がってゆくのだろう・・・



S:現在の私は, 苦しみからの解放を望んでいます. そして鬱病が自分にとって何であるのか, この病の中でどう生きられるのかを知りたいと思っています.


わたしには底彦さんのいう「苦しみからの解放」ということがよくわかる。彼は明らかに苦しんでいる。そこからの「解放」を願うのは当然だ。

翻って、わたしは苦しんでいるのだろうか?苦しんでいるとしたらいったい何に?
わたしが苦しんでいないのなら、「苦しみからの解放」という言葉はそもそも当てはまらないし、何に苦しんでいるのかがわからなければ、どのような状態が「解放」といえるのかもわからない。
檻の外にいて、鉄柵の中へ入ることで安心を得ることが「救い」なのか?はたまた、「檻から出て自由になる」ことが望みなのか?それによって、苦しみの意味も、また解放の意味も全く違ってくる。


それが何かわからなければとりあえず何にでも効く薬を、ということになりそうだが、さしあたって、わたしにとってのその「万能薬」とは「死」以外には考えられない。

底彦さんは、「この病の中でどう生きられるのかを知りたいと思う」と書く。

わたしは「現代社会の中で・・・」その後に「どう生きられるのか?」と、続けることはできない。現代社会でわたしの生きる余地は全くないと思っているから。

そしてわたしはまたもや「生きるってどういうことなんだろう」という子供のような疑問に突き当たる。

先に『八本脚の蝶』から引用した二階堂奥歯のような「生を牽引する欲望」のようなものすらわたしにはない。


S:現在の精神医療では, 精神科医の果たす役割は患者に適切なメッセージを伝えることと, 薬を正しく処方することが大きいのではないかと思います.

(底彦さん、反論のように聞こえるでしょうが申し訳ありません。わたし自身そうであるように、底彦さんが現状で、自分の言いたいことを十二分に表現できているとは思っていません。揚げ足を取るつもりは全くありません。)

「患者に適切なメッセージを伝えること」これはどういうことだろう。おそらく底彦さんの言うのは、「適度な運動を心がけてください」「なるべく栄養のある食べ物を食べるように」「少しでも疲れたなと思ったら休んでください」── そういうことだろう。

そうでなければ、たとえ中井・木村両医師でさえ、わたしの生き方に対し矯正も指示もできない。ではないか?

S:患者と少し時間をかけて話し合って心理療法を行うのはカウンセラーがその役割を担っていますが, カウンセラーはそういうことの専門家ですからそれがいいのでしょう. 

わたしは今、カウンセラーと話してみたいと思っている。それは決して、わたしの言うことを理解してほしい、わたしの苦しみを、救うことはできないまでもせめて理解してほしいということではなく、わたしのいうこと、わたしの感覚、わたしの美意識が、決して「カウンセラー」と呼ばれる人たちには理解できないだろうということをこの目で確認したいというちょっと意地の悪い好奇心からだ。
「理解できるはずがない」というのは、わたしの言い分が、あまりに哲学的で難解かつ高尚過ぎて・・・ではなく、ほとんど「真っ当な理性を持った人間には通じない言葉」で、また感覚で、しゃべっているからに他ならない。


S:現時点では私は, 精神医療とは, 自己がどのように在りたいかを, 対話によって助けるものであってくれれば良いと願っています.

自分がどのようにありたいか・・・自分が、どのように、在りたいか?

わからない。「自分がどのようにありたいか」とはどういうことだろう?

ハムレットのように、それが、" TO BE ? or NOT TO BE ? " という問いなら、まだわかりやすい。おそらく底彦さんの言われているのは、この " To Be " 或いは" Being " の在り方のことであろうが・・・


・・・底彦さん、いろいろと不躾なことを書きました。深くお詫びします。

わたしは底彦さんとは異なり、その苦しみは底彦さんの十分の一にも満たないにもかかわらず、ただただ疲れ果てています。そして今のわたしの心の中には「よくなる」という発想は全くありません。それは即ち「よくなってどうなる?」という意識と直結しているからです。

「苦しみからの解放」は「死」もしくは「全き狂気」以外にありません。

追伸

もう読まれたかもしれませんが、木村敏の『精神医療から臨床哲学へ』という本があります。わたしは未読ですが、「精神医療」から「臨床哲学」へ・・・これこそまさにわたしの求めているものだと感じています。無論その「哲学」の根底には、人間は生まれながらに「敗者」であるという発想が不可欠です。「大事なのは敗北者であるということを学ぶこと」そのような哲学にしか今のわたしの目も耳も向かうことはありません。





※わたしは時々「誰々さんへ」という記事を書きますが、それは決して、その宛名に書かれた人以外の意見を制限するものではありません。コメントはすべての記事に同じように開かれています。















2 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    最初に少し, 前回のコメントで書き切れなかったことを書きます.

