昨日の投稿「迷い(ブログの閉鎖について)」に関して・・・
ブログを「閉鎖」と書きましたが、厳密に言えば、書き手だけが見ることのできる、「パソコン上の日記」のような「非公開」のブログにしようか、という迷いです。
コメントのないブログというのは味気ないものです。特にわたしのように、母以外の他人と、メールであっても、電話であっても、つながりの一切ない者にとっては。
昨日は、「母も主治医も心配している・・・」と書きました。本当のことを言うと、あれは嘘です。精神科にはもう半年以上行っていません。睡眠薬など、最低限必要な薬は、母に取りにいってもらっています。これは内科も同じ。(眼科だけは自分で足を運ばなければなりませんが・・・)
理由は簡単。電車に乗ることができないからです。更に付け加えれば、「精神科に行く意味」が分からないからです。なんども繰り返し書いているように、「良くなる」とか「元気になる」という意味が分からないからです。
わたしはよく外界を「戦場」に譬えます。けれども、いつか戦争は終わる時が来るでしょう。ところが、わたしにとって苦痛の源であるデジタル・ワールドは、戦争と違って終わりがありません。
余談が長くなりました。
◇
ブログのコメントについては、先の投稿に書いた通りです。
同調だけのコメントは要らない。自殺を勧めるコメントも要らない。「生きてください」という言葉も無用・・・
わたしは質の高い見解意見を聞きたいのです。ただ、わたしは今、返事が書けません。
そしてFさんのように、「返事なんてどうでもいいんです」と言われても、時間をかけて読み、時間をかけて書いてくださったコメントを、形として「無視」するようなことは、どうしても気持ちに引っかかりがあるのです。
現在は一桁の閲覧者・・・と書きました。その五人なり六人なりが、たとえば「希死念慮のある者に自殺を勧める精神科の看護師」なのか「引きこもりは人生に対する罪である」と信ずる哲学愛好家、及びその腰巾着なのか、或いは自分のアクセスが単に反映されているだけなのか。(「ブロガー」は、「書き手のコンピューターからのアクセスはカウントされない」という設定があるにもかかわらず、わたしが特定のページを観たすぐ後に確認すると、その投稿のPVが必ず一つ増えています。)
あれこれそんなことを思い、このブログを公開している意味が分からなくなってきているのです。
これから二日間、コメント欄を開けておきますので、どなたでも、このことに関して、忌憚のない意見を聞かせていただければと思います。
ただ、しつこいようですが、仮にコメントを頂いても、やはり返事をお約束することができません。
「対話の成立しないコメントってそもそもなんだ」と言われれば、返す言葉もありません。
とにかく、もし死ぬほどお暇でしたら、このブログについて、また、コメントの意味についてご意見をお聞かせ願えれば幸いです。
わたしは今、ほとんど考える力がありません。
Takeoさん、こんばんは。
返信削除少なくとも、ぼくは、このブログを毎日見ていますし、これからもきっとこのブログが見られる限りは見続けると思います。
『なぜ?』
他に見られるものがないからです。
ぼくにとって、このブログは、ただ一つの安心して見られる(居られる)ブログなんです。
ぼくは、Takeoさんにも負けないくらいに「既成概念」と言うものが嫌いなので、そういう「既成概念」や、「固定観念」に縛られているものは、どうしても見続ける気がしませんし、まして、そういう単なる社会通念のようなものを、独自の考えだと思いこんでしまっている人とは、どうしても話が出来ません。
でも、ほぼすべてのブログは、そういうモノですし、その中でも、そういう単なる社会通念をそれこそが独自の考えであると堂々と主張し、そういう主張を振り回して、人を叱責するような調子のあるブログはたくさん見てきましたが、はっきり言えば、関わりたくもないし、何の意味も見出せませんから。
それから、これは、前から言おうと思っていたんですが、このブログに入っていたコメントは、Takeoさんが生み出しているものだと、ぼくは思っています。
