2019年6月19日

自己喪失、或いは予めの非在としての自己



いまのわたしはまったくなにもわからない。

どうやらみちにまよっているようだ。

けれどもいったいどこへいきたいのか?

どこへいくつもりだったのか?

それよりも、わたしはいまどこにたっているのか?

なぜいまここにいるのか?




2 件のコメント:

  1. Ciao Takeoさん
    Takeoさんの問いを自分に問いかけてみました。
    するとこういう事に気付きました。
    気付く。と言うより、ずっと前からこうなのですが、あえてそれを言葉というものにして脳裏に浮かべて、認識したことは今までなかったように思います。

    私は、道に迷いません
    道に迷うという事は、行こうとする目的地があるから、迷う、という状況が生まれるのだと、そう考えますが、私には大体行きたい場所とか辿り着きたい場所とか、そういう目的地がないのですから、だから迷うことがないのです。

    自分の前に続く道をひたすら歩かなければいけないとも思っていません
    ずっとここに立ち止まって、地面を歩く蟻たちを見つめ続けていてもいいと思っていますし、気が向いたらぶらぶら少し歩いてみてもいいなと思っていまし、当然後戻りもしたりするでしょう。

    大体、人間をも含め生き物に行き先などあるのだろうか?とも考えます。

    なぜ、ここにいるか
    生きるため
    一応、生を与えられたので、、。
    私は生きる。という行為を行うためにここにいるのだと思っています。
    生きるために生きる。
    それで充分な気がしています。
    その代わりに、医師からの治療をも含め、一切の延命行為は行わないと決めています。
    よっぽどの、我慢できない、つまり生を最後まで全うできないほどの痛みに襲われない限り、ですが、、(また痛みの話になりましたが 苦笑)



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    1. こんばんは、Junkoさん。

      Junkoさんの言われていることはよくわかります。わたしにも、「目的地」も「目的」も「ゴール」も、「行くべき場所」もありません。その点ではJunkoさんと変わらないと思います。
      では何故わたしは「みちにまよう」と書いたのか?今のわたしに言えるのは、本文よりも、タイトルの方がわたしの本心に近い、ということでしょうか・・・

      「私」が「私の行くべき途」を見失った、或いは「迷った」わけではなく、「私そのもの、それ自体」がなくなっている。と言えばいいでしょうか。

      ですからタイトルと本文の間に、意味のギャップが生じています。



      >なぜ、ここにいるか
      生きるため
      一応、生を与えられたので、、。
      私は生きる。という行為を行うためにここにいるのだと思っています。
      生きるために生きる。
      それで充分な気がしています。

      ここがJunkoさんとわたしとの大きな差なのでしょう。

      「ただ生きるために生きる」ということを、尊いこと、と頭では思いつつも、自分にはやはり「生きがい」といったものが必要なのです。
      「生きがい」について繰り返し書き、それがなければ人は生きていけないという立場に立っていたのが、神谷美恵子さんです。以前も書きましたが、「ただ生きるためだけに生きている」人たちのどうしようもない哀しみと、そこに見出せる美しさを(友人宛ての手紙で)書いたのが芥川龍之介です。

      二人の意見、価値観は対立しているわけではありません。神谷氏は癩病患者の精神科医として、患者さんたちに少しでも希望を持って生きてほしいと願いました。
      目が見えなくても、手足が(病のために)無くなっていても、少しでも希望を持ってほしい、そしてどんなに些細なことでも生きがいになり得るのだと。

      芥川は自身の死を前にして、ただ生きるためだけに生きている人たちの尊厳と美しさを見たのだと思います。

      わたしは今、永山則夫の本を読み始めたところですが、彼のような、或いは秋葉原事件の加藤智弘くんのような人間の存在は、わたしにとっての『救い』であると感じています。
      だからわたしはどうしてもすべての人が幸せになってほしいという願いを持つことができないのです。

      また今わたしは「非在」としての存在ということに関心を抱いています。
      それは正にわたしが、永山則夫や加藤智弘がそうであったように、また今現在そのように感じている何万人(?)もの孤絶した人たちと同様、「どこにもいない人」であると感じるからです。

      そして最後の告白に心から共感します。

      コメントをありがとうございました。

      追伸

      スマホの存在する時代に「孤独」だの「孤立」「孤絶」なんていう昔の情動が存在し得るのかどうかは定かではありませんが・・・

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