    私は自分が, 鬱病という病の中でどう生きられるのかをずっと求めています. 私自身ではどうしようもないと感じられるような不安と沈鬱さがあるのです. だから先日の Takeo さんの書いた「自分は今どこにいて、どこへ向かおうとしているのか?」という一節に強く惹き付けられたのだと思います.

    ただ, 「病の中でどう生きられるのか」という問いかけ自体が内に持っている, 「生へのかすかな希求」は自分の中で確かなことのように思えます. それは, 過去のある日に希死念慮のままに行動したときに体が強く反抗した, その感覚を今でも覚えているからなのです. これを, 生物が元々持っている生存への本能と呼ぼうと, 生きることへの執着と呼ぼうと, あるいは別の呼び方をしようと何れでもいいのです. 正直なところ, 私自身にも心が求めたものか肉体が求めたものか無意識の力なのかわからないのです. ただ反抗したということだけが確かなのです.

    今のところ, 病の中にあって私の拠り所となるのは, この「生へのかすかな希求」の確かさだけです. 私は一つ一つの瞬間をこの心もとない確かさで繋ぎ合わせることによって生きています.

    ですから少なくとも現時点では, 私が生きているという行為はあまりに小さ過ぎて, 現代社会の中での自分というものを見つめることが非常に難しいのです. 枠組みが大き過ぎて, そこでの私はあまりにも無力です. 途方に暮れて暗く大きな不安の中に陥ってしまいます.

    > わたしは「現代社会の中で・・・」その後に「どう生きられるのか?」と、続けることはできない。現代社会でわたしの生きる余地は全くないと思っているから。

    この文章からは Takeo さんの現代社会への強い否定を感じます. 現代社会から Takeo さんが排斥されたのではなく, Takeo さんのほうから一方的に突き付けた No の一語です. 社会の仕組みがおかしいから, とか政治が悪いから, とかの個別の理由で社会に反発するのではなく, 社会の存在そのものを認めないまでの強い拒絶を感じます.

    負の方向かも知れませんが, これは Takeo さんの力だと思います. なぜこのような強い力を持つことができるのでしょうか. 不安定な私は, その強靭さの一端でも知りたいと思うのです. 畏れのようなものでしょうか.

    > また、しきりに精神医療を否定し続けるわたしの文章をどう感じていますか?

    これは「切れ切れに思うことなど、ノート (その1)」へのコメントで Takeo さんから頂いた質問です.
    私は, Takeo さんは精神医療そのものだけではなく, それを現代の社会に組み込まれたシステムとして, 社会全体への拒絶によって現代の精神医療も全否定していると受け取りました. 日本の精神医療の個別の問題の否定ではないのです. 全否定です.

    上にも書いたように, Takeo さんが内包するこの全面的な否定は, 固く冷たく重い, 巨大な石のようにも感じられます. 柔らかさというものが感じられません. 触れることも躊躇われるほどです.

    繰り返しになりますが, Takeo さんのこの, あまりにも強い否定がどこから来るものなのか, それを知りたいとも思います.

    私は Takeo さんにとても失礼なことを書いているのかも知れません. 許してください. けれどもそのように感じてしまうのです.

    > 「患者に適切なメッセージを伝えること」これはどういうことだろう。おそらく底彦さんの言うのは、「適度な運動を心がけてください」「なるべく栄養のある食べ物を食べるように」「少しでも疲れたなと思ったら休んでください」── そういうことだろう。
    > そうでなければ、たとえ中井・木村両医師でさえ、わたしの生き方に対し矯正も指示もできない。ではないか?

    私が意図したのはそういうことです. 主治医が診察のときに繰り返し私に言う「無理はしないでください」というメッセージを念頭に置いて書きました. また Takeo さんが挙げた「食事はちゃんととってください」「疲れたときには休んでください」ということもよく言われます. 主治医はそれらを繰り返し伝えることで, 私に最低限の生活を意識して一日づつを過ごすように示唆しているのだと受け取っています.
    これらは繰り返し伝えられることで, 私にかなりの程度「生活」というものを意識させてくれます. 食事をして眠る一日を過ごすということができそうに思えてきます. その意味で適切なメッセージなのです.

