2019年6月7日

「孤独」と「孤立」その1


先の投稿で引用した、精神科看護師の宮子あずさ氏の文章中に「孤立」という言葉が何度か出てきた。

「ある識者は、こうした発言は孤立した状況にある人をますます孤立させ、凶行に駆り立てる可能性さえある、と自制を求めている」

「一方で、孤立が人間を追い込むのも事実」

ここで、「孤立」という言葉を「孤独」と入れ替えても全く意味は変わらない。



わたしは以前から「孤独」と「孤立」の違いというものがわからなかった。そもそも孤独と孤立の間に違いなどあるのだろうか?

なるほど、広大な砂漠にひとり立ち尽くす者は、「孤独」ではあっても「孤立」とはいわない。
太平洋をたった一人でボートで横切るというのも、「孤独」ではあるが「孤立」ではない。
人類滅亡後、ただ一人生き残った者も同様だ。

一方で、学校で、或いはある集団の中でいじめられている人は、「孤独」であり同時に「孤立」している。
昨夜から山田花子の『自殺直前日記』(1996年)を読み始めたが、彼女が精神科病棟に入院中に書いたノートの中に、
「友達が欲しい、守ってほしい。寂しい。一緒に夢を見てくれる人が欲しい。」という
言葉がある。この場合も「孤独」と「孤立」は重なり合っている。

わたし自身にとっても、孤独と孤立は同じ意味を持った言葉であって、それは、可能な限り避けるべき「危険な」状態であるという認識を持っている。

かつて「こんなこと」を書いたが、今の心境はこのときよりも更に切実だというのは、特に瀬里香さんとのやり取りをよむと強く実感される。

「孤独」とはわたしにとっては正に「孤立無援」と同義なのだ。

一昨日紹介した齋藤美奈子氏の記事の前半部分を引用する



「凶悪な事件がニュースになるたびに思い出すのは1968年の「連続射殺魔」事件である。
堀川恵子『永山則夫 封印された鑑定記録』(講談社文庫)は百時間以上に及ぶ、精神科医石川義博氏の精神鑑定の記録(石川鑑定)から事件の真相に迫った衝撃的なノンフィクションで、犯行の原因を貧困とする従来の説を大きく覆す内容となった。
鑑定は主として彼の成育歴にかかわる。永山則夫は八人きょうだいの七番目として北海道で生まれ、青森県で小中学校時代を過ごすが、父は放蕩の末に家出、母も幼い子供たちを置いて出奔、姉は精神を病み、兄は弟を虐待。心に深い傷を負った永山は上京後、極端な人間不信と被害妄想で職場からの逃亡と自殺未遂を繰り返した。」

ここでも「孤独」と「孤立」は完全に重なっている。
「孤独」とは「孤立」以外のなにものでもないのだ。



肉体が意識という異物を抱え込んで断末魔の衰弱症状に陥っている現況は、しかし一度手放した超越的価値に擬似復古的にすがりつけば解決されるというほどお手軽なものでもあるまい。既成の神秘的体験を上昇的に志向するのではなくて、卑賤下等な感官の体験に向かって下降しながら意識を超越する恍惚に出会う方途もまたあるはずだそれは人間の肉体が玩具の無目的的な器具性に徹することによって、あるいは失われた聖なるものを操り手としてふたたび迎え入れる特権的な容器となることがありうるのではないか、という期待である。意識の干渉を超脱し、憑依状態のなかで晦冥な無意識の闇へと下降していく完璧な肉体は、かつてはたえず父なる神の明智に監視されていた。肉体が本質的に受動的な器具であることが、そこでは自明の理だったのである。
ー種村季弘「器具としての肉体」『種村季弘のネオ・ラビリントス4 幻想のエロス』(1998年)

「孤独・孤立」の唯一の対照物はいうまでもなく「他者」との「全き」「合一」。種村がいうような「エロス」以外にないのではないだろうか。

それはとりもなおさず、「わたし」が「わたしであること」を放棄する瞬間に他ならない。言い換えれば、「わたし」が「わたし」という「個別性」「一回性」「独自性」に捕らわれている限りは、「孤独」すなわち「孤立」から免れる方途はないのではないか・・・




















3 件のコメント:

  1. こんにちは、Blueさん。

    【孤独】=【孤立】かと云うと、わたしはさうでもないと思ひます。【孤立】というと【四面楚歌】のイメージがあり、砂漠や太平洋の真ん中に独りぼつちで放置された気分になりますが、つまり救いが無く絶望的な気分になりますがしかし【孤独】と云ひますのは時にのんびり味わうものだと思つてゐます。一匹狼の会とでも云いませうか。独りでバーのカウンターに座つて独りで呑むのは割と好きです。右隣や左隣に同じやうな人が居るのだけれど決してお互い干渉し合ふこともないと云ふ距離感が、とんでもなく安心できるのです。精神科の閉鎖病棟に入院したときもさうでした。人間の気配(他の人の声や音や匂いなど)を察知することに依つて孤立無援と云ふ絶望から救はれてゐました。