他の方たちは、ともかくとして、ぼくの場合は文学的な素養や、学術的な要素をほとんど持ち合わせていませんから、そういう意味での「いいコメント」なんて、かけるわけがありませんよね。
(ぼくから見れば、ほかの方たちのコメントには文学的素養の裏付けを感じますが、それでも、Takeoさん自身が意味のあるコメントを引き出しているのは、同じじゃないでしょうか)
これは、Takeoさんも、何となくわかっているんじゃないかと思いますが、ぼくの文章に関して言えば、このブログのコメントの時だけ「まともな文章」が書けていると思います。
これは、おそらくTakeoさんの影響以外にないと思いますよ。
ぼくの場合、「ブルースの話」に関してはブルースマンたちの言葉から受け取ったものをそのまま書いているだけだし、Takeoさんの記事についてのことでは、Takeoさんの記事から受け取ったものをそのまま言葉にしているだけです。
まぁ、翻訳機みたいなものです。
つまり、もしも、ぼくのコメントが、何らかの意味を持つ場合は、それはTakeoさんの記事を翻訳しただけですね。
ぼくは、今のところ、Takeoさんの独自性をはっきりと認識できているので、あまり見間違えることはないと思います。
そして、これは、前にも言いましたが、「彼ら」には、「独自性の強いもの」は絶対に伝わりません。
(例えば、「スマホ」が嫌だという「ごくマトモな主張」ですら伝わりませんから)
それを伝えるには、「彼ら」の一人に対して、誰か一人の人生が犠牲に成るほどの代償を要求されることに成ります。
でも、残念ながら、彼らには、その代償を払うだけの魅力がないんです。
だから、今後も「彼ら」は、誰からもそれを与えられることはありません。
『なぜ?』
彼らは「自分の言葉」で話していないからです。
彼らの使っている「共通言語」、それこそが「既成概念」です。
ブログのような個人配信の媒体で、「既成概念」を振り回すことほど無意味なことはありません。
ただ単に「既成概念」にとらわれずに、「自分の言葉」で話せばいいだけなんだと思いますが、「彼ら」にはプライドがあるので、それが邪魔して出来ません。
要するに、「既成概念」は社会の中で「通念」として認められているものですから、それに従って話をしている限りは、めったに馬鹿にされたり低く見られたりすることがないので、安心なんだと思います。
(もし、馬鹿にされても、みんなで寄ってたかって「既成概念攻め」にすれば、「自分の貧相なプライド」ぐらいは守れます)
少なくとも、このブログの中で、そういう違和感を感じたことは、一度もありません。
それが、ぼくが、このブログを見続ける一番の理由です。
このブログが非公開に成ったら、おそらく、ぼくは絵だけのブログを二つだけ見るように成ると思います。
(その二つのうち一件のブログ主は亡くなってしまいましたし、もう一つも現在は更新されていませんが見続けていますし、これからも見られる限り見続けるでしょう)
前に、Takeoさんが死んでしまったら、悲しむでしょうと書きましたが、Takeoさんが生きていることすら確認できないことは、それと同じぐらい悲しいことです。
最後に、ぼくは、Takeoさんが、『死にたい』と言いながら30年生きても40年生き続けても、歓迎しますし、それを嬉しいとすら思います。
それが、Takeoさんにとっての「苦悩」を意味していることは別の意味で悲しいことですが、それが「苦痛」でなければ、生きていてほしいなと思っています。
そして、これも「彼ら」には絶対に伝わりません。
では。
こんばんは、ふたつさん。
返信削除わたしは今、(今この瞬間、という意味ではありません)途方に暮れています。
木村敏のいうように、正に「生まれてきた」或いは「生きている」ということは、「取り返しのつかないこと」だなという実感に押し潰されようとしています。
わたしはよく「生きる意味」とか「理由」と言いますが、それはなにも「哲学」なんかではなく、要は、「生きている(生きられる)動機」「生きていて楽しいこと」が何ひとつないにもかかわらず、「生きている」ことへの、素朴な、そして深刻な疑問なのです。
作家の深沢七郎の「生きてることは暇つぶし」という言葉は有名です。しかし・・・