    > S:現時点では私は, 精神医療とは, 自己がどのように在りたいかを, 対話によって助けるものであってくれれば良いと願っています.
    > 自分がどのようにありたいか・・・自分が、どのように、在りたいか?
    > わからない。「自分がどのようにありたいか」とはどういうことだろう?
    > ハムレットのように、それが、" TO BE ? or NOT TO BE ? " という問いなら、まだわかりやすい。おそらく底彦さんの言われているのは、この " To Be " 或いは" Being " の在り方のことであろうが・・・

    私にもうまく表現することができませんが, 「あるべき自己の姿を見出だしたい」と言い換えることができるかも知れません. 私は不安定なので. けれども, これももしかしたら不正確な言い換えかも知れません. ごめんなさい. 自分でももう一度考えてみます.

    > もう読まれたかもしれませんが、木村敏の『精神医療から臨床哲学へ』という本があります。わたしは未読ですが、「精神医療」から「臨床哲学」へ・・・これこそまさにわたしの求めているものだと感じています。無論その「哲学」の根底には、人間は生まれながらに「敗者」であるという発想が不可欠です。「大事なのは敗北者であるということを学ぶこと」そのような哲学にしか今のわたしの目も耳も向かうことはありません。

    そのような本があるのですか. 図書館で貸し出しているようなので読んでみたいです. 木村敏氏の著作では『臨床哲学講義』という本が印象に残っています. 私には難しい記述もあり, どこまで理解できたかもわかりませんが, この本での鬱病に関する思索を押し進めることで, 私が陥った症状である「解離」とそれによる精神の破綻をうまく説明できるかも知れないと思いました.

    精神医療に対して哲学はどのような力を与えることができるのでしょうね.

    この問いは今, この文章を書いている途中に思い付いたので上記のような漠然とした形になってしまいました.

    心の病は, その成り立ち上, 治療の過程で患者さんに自分の気質や生まれ育ってきた環境などと向き合うことを要求する状況があります (カウンセリングや認知療法など). それは病に劣らず苦しく辛い場合もあるだろうと思います. だからこそ, それが哲学に結び付く余地が生まれると考えることは不思議ではないと思います. 今後の精神医療が脳科学・生物学・統計学などに基いてその姿を変えていくであろうにも関わらず, です.

    私は哲学を体系的に学んだわけでも哲学徒でもありません. 哲学については全くの無知ですが, 考えてみたいと思います.

    また話しましょう.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      わたしの質問、そして上記の文章を読み、更にこれまで底彦さんが読んでこられたすべてのわたしの日記を総合して、率直な意見、感想を聞かせてくださったことに感謝します。

      正直なところ、今のわたしには何もわからないのです。ほんとうに何も。

      「生きるってどういうことだろう?」というのは「思索」などではなく、今現在の「身体感覚」そのものです。それはひょっとしたら、底彦さんの感じられている、「自分は今何処にいて、何処へ向かおうとしているのか?」という疑問と重なるのか、それさえもわかりません。ただ、わたしの疑問はもっともっと単純なもののように思えます。

      おそらくどんな精神医学の本を読んでも、病んでいる主体、すなわち「私」或いは
      「私たち」が、なぜ生きているのか、いや、そもそも生きるとはどういうことか?ということから説き起こしている本はないように思います。その点が正に、(未読ではありますが)「精神医療」から「臨床哲学」へという言葉にわたしが強く惹かれるゆえんです。

      わたしは精神医療を否定しているのではなく、社会乃至世界を丸ごと否定しているのだ。

      なるほど、確かに、精神医療を単独で否定しているわけではないようだ、ということはご指摘の通りだと思います。その理由らしきものは、しばしばここで引用していますが、「世界にただひとり遺棄された者」という言葉があります、前後の文脈はわかりません。サルトルの言葉なのか、カミュの言葉なのかもわかりません。けれども、わたし自身、「そのようなもの」のひとりであると感じて来ました。棄てられたものが棄てた者を憎悪することは、わたしは自然なことだと思います。

      今日永山則夫に関する本を数冊、図書館でリクエストしました。

      これは皮肉でも何でもなく、わたしの苦しみなどは、底彦さんの人生に比べれば、蚊のさした程度のものに過ぎません。これは確信を持って言えます。

      でも、わたしの苦しみが、永山則夫や底彦さんの千分の一、万分の一だとしたら、そもそも、社会を否定するなんて烏滸がましいでしょうか?笑止千万でしょうか?

      ・・・・いえ、こちらこそすみません。今のわたしは全く正常なところを持っていません。

      ただ、底彦さんの感じられている疑問、

      >Takeo さんのこの, あまりにも強い否定がどこから来るものなのか, それを知りたいとも思います.

      という疑問には、このようにしか答えることができません。

      先に「生きるってどういうことだろう?」と書きましたが、わたしは少しづつ、「そもそもわたしは現実に存在しているのだろうか?」という懐疑に移行しつつあるようです。

      お返事に感謝します。
      まったく不十分な返答ですが、今のわたしにはこれが精一杯なのです。

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