ふたつさん。敢えて「私信」という形をとりました。というのも、わたしには最早このブログを読んでいるのはあなた以外いないように思われるからです。尚「私信」といっても返事を要求するものではありません。
わたしは「吊るしの背広・・・」という投稿で以下の歌詞を引用しました。
不良少女になる 素質もない私は
平凡な女の子 その他大勢なの
わたしはしかし、不良どころか、平凡な、その他大勢にすらなれませんでした。
「キチガイ」も僭称なら「平凡な奴」も思い上がりです。
わたしは昔から、自分を罵倒する癖がありました。それは言葉による、自傷行為の代償であると思っています。また過去に何度も書きましたが、わたしは自分にも何かしらよいところがあるとは思っていないのです。ですから例えば面接などで「あなたの長所は?」などと訊かれると、絶句するしかないのです。まあ強いて言えば、その「正直さ」が長所、といえなくもないのかもしれませんが・・・
謙遜を装いながら自慢する人の気持ちを理解することはできませんが、かといってそういう人たちを軽蔑もしません。人間て、自分を少しでもよく見せたいものなのだと思います。逆にわたしの方がいびつなのです。
◇
ところで、『自殺直前日記』に、このような高市さんのお父さんの回想があります。
「山田花子はジーコ内山さんのライブに行った時に配られたアンケート用紙に「人生1回きりなんだから、どんどん好きなことやった方がいいですよ」と書いたという。山田花子は、妹と一緒にバンドを組んでライブハウスに出演した。演劇もやった。同人誌を作り、エッセイを書き、イラストも描いた。そして何よりも漫画を描いて、数は少ないけれども、どんな有名漫画家でも出会えなかったような熱烈な支持者に巡り合えた・・・」
顧みて、わたしは自分の人生に於いて、或いは自分が属するこの世界で、「好きなこと」を何ひとつ見つけることができませんでした。わたしの世代はいわゆる新人類と言われた最初の世代です。そしてわたしは山田花子とは対照的に、所謂「三無」主義者=「無気力」「無関心」「無感動」であったのだろうと思うのです。
わたしは何をしていても、ほんとうに「アアたのしい!」「アア面白い!」と思った記憶がありません。
だとすれば、わたしに独自性がなく(そういう意味では平々凡々で)、また山田花子のような、足と感性で稼いだ「引出し」がないのは当然すぎるほど当然です。
わたしがつまらない人間であることが厳然たる事実であるのは、なによりもこのわたし自身が、自分の生きている世の中を面白いと思ったことがないからです。
『八本脚の蝶』の中で二階堂奥歯はこう書いています。
「生自体には根拠も目的もないということを自明のものとした上で、「あー! 〇〇ほしい!」「✖✖したい!」という小さな(長いスパンのものも、短いスパンのものもある)欲望に引っ張られて私は日々をすごしている。
(それらは「〇〇を手に入れるまでは生きていよう」「✖✖するまでは生きていよう」ということと同義だ)。」
わたしには昔からこのような「欲求」「欲望」「すらも」なかったような気がします。
不悉
追伸
今日夕方、ベランダ(?)に出て、夕空を眺め、夕刻の風を浴びていました。
風ってこんなに気持ちのいいものなんだと、改めて感じました。
けれどもわたしは外に出ることができません。何故なら外にはスマホバカがいて、歩きたばこバカがいて、アイドリングバカがいて、スマホバカがいて、どこからかたばこの煙が漂ってきて、エンジンをかけた車の中ではバカがスマホをいじっていて・・・
◇
※注 わたしのブログでは、一昨日12日の訪問者8名。本日13日の訪問者4名と表示されています。このブログでは、どのサイト(URL)から訪れたかが表示されますが、かつて個人のサイトのURLが表示されたことはありません。このブログへの訪問者が一番多いのは、com.google.android.googlequickse、次がwww.google.com、これはほぼ毎日同じです。
つまりコメントがなければ、誰が来ているのか全くわからないのです。たまにgoogle.co.jp/、yahooなども見かけますが・・・
上記の記事を読めばわかるように、わたしのブログなど、そもそも訪問者がいること自体が不思議なくらいなので、「コメントはないけれど、誰々さんは読んでくれているはず」などとどうして思えるでしょうか。