おそらく「これがあるから」生きているなんて宝物を持っている人の方が遥かに少ないのでしょう。そして彼らだって、時に、或いは屡々「いったい何のために生きてるんだろう?」というエアポケットにはまることだってあるでしょう。けれども、年がら年中そんなことで頭を悩ませてはいない。悩んではいられない。「現実の生活」があるからです。
「現実の生活があるから」つまり西部邁の言葉を借りれば「リヴィング」(Living)=「生活」があるから「ライフ」(Life)=「生命」「生きること」についてさほど深刻に思い悩まずに済んでいるのです。
◇
「自分の言葉」というものが厳密な意味で存在するのかは措いて、「彼ら」の文章を読んで、いつも強く感じるのは、誰でもが使う言葉をよく使っているなということ。
だから内容以前に読むのに抵抗があるのです。わたしが敢えて、特に「FさんSさんの文章が美しい」と言ったのは、ふたつさん、底彦さんの文章に、「~みたいな」とか「半端ない」などの、わたしにとって馴染みのない日本語を使っているのを見たことがないからです。
わたしの考え方は保守的ですし、相手とのコミュニケーションの道具である(それが「ブログ」であっても)「言葉」選びには慎重にならざるを得ません。硬いといえば硬いのですが、「言葉も時代共に変化してゆく」という考え方にわたしは与しません。
いい文章を書くのに、いちばん必要なのはセンスであって、文学的素養などは二の次三の次だと思っています。要は特定の相手に向かって、或いはどこかで見ているかもしれない誰かに向かって、誠実に語れるかどうかがすべてです。
文字の上手い下手と同じように、文章も、一番重視すべきはハートです。ソウルです。
拙い文章でも真剣さが伝わってくる文章をわたしは愛します。
底彦さんを失ってしまったのは残念ですが、わたしのブログの記事がこんな調子では、致し方のないことだと思っています。
拙い返事しか書けませんが、コメントをありがとうございました。
いろいろ考えてみます。少なくともまともな読者が一人はいるということが分かっただけでも収穫です。
改めて、ありがとうございました。
Ciao Takeoさん
返信削除頂いたコメントにお返事しなければ、などと言う事は、いわゆるその辺の「仲良し」ブログで盛んに行われている事で、私はその書かれた記事に 「すごいですねえ」とか 「その通りですよねえ」とか 「ステキですねえ」とか、ただ表面的に迎合し、その迎合にいい気分になってまた毒にも薬にもならないお返事を書くと言う動作にいささかうんざりしていましたから、、(つまり反論するだけのものを筆者から受け取っていなければ、反論する勇気もない、 つまりそんなところで波風立てないで、まあ、適当に、、という。 私はそこに私の考える、ブログというものの意味合いを全く見出せないのですね。)
ですから、この場合 Takeoさんが、コメントをもらって、それに返事を書かなくても、私は全然問題ないと思います。
少なくとも、Takeoさんと言う方のブログとそこに来る方達(もちろん私も含め) の間では、そう言うの重要じゃあないと思うのです。
なぜって、とりあえず私に限って言えば、私はTakeoさんの文章を読んで、その時点でTakeoさんからのメッセージは受け取っているわけで、それに反応した私の思いを書かせてもらえるとしたら、それをTakeoさんが読んだ。と言う事で 、私にとっては、それで充分だからなのです。
それから、前回の私のコメントに対するTakeoさんのお返事にあえて私の意見を書かなかったのは、「あなたは強いから、私はあなたほど強くない。」と言われることに、いささかうんざりしているからです。
前にも話したかもしれないけれど、私は生まれてきたくなかった自分を覚えています。
だから、いまだに少し嫌々生きています。
人々が平気で行う事とか、執着することに私はほとんど無関心で、でも社会に少なからず属しているとそういう面倒臭い事を「私も」やらなければいけない時があり、そうして
私が社会に対して、もしくは社会の大半に人々が普通に行なっている事柄に関して、そうじゃない、それはおかしいと疑問を投げかける、反論するもしくは拒否する事は、ほとんどの人に理解されないという事。