    なほ【孤立無援】と云ふ言葉はありますが【孤独無縁】と云ふ言葉は無いやうです。Blueさんは【孤立無援】の状態なのでせうか。誰かの援助・支援を求めて試行錯誤して立ち往生して更に右往左往すればそこそこ満足な生活を送ることができる…というわけでも無ささうですね。澄みません。あまり役に立つ言葉が出ません。

    急に話が変わりますがBlueさんの記事を読んでいたら急に【二十日鼠と人間】と云ふ映画をじつくり観たくなりアマゾンで中古のDVDを買ひました。届くのが物凄く楽しみです。結末は確か愛情に満ちた美しい殺人あるひは自殺ほう助だつたやうな気がします。

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    1. こんばんは、瀬里香さん。

      わたしの記事を読んでいたら、というのは、『バタフライ・キス』の話のことでしょうか。
      『二十日鼠と人間』は、以前瀬里香さんに紹介されて、以来興味を持っているのですが、なかなか見る機会がなくて。(「機会」は自分で作るものだ)などと誰かが言いそうですが(苦笑)

      他でも書きましたが、西部邁の本にあった、ミヒャエル・ハネケ監督の『愛・アムール』という映画も、やはりテーマとしては、愛ゆえに殺す=死を手伝う映画のようで、こちらも未見なのでいつか共々見てみたいと思っています。

      上の「その2」でも書きましたが、わたしの孤独と瀬里香さんの思う孤独の様相が違っていてもそれは当然といえば当然です。

      わたしの孤独が瀬里香さんの孤独と同じである必要もなく、瀬里香さんの孤独がわたしの孤独と重なる必要もない・・・などと言ってしまえば、まるで対話を拒否しているようですが、そういうつもりは毛頭ありません。

      わたしは孤独(孤立)という言葉を通して、現在の自分の気持ち、心境を表現しただけなのです。

      ただ、この間も同じことを書きましたが、瀬里香さんの好きな

      「わたしたちはみな世界の孤児。だから時々手を繋ぐ必要があるの」
      という言葉に、今のわたしはどうしても肯くことができません。
      繰り返しますが、それは否定ではありません。また拒否でもないつもりです。

      わたしには、「わたしと」手を繋ぐ存在というものが、少なくとも人間界に存在するとはどうしても思えないのです。無論その原因の大半は「わたしという存在」の在り方に起因するのですが。

      ただ、タヌキやキツネとだったら、ひょっとしたら、手を繋げるかもしれないという気持ちはあります。

      そういえば数年前に、「おしえてgoo」で、中国の自殺の名所で、自殺しようとする人たちを片っ端から救い出していた人について、「人は人を救えるか?」という投稿をしたときも、瀬里香さんとは意見が分かれた記憶があります。

      わたしにとって人を「救う」とは「魂の救済」の他ならず、それは不可能という意見でした。
      でもわたしはそのような「見解の相違ですな」で、傷ついたりはしません。
      何故ならわたしたちの場合はそれは表層的な相違でしかないからです。

      わたしはこういう意見ー異見を聞くのも楽しみにしています。

      何かまだ書き足りないことがあるような気がしますが、とりあえず送信します。

      コメントをありがとう。

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    2. こんばんは、瀬里香さん。

      昨日ふたつさんから、この記事についてのコメント、感想をいただきましたので、考えたことを少し書いてみます。

      わたしは「人の気配」というものが基本的に苦手です。
      わたしは過去に10人くらいの女性とベッドを共にしましたが、心から安らぎを感じたことは一度もありません。
      それは無論それらのほとんどすべてがゆきづりの、愛情の伴わない関係だったから、と言えるかもしれません。けれどもわたしはそもそも人を心から愛することができるのかと時々思います。そもそもそういう能力が欠如しているのだろうと思っています。
      そして情けないことに、そのような行きづりの関係であっても、その最中に歓び、法悦(苦笑)を感じたこともありません。

      「全き抱擁」とよく言いますが、実はわたしの真の安らぎ、安息は、風にそよぐ草原の中でただ一人、そんなところにあるのかもしれないと思ったりします。
      それは大自然からの「全き抱擁」です。
      だからこそ病院で死ぬよりも、野猫や野良犬のいるような、風を感じることのできる河原で死にたいと思うのです。

      わたしはブラッサイの撮った夜の路地裏で、客を待つ「私娼」というものの姿に惹かれます。
      そこに哀しみがあるからでしょう。そして何よりも写真自体に、「闇」があるからでしょう。

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