こんにちは。
返信削除Takeoさんは、「欲求」も「欲望」もないとおっしゃいますが、初めからないモノを「希求」することはないような気がします。
これは、ぼくの勝手な想像ですから、的外れかもしれませんが、たぶん、Takeoさんに不足しているのは、「満たされること」だと思います。
「まったき抱擁」と言うのは、その「満たされること」の象徴であるように思います。
Takeoさんにとっての「満たされること」が、何時、何処で、また、どうして失われてしまったのかは、ぼくにはわかりませんが、ぼくに想像できるのは、Takeoさんが、「与えられるべきもの」を与えられなかったという思いを持っているであろうということです。
一般的に言って、人は、自分に「与えられるべきもの」を求めるように出来ていると思います。
たとえば、「差別」は、そういう「与えられるべきもの」を奪ってしまうものだと思います。
「虐待」もそうですし、極端な「貧困」もそうだと思いますし、「戦争」などもそういうモノだと思います。
そして、そういう時に、人間は、必ずと言っていいほど「自分にとってソンなこと」をするようになります。
要するに、自暴自棄に成ってしまうんだと思います。
ぼくは、それを当然のことだと思いますので、責める気にはなりません。
むしろ、そんな状況の中で、「優等生」でいられることの方が、非人間的なことのような気がするくらいです。
だから、ぼくは、そんなTakeoさんの自暴自棄を否定する気はありません。
と言うか、どちらかと言えば、肯定的にとらえています。
ここから先に、ぼくが言えることは、もうほとんどありません。
でも、ここまでは、言い切ることが出来ます。
ぼくは、そのTakeoさんの自暴自棄を肯定します。
それが、「平凡」であるか、「非凡」であるか、また、それが、「キチガイ」であるか、「マトモ」であるか、そんなこととは無関係にです。
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ここで、またブルースの話です。
これは、Takeoさんもある程度はご存じのことかもしれませんが、古い時代のブルースマンたちは、ぜんぜん、有名人でもありませんでしたし、それどころかプロのミュージシャンだったとすらいえない場合がほとんどです。
たとえば、ロバート・ジョンソンのような人ですら、そういう感じです。
なかには、きつい肉体労働だけは免れられるくらいの「日銭」を稼げた人も居たでしょうが、ほとんどの人が、労働しながら、「ホーボー(無賃乗車などで放浪を続けること)生活」を送っていたそうです。
つまり、彼らは、何一つ自分を肯定的にとらえられるような要素を持たずに「帰る場所」もなく、「家」もなく、あてどなく漂い続けた人たちなのです。
ひょんなことから、彼らの中のごく一部の人が、その後トンデモナイ有名人に成って行った、ビートルズやローリングストーンズなどのロック・ミュージシャンたちからリスペクトされたことにより、有名になり、ブルース・ブーム(’60年代くらいの)で、「再発見」されることに成りました。
サン・ハウスは「再発見」されたとき、ニューヨーク州のロチェスター駅で、ポーターをしていたそうです。
そのほかにも、自動車整備工をしていた者や、床屋、洗濯屋などほとんどの者が、プロのミュージシャンなどとはかけ離れた状態で「再発見」されています。
スリーピー・ジョン・エステスのように、目も見えなくなっていて、極貧で死にかけていたところを「再発見」された者もいたと言います。
(ちなみに、彼は、その後、奇跡の来日を果たしましたが、その時、彼のギターに取り付けられていたカポスタートがチビた鉛筆だったというのは有名な話で、来日時に出されたアルバムのジャケットにも写っています)
今、振り返って、彼らに何か責任がありますか?
彼らの先祖が、「奴隷」として狩られて、アメリカにつてれてこられたことは、彼らの責任ですか?
彼らが、奴隷解放によって、むしろ「容赦ない差別」と言うフィールドに、何の拠りどころもなく、ただ放り出されて、そこでの「容赦ない差別」の中で、自暴自棄に成り、故郷を捨て、「ホーボー」となったことは、彼らの責任ですか?