今日亀と散歩してて思ったんだけど、私も亀たち同様 思い甲羅を背負って生きてるなあという事。
私にとって、肉体は重いのです。
そして、もう一つ
私の生き方は私が決める権利と責任があるという事
だから、私以外の誰かに、こうしろ、とか こうするな。とか言われるいわれはないし、だって彼らは私でない限り私の事を私以上に知る事はできないわけですから、
そういう人々の責任のない、その場任せの言葉など聴く意味もないと思っています
だからね
ふたつさんも仰っていたけれど、
Takeoさんがいつまでもこうして嫌だ嫌だと言いながらでも、ブログを書きながら生きていてくれたらそれは私にとっては嬉しいけれど、それがTakeoさんの苦痛を意味するのであれば、私は私たちのために生きていてくれとは言いません
言えないでしょ? Takeoさんの真の苦痛など私たちが完璧に理解する事は不可能なのですから。
前のコメントにも書いたけど、私はTakeoさんという人の人間性を愛し、信頼し、リスペクトしていますから、Takeoさんのジャッジをもまたリスペクトします。
でもね、コメント欄は開けておいてくれたら、私は嬉しいです
コメント欄閉められてると、なんか拒否されてるような、ちょっと哀しい気持ちになりますから。
私も毎日見にきてますよ、知ってるでしょ? 笑
こんばんは、Junkoさん。
削除Junkoさんでも、ふたつさんでも、底彦さんでも、瀬里香さんでも(順不同)それぞれに独自のスタイルを持っています。でも、それぞれが別のスタイルを持っているから、コメントを書くのが大変、ということはなく、寧ろ判で押したような同じような内容のコメントがずらりと並んでいると、それを見ただけでうんざりしてしまいます。
とにかく「機械的な作業」が苦手なのです。つまり、冒頭にJunkoさんが書いているような、空疎なやり取りしか存在しないのなら、わざわざみなさんに意見を求めるまでもなく、黙ってコメント欄を閉じます。
わたしが何故コメントに拘るのか。それは、わたしの書いたこと、つまりわたしの考えや美意識、感受性を、それぞれがそれぞれなりの視点解釈で受け取り、「僕は、私はこう思った」と、わたしに伝えてくれる。そして、それを読めば、わたしの中にもまた新たな視点が生まれる。それを伝えたいのです。つまりなんというか、わたしの多くの投稿は、書きました。読みました。で完結はしないのです。言い方を換えれば永遠に未完の作品のようなものです。そしてある点では、ディスカッションの場でもあると思っています。
しかしそれは理想であり、またこれまではある程度までは達成できていたことかもしれませんが、今は、わたしが自分の想いを綴り、それについて、主に四人が、こう思ったと感想を聞かせてくれる。そしてわたしがそれを読む。
今の状態で無理して返事を書くよりも、そういう経緯で「対話」「会話」は成立したのだと考えてもいいのかもしれないと、Junkoさんの言葉を読んで思いました。
「こうありたい」という思いが、必ずしもいつも、いつまでも続けられるわけではありませんから。
◇
中段に書かれていること。
もしJunkoさんが、そもそもそのような人でなければ、このようなブログに目もくれることはないでしょう(苦笑)
>私も亀たち同様 思い甲羅を背負って生きてるなあという事。
うん。だからわたしは亀の歩みに、なにか心を打たれるのでしょう。
「肉体が重たい」という感覚は、わかります・・・わかると思います・・・
◇
最後の部分ですが、まったくその通りです。言い方、表現の仕方はどうであれ、「生きろ」と言うことは、「このままくるしみつづけていろ」ということと同じです。
多くの人はそのことに気づいていないようです。
>Takeoさんの真の苦痛など私たちが完璧に理解する事は不可能なのですから。
それはまったくその通りです。
悲しいことです。悲しいけど、引き留めることはできません。「もう楽になっていいよ」というやさしさだってあるのです。
