2019年6月2日

無題


なんなんだろうこの不思議な感覚は。

身体的には(少なくとも自覚的には)以前このブログを熱心に読み、屡々誠実な人柄を
偲ばせる真摯なコメントを送ってくださった(鬱病を患っておられる)Sさんの訴えるような、気分の落ち込みに伴う身体の不調は皆無、といっていいくらいで、窓から流れ込む初夏の夕暮れの風が気持ちいいなあとさえ感じる。

と同時に、とにかく生きていること・・・というか、存在していること、この世界に「在る」ということが、ほとんど堪えられないまでに、面倒くさい。「わたし」という「形状」を維持していくことが、とてつもない難事業である。

過去に引用したことのある木村敏の言葉を再び・・・



ハイデガーも言うように、われわれは自分自身がこの世の中に存在するという事実の根拠を、決して自分自身の手に引き受けることができない。われわれがこの世の中にあるという事実は、われわれ自身にとっては、実は一つの負い目に他ならない。われわれは、自分自身の存在を負わされている。

「かりそめのこの存在の時をおくるには / 他の全ての樹々よりもやや緑濃く / 葉の縁(へり)ごとに(風のほほゑみのやうな)さざなみをたててゐる / 月桂樹であることもできようのに / なぜ、人間の存在を負ひつづけなければならぬのか ──」とリルケは歌う(『ドゥイノの悲歌』第九 手塚富雄 訳)そしてまた、「地上に存在したといふこと、これは取り消しやうのないことであるらしい」(同)と言い、「それゆえわれわれはひたむきにこの存在を成就しようとする ── 地上の存在になりきらうとする」(同)と言う。

われわれは常に、取り消しのつかない事実としてこの世に生きており、しかもこの存在の「成就」には後れをとっている。つまり自己を完全に自己のものとして引き受け、本来の自己自身の存在になりきろうとして、果たせないでいる。われわれが人間として存在するということ自体が、すでにまったく未済的性格を帯びている。

木村敏『人と人との間』ー精神病理学的日本論ー(1972年)より、第二章「日本人とメランコリー」



嘗てこの投稿をしたとき、東大出の幇間が、「今どき木村敏なんて。まあ古い本読んじゃって」と失笑していたことを忘れない。













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