そこで、唯一の心のよりどころとして、ブルースを求め、放浪しながら『もうどうでもいいよ』と思って生活していたことは、彼らの責任ですか?
ましてや、どこの誰だかも知らないイギリスと言う国の若者たちが、自分たちのブルースを物好きにも好きになってくれて、いきなりスポット・ライトを浴びせられることに成ったことは、彼らの責任なんでしょうか?
それらの事実の、いったいどこに「彼ら」が関わっているというのでしょうか?
それなのに、なんで、彼らが、白人聴衆の前で歌わなければならないというのでしょう?
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話が飛躍しすぎだと、言われるかもしれませんが、ぼくは「現在」と言う時代全般に、これと同じようなことを感じているのです。
だから、「引きこもり」も「精神障害」も「テロリズム」も、どれも、否定できません。
ただただ、『できることなら、誰も、死ぬほどまでは苦しまないように成らないだろうか?』と思うことしかできません。
そして、ぼくは、百年後には、きっと、これらのことを、どこかの誰かたちが、『今、振り返って、それは彼らの責任だったのだろうか?』と言ってくれるであろうことを願うことぐらいしか出来ることがないことを、いつも不甲斐なく思っているわけです。
だから、ついついTakeoさんにも、『しぶとく生きていてほしい』と願ってしまうわけなのです。
では、また。
こんばんは、ふたつさん。
返信削除>たぶん、Takeoさんに不足しているのは、「満たされること」だと思います。
>「まったき抱擁」と言うのは、その「満たされること」の象徴であるように思います。
なるほど。なんだかそんな気もします。しかし同時に「充たされる」ってどういうことなんだろう、という思いもあります。かつてわたしは「充たされていた」ことがあっただろうか?
また、誰か、「充たされている」という人、或いはそう言える人っているのだろうか?などとも。
全き抱擁への渇望こそ、充たされることへの何よりの欲求ではないか。と言われれば、確かにその通りだと思います。
>Takeoさんにとっての「満たされること」が、何時、何処で、また、どうして失われてしまったのかは、ぼくにはわかりませんが、ぼくに想像できるのは、Takeoさんが、「与えられるべきもの」を与えられなかったという思いを持っているであろうということです。
ふたつさんは、「失われた」と仰います。けれども、失うというからには、それまでは持っていたということになります。わたしは「充たされた時」を一度でも持ったことがあるのでしょうか。
またわたしに「与えられるべきもの」なんて存在するのでしょうか?
更に「与える側」はどこまで、またいつまで与えるべきなのでしょうか。
そして「与えられるべきもの」とは生涯同一のものでしょうか?
なんだろう、わたしは「充たされた時」というのもよくわかりませんし、「与えられるべきもの」が何なのかもわかりません。さらに、
>たとえば、「差別」は、そういう「与えられるべきもの」を奪ってしまうものだと思います。
「虐待」もそうですし、極端な「貧困」もそうだと思いますし、「戦争」などもそういうモノだと思います。
わたしは何かに対して深い喪失感を、また欠乏感を感じたことがあったのか・・・
つまり「自暴自棄」になるような大きなダメージを何によって受けたのか?
わたしは山田花子のように「いじめられた」経験も、また「恋をした」こともありません。
Junkoさんの言葉を借りれば、ずっと「不在者」としてこの世に「在った」ような気がします。
わたしのこととは離れても、自暴自棄の者を肯定するという哲学・価値観。いいですね。
わたしも多分そうです。仮にそれが犯罪に結びついたとしても。
何故か?自暴自棄の人間は「勝者」ではない。もうそれだけで十分じゃないでしょうか。
◇
ブルースの話。
全くその通りです。
わたしは「無名性」というものを尊びます。陶芸家であり民芸運動の創始者のひとりでもある、濱田庄司だったか、自分の作った作品に「銘」を入れないという。濱田ではなかったかもしれません。
同時にわたしは「ホーボー」たちを心から敬愛するものであるがゆえに、有名になること、スポットライトを浴びることを拒むことを何故しなかったのかと思うのです。
山田花子は漫画を描く動機の一つとして、「有名になりたい。本や雑誌に載りたい」と書いています。わたしはこのことを微笑ましく思います。抵抗感はまるでありません。
(しかしそれは彼女の人生を俯瞰し得る今だから言えることでしょう)
現にわたしは、本を売るために奔走する辺見庸に見切りをつけました。
山田花子の「有名になりたい!」と、辺見庸の販促活動。いったい何が違うのでしょう?