ちょっと言い過ぎかもしれませんが、「死なないでください」っていうのは、やはり軽々しく言ってはいけない言葉だと思うのです。といって、難しいのはその人(言葉を発する人)に、相手に対する基本的な愛情があるか、ということです。
「最終的にはあなたの人生なんだし、あなたが決めることなんじゃないの」というのは突き放された感じがします。
ややこしいけど、同じことを言っているように見えても、言葉の選択次第で、それは「同じこと」ではなくなるのです。
勿論誰も、相手が自分の言葉をどのように受け止めるかを予め把握出来はしない。
けれども、根底に相手への愛情が、敬意があるか、どこまで相手の心に寄り添えるか・・・
つまるところ言葉の限界というものをあまり感じない人をわたしは信用できないのです。
言葉の持つ殺傷力というものに鈍感な人も同様です。
だからわたしができることは、せめて、できる限り低いところから言葉を発することくらいだと思っています。それが実現できているかどうかは疑問ですが・・・
>でもね、コメント欄は開けておいてくれたら、私は嬉しいです
コメント欄閉められてると、なんか拒否されてるような、ちょっと哀しい気持ちになりますから。
私も毎日見にきてますよ、知ってるでしょ? 笑
ありがとう。
率直な言葉、素直にうれしく思っています。
「返事」云々は大目に見てもらって、コメント欄は開けておきます。
このようにダイレクトに言ってもらえるととてもうれしい。
>私も毎日見にきてますよ、知ってるでしょ? 笑
でもね、底彦さん、ふたつさん、瀬里香さんの、立ち寄った形跡はブロガーの「統計」には反映されていないんですよ。
このブログは使いづらいし、わかりにくいのですが、止められないのは、第一に広告が一切無いこと。そして、比較的自由に「自分のブログ」をデザインできる点です。
それに比べれば統計やPVの正確さなど問題ではありません
コメントをありがとうございました。またいつでも気が向いたら好きなことを書きこんでください。
こんにちは, Takeo さん.
返信削除文章から Takeo さんが苦しんでいること, 迷っていることが想像できました. そしてどうしようもなく疲弊しているであろうことも.
Takeo さんには休息の時間が必要なのではと思います. けれども, それができるのならばこのような悲痛な文章は表われなかったのでしょう.
読んでいて混乱が伝えわってくるようです. Takeo さんはしばしば「狂気」という言葉を使いますが, この混乱がそれなのかも知れません.
それでも, 私には Takeo さんが紡いだ言葉と綴った文章はとても美しいと感じました. 他人の苦しみを美しいと表現することは大変無礼なことと思いますが許してください.
私が受け取った美しいという感覚は, Takeo さんの中にある狂気でも病でもない, 中心なのではないだろうかと思うのです. Takeo さんはほぼ毎日, このブログともう一つの絵画のブログを更新されていますよね. どちらも私は見るのを楽しみにしています. それは Takeo さんが, 自ら「嫌い」と明言するネットの猥雑から発見した絵と, 自らの混乱から拾い上げた言葉によって作り上げた作品ではないですか.
ブログというものは表現になり得るのですね. こんなことはきっとすでに誰かが何処かで数え切れないほど言っていると思うのですが, そういう表現された作品として私は Takeo さんのブログに美しさを感じたのだと思います. 日々の時の流れ, 更新された日にち, 引用された詩や文学, 絵画や写真, 綺麗な言葉と汚い言葉, それらすべてが複雑に混じり合った, 生きている表現作品なのだと感じています.
私はずいぶん失礼なことを書いています. もう少しだけ続けさせてください.
ブログについて Takeo さんは非公開にしようか迷っている. 今後コメント欄はどうなるのか, ブログは閉鎖されてしまうのか, そういうことを現在の Takeo さんは判断できないのではないだろうか, これらは私にとって気になる事柄です.
そして, Takeo さんの心の病が如何なるものなのか私にはわかりませんが, 状態が酷いときには冷静な判断や決断ができないことは私自身にも経験があります.
けれども, どのような判断をしても, それでもいいと思うのです. 非公開になっても, 閉鎖になっても, Takeo さんはおそらくこのブログを書き続け, 作り続けるのではないかと思うからです. Takeo さんの中に絵画を見出だすことや文章を書くことへのどうにも強い希求があり, それは「眞實」であるに違いないと感じているからです.
いつか私たちがそれを目にすることができるかも知れないし, コメントを寄せることもできるかも知れないと思っているのです.
まとまらない文章でごめんなさい.
できることならば, 少しでも休んでください. Takeo さんの心がほんの僅かでも安息の時間を持てるように祈っています.
こんばんは、底彦さん。
削除先に底彦さんは、このブログに惹かれながらも、やはり越えられない(越えてはいけない)一線が存在すると仰っていましたね。
コメントを閉鎖したこともそうですが、最近の投稿が「荒れている」というのは、過去の比較的おとなしい(それゆえにふたつさんなどは却ってあまり惹かれないという)時期の投稿を読まれている底彦さんは、強く感じているだろう、そしてもう底彦さんの「限度」は越えているだろうと思っていました。
思いがけずこのようにコメントを頂き、ほんとうにうれしく思っています。
>他人の苦しみを美しいと表現することは大変無礼なことと思いますが許してください.
わたしは苦しみを美しいと思う者です。そのことは底彦さんもすでにご存じのはず。
わたしにとって「無礼」とは、基本的な誠意の欠如。そして言葉を軽々しく扱うこと。つまり自分の書いたものに自分の全体重の乗せていない無責任な言葉たちのことを言います。
わたしの苦しみから生まれた文章を美しいということは無礼でも何でもありません。
それは無駄な苦しみではなかったということですから。
「ブログ」はわたしの「作品」です。仮に引用多く、100%人の画で埋め尽くされていたとしても、それは「その人の作品」足り得ると思います。
無数にある素材の中から、特定の感性がピックアップした物の集積。それが「作品」でなくて何でしょう。
前にも書いたかもしれませんが、時に、「このブログは自分が生きた証し」と書かれたブログを見かけます。滅多に更新されていなくとも、書かれている投稿も短く、特別なことが書かれているわけでもなくとも、わたしはそれを「彼・彼女」の作品であると思っています。
◇
以前底彦さんが「怒り」について話していましたね。
最近のわたしは怒ってばかりです。そしてほんとうはもっともっと「汚い言葉」を使てもいいと思っています。
わたしは所謂「出来た人」「大人」ではないので、「馬鹿には馬鹿」と言わずにいられないのです。この場合「馬鹿」とは「自分を利口者だと思っている者」たちの謂いです。
わたしは「負け戦」が嫌いではありません。寧ろそこにこそ自分のアイデンティティーを見出す者かもしれません。言い換えれば、わたしは「勝者」になること「勝つこと」になんの魅力も感じないのです。
◇
「ディス・オリエンテーション」・・・日本語では「失見当識」というらしいのですが、要は、自分が今、何処にいるのかがわからない状態のようです。
わたしにとってブログを書くということは、自分の位置を確かめる作業であるような気がします。
「自分は今とても疲れている」「自分は今非常に怒っている」「自分は今深い悲しみを感じている」「わたしは今とても孤独だ」──そういう「今の自分」を表出することで、自分を鏡に映すのです。
そして、底彦さんたちの反応もまたわたしの「鏡」なのです。
つまり蝙蝠が、洞窟の闇の中で、声(超音波)を発して、それが周囲の壁にぶつかって撥ね返ってくる。それによって、自分の位置を知るのと同じ原理です。
ですから、やはりコメントが全くない=(無くす)ことはできませんでした。
最後に「作品」ということに関していえば、これは全くわたしの身勝手な希望に過ぎませんが、わたしのこういう拙い返事、そして底彦さんたちのコメントも、このブログという作品の一部を成しています。
みなさんに、他の三人のコメントを読んでいただければ、というのがわたしのわがままな希望です。
コメントを本当にありがとうございました。
アートのブログに関しては、また改めて書きたいと思っています。
底彦さんにも、心穏やかな日が(時間が)一刻でも多いことを願います。