何故山田花子は許せて、辺見庸は許せないと感じるのか?
また生前一冊も詩集を出さなかった詩人、エミリー・ディキンソンは、
「出版は卑しい行為
天から降ってきた白い雪は
白いまま神に返すべきだ」
という詩を残しています。
有名になって、レコードを出して、美味い酒を飲んで何が悪いと言われれば返す言葉もありませんが、高級ブランドのスーツを着て、ベンツに乗るBBキングなどを見ると、なにか引っ掛かりがあるのです。
それは決して、黒人が有名になることへの忌避感でないことは、あれほど愛読していた辺見庸への気持ちが一気に冷めたということからも分かってもらえると思います。
極論すれば、自暴自棄による殺人を、有名になるための活動よりも、また有名であることよりも、「上位」に置くのです。
わたしが確信を持って言えるのは、差別を受けることも、いじめられることも、貧しいことも、社会保障で生きることも全く、全く、彼らの責任ではない。と言うことです。
無論わたし個人に関していえば、「愛されざる者」であるのは「わたしの責任」という気持ちから抜け出すことは不可能でしょうけれど。
こんばんは。
返信削除ここで、ぼくが「満たされること」とか「与えられるべきもの」と言ったのは、「現実に満たされた経験」や「既に与えられたもの」と言うよりは、「その機会」です。
つまり、Takeoさんの場合、それらのものが与えられる前に、「その機会」が得られなかったということのように感じるわけですね。
これは、多くの精神疾患の方たちにも共通のことかもしれませんが、昔の時代までは、ごく当然のこととして「与えられていたもの」が「現在」と言う時代には、与えられないケースがとても多くなってきていると思います。
そして、それがきっかけとなって、心に病が定着してしまうことがとても多いように思われてならないのです。
そして、そういうのは、はた目に見て、「いかにもかわいそうなケース」であるとは限らないような気がします。
(例えば、「虐待」や「いじめ」や「両親の喪失」などのような)
ほんのちょっとしたことでも、それが与えられるべきタイミングや内容を失してしまうと、時には「精神疾患」と直結してしまうと思います。
また、「精神疾患」に至らずとも、社会の中で生きにくく成ってしまったりすることも多いでしょうし、逆にそこに対する反発から、極端な「社会順応性」を身に着けてしまう人なんかも居るという気がします。
いわゆる「仕事中毒」のような人も、何かが「与えられなかった人」であることが多いのかなと言う気がしますね。
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ぼくは、「テロリズム」を全面的には肯定はしませんが、そこに「自己犠牲」がかかわっている場合は、少なくとも「自己保身的な穏健さ」よりははるかにましだと思っています。
(実際は、ほとんどの「テロリズム」に「自己犠牲」はかかわっていますが、同時に「自己保身」も関わっている場合が多いので、必ずしも肯定できなくなります)
たとえば、「自由革命」も「ガンジーの非暴力主義」も一種の「テロリズム」だと思っていますし、「キング牧師の平和大行進」も、大きな上からの力に対する反逆と言う意味で、テロ行為だと思います。
それどころか、イメージの違いが大きいために、こんなことを言っても、だれにも相手にはしてもらえませんが、ぼくは、「引きこもり」も「今の時代における精神疾患」もテロリズムや革命と同じような意味を持っていると思っているほどです。
つまり、そういうモノを「体を張った無言の抗議」であると考えているわけです。
そういう生活をしている人たちにとっては、そんなこと言ってもなんの救いにもならないでしょうし、意識してそういうことをやっている人は、ほとんどいないでしょうから、だれからも相手にしてもらえません。
でも、まぁ、そういうことです。
